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2005/12/27

上田秋成作『雨月物語』

 上田秋成(1734‐1809)作『雨月物語』(高田 衛/稲田 篤信 校注、ちくま学芸文庫)を読了した。
 一時期、小生にとっての日本文学での読書上の空白の期間である江戸文芸を多少とも埋めようと、弥次さん・喜多さんで有名な十返舎一九(1765‐1831)の『東海道中膝栗毛』や井原西鶴(1642‐1693)の『好色一代男』、あるいは近松門左衛門の心中モノなどを読んでいったのだが、ついに時間切れ(失業保険金給付期間の終了)で、山東京伝(1761‐1816)の『忠臣水滸傳』も、滝沢(曲亭)馬琴(1767-1848)の『南総里見八犬伝』も、手付かずに終わってしまった。
 江戸というと、松尾芭蕉や小林一茶や良寛、与謝蕪村などの俳諧系統の作品には折々触れることはあったが、広く文芸ということになると、小生にとって極めて手薄な時代なのだった。
 無論、菅茶山、竹田出雲、鶴屋南北、為永春水など、名立たる逸材が未踏どころか、名前に接するのもやっとという現実が今、ある。
 まして、賀茂真渕、伊藤仁斎、藤田東湖、吉田松陰、荻生徂徠、新井白石、山崎闇斎、富永仲基、山片播桃、中江藤樹、三浦梅園、熊沢蕃山など、もう、数知れない思想家に至っては、いつの日か触れるという意欲すら自分の中にあるとは思えない。平賀源内らの畸人も逸したくないし。
 地方には、郷里の先覚者を顕彰するサイトが少なからずあるのに、こと、東京(江戸)に限っては、「荻生徂徠や新井白石や徳川思想史のウェブを作ろうと一念発起する人間を一人も作り出すことはなかった」と嘆いているサイトがあった。但し、98年の時点での嘆きである。
 以後、事情は少しは変ったのだろうか

『古今集』や『源氏物語』、あるいは『平家物語』などを読まれる方は、結構いるようだが、江戸期の文芸・思想については案外と手薄なのではないか。せいぜい、浮世絵などを御覧になる機会を得るよう努めるくらいのものか。
 自戒を込めて言うと、もっともっと江戸期の文芸に光を! と思う。

 さて、『雨月物語』をやっと、読むことができた。面白そうだが、文章が手ごわそうで、敬遠していた嫌いがある。読んで、自分の偏見というか先入見に囚われすぎていたと、つくづく思った。
 本書には書き下し文と、現代語訳と、それに語釈と評が付されている。
 一読して、とにかく読みやすい。それは校注された方々の苦労と配慮の賜物であることは言うまでもないが、作者である上田秋成の文章・表現への拘りがあればこそなのだということを感じさせられた。
 読みやすいが、しかし、味読しようと思ったら、それこそ、奥が深い。歴史の積み重ね(それは教養の堆積をも意味する)を実感する。古今の文芸への造詣を上田秋成が駆使して、同時に彼の若き日よりの読み本体験から得た、読んで面白くワクワクさせる読み物にするという読み本家魂が行き渡っているのである。

 この物語の概要は、例によって、いつものサイトの説明に拠るのが、小生如きの下手な案内より、遥かにましである:

 9個の物語が円環状になっていて、別個の話でありながら通底している。
 最初の話は、「白峰」だが、これは、讃岐に流された崇徳上皇と西行との怨念を巡る対話が物語として綴られている。
 この崇徳上皇の後白河朝廷に対する恨みの話については、下記サイトにて簡略に知ることができる:

 西行は、実際に讃岐へ行き、崇徳上皇の荒れ果てた墓に参りに行ったことは知る人も多いだろう。「白峰」では、その際に、西行が墓にて怨念の塊と成っている崇徳上皇と<対話>したという話になっているのだ。
 白峯というのは、後に崇徳院の院号を贈られた崇徳上皇が葬られた地の名称である。
 この怨念というのは、大袈裟ではなく、日本の歴史を左右してきたといってもいいのではなかろうか。平清盛の非業の死さえ、院の怨霊の祟りだと言われたりする。保元・平治の乱は、言うに及ばずであろう。聖徳太子の怨霊。菅原道真の怨霊と平将門の乱・藤原純友の乱:
菅原道真公と天神縁起

 平和が続いた江戸も18世紀の終わりになってさえ、その重しが圧し掛かっていたとも言えないでもない。
 しかし(後述するが)別の観点から考えると、ある意味で怨霊伝説が上田秋成により、「雨月物語」という物語空間に封じ込められたとも言えるような気がする。
 つまり、一面において、執拗に生き残ってきた怨霊への目にしようのない恐怖感が実感としてありつつも、どこか夢の中の出来事のようでもあり、上田秋成はその崇徳院の怨霊にリアリティを得つつ、実際には物語においては、武士だけではなく町民の次元へも怨霊を水平化したのだと考えられる。
 物語化に成功したことによって、ようやく歴史の重しが取れたのだとも受け止められるのだ。

 さて、これまた例によって、松岡正剛氏が「千夜千冊」において、『雨月物語』(鵜月洋訳注、角川文庫)を採り上げている。本書について、しっかりした理解を望まれるなら、此方を覗かれるがいいだろう。
 ただ、松岡氏は、「『雨月物語』の裏に『水滸伝』がある。都賀庭鐘の影響が濃い」とされるが、下記のサイトを読むと、話はもっと広がった形で理解されるべきと感じられるかもしれない:
『江戸読本の研究』 序章   江戸読本研究序説  高木 元

 このサイトによると、江戸の読み本については、前期と後期に分けられるという:

 

都賀庭鐘の『古今奇談英草紙(はなぶさぞうし)』(寛延二年)や上田秋成の『雨月物語』(安永五年)などは、中国白話小説を翻案するという方法により、近世中期に上方の知識人の手で作られ、上方で出板された短編怪談奇談集で、これらを前期読本と呼んでいる。一方、山東京伝の『忠臣水滸傳』前後編(寛政十一年・享和元年)以降、主として江戸の作者によって作られ、江戸で出板された中長編伝奇小説、たとえば曲亭馬琴の『南總里見八犬傳』(文化十一年~天保十三年)などを、後期読本あるいは江戸読本という。

 ここにもあるように、上田秋成の『雨月物語』は前期に属する。
 この前期の読本の特徴は、中国白話小説などに、我が国の古典を含め、相当程度に典拠し、その上で作者である都賀庭鐘や上田秋成が、懸命にその翻案を試みたという点にあるようだ。従って、時代考証とか作中の風俗描写にまでは考慮が及ばない。敢えて、不毛な指摘をすれば、その点に限界があるということになるかもしれない。
 但し、そのことが作品の不毛さに直結しないことは言うまでもない。
 それが、後期の山東京伝、まして曲亭馬琴となると、様相を一変する。
 上掲のサイトによると、「物語の時代設定と作中の風俗描写とは別であるとするのも、江戸読本の採った立場の一つである」という。
 さらに、以下のように続く。「史的〈事実〉に対する徹底した考証なしには虚構小説を生み出すことはできない。なぜなら実体を幻視する装置、すなわちそれが考証という手段であり、これなしには幻想を紡ぎだすことはできなかったからである。また読み手の側も、考証を通じて知識を補完することにより、たとえ時代設定と風俗描写との齟齬があろうとも安心して理外の仙境に遊ぶことが可能だったのである」
 そもそも史実という発想など、上田秋成にあったかどうか。あるいはそういった発想が必要だったのかどうか。そんなことに拘っていたら、崇徳院と西行の対話で物語を始めるという着想など浮かぶはずもない。
 様々な古典に時代を超えて典拠することで、初めて自由な翻案が成ったのだろう。

 それにしても、そもそも雨や月へのこだわりは、何処に由来するのだろうか。
 上田秋成の個人的な資質なのか。それとも時代の潮流のようなものがあったのか。

 ま、素直に考えるなら、本書の「序」に作者による題名の由来が記してある。その言葉に従うのが筋だろうか。
 即ち、「(前略)明和五年の三月、雨が上がって晴れ、月がおぼろの夜、窓のもとで編成して書肆に渡した。題して雨月物語ということにした。剪枝畸人記す」という。

 この「剪枝畸人」について、本書の語釈に拠り注釈しておくと、「剪枝」の「剪」は、庭木の剪定という場合に使われるように、「木を剪(き)る」の意であり、「枝は手足に通じる。秋成は両手指に障害があったので、自嘲的につけたペンネームであったと考えられる」という。
 但し、本書の評には、以下のような説明も載っている。つまり、「中野三敏氏は、『荘子』の思想的摂取をみ、この戯号には「無用の指を剪(き)りとった、天にもひとしい真人」の意がある(「寓言論の展開」)可能性に言及している」というのである。

 本書や上田秋成については触れたいこと、触れるべきことが際限なくあるようだ。例えば、のら者としての上田秋成、和訳太郎としての秋成、秋成の師事した加藤宇万伎(うまき、美樹と書くこともある)との出会い、そしてなんといっても、物語世界の語り手としての秋成(あるいは雨や月のこと)。
 最後の点こそ、肝腎な事柄なのだが、まさに小生の苦手とする所である。本書の解説から、ほんの一部だけを抜書きさせてもらう。あとは、読者自ら本書に当って欲しいのである。
 
 

では全体としての『雨月物語』の基本的性格は何であるか。右のような円環的構成が示唆するのは、それが読者の日常の言葉の世界を隔絶し、注意ぶかく架空の境界に自閉する<言葉の森>の世界だということである。この<言葉の森>の構成要因としての言語は、幻想や夢や超現実を喚起する力を秘めつつ、全体としての<言葉の森>の原始性や奥深さ、不気味さや神秘感に融合している。

 
 そう、言葉の森というのは、言い得て妙かもしれない。
 夢の中なのか、それとも、いつの日か現(うつつ)で覚え知った経験なのか、あるいは、読んだことさえも忘れ去った物語の虚空間に心底から遊び浸った夢見心地の旅なのか、その虚の森に降る雨、或いは雨上がりの森の方空に煌々と照る月の眺め、そうした風景をこの世の全てを忘れて眺め入ることで初めて浮かんでくるような、しかとあるとは言えない、しかし、それ以上に決してないとは言い切れない言葉の森という虚空間。
 そうした空間を実現出来て初めて歴史の中に見え隠れしてきた怨念を市井の情念と水平化する形で封印することが可能となったのだと思う。そうすることで、個の意識・自覚が可能となったとも考えられるのではなかろうか。
                (04/07/30付けメルマガにて公表)

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