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2005/12/27

秋成の「雨と月」をめぐって

 過日、上田秋成作『雨月物語』を読了した。
 その感想文は、書き終えたのだが、どうも、触れるべき事柄、しかし到底、触れることなど考え及ばない事柄があまりに多すぎて、気分的には中途半端なのである。本作が含むものが多彩であり、読了したといいつつ、むしろ、<言葉の森>を通り過ぎたに過ぎないからなのだろう。

 さて、感想文にも書いたが、本作の表題にある「雨月」だが、上田秋成自身の「序」での説明は、あまりに呆気ないものである。即ち、「(前略)明和五年の三月、雨が上がって晴れ、月がおぼろの夜、窓のもとで編成して書肆に渡した。題して雨月物語ということにした。剪枝畸人記す」というだけなのだ。
 数々の物語は、いずれも古来よりの古典に典拠するのだし、「雨月」も、いずれ、何かの古典に由来するのかもしれない。

 それはそれとして、小生なりに雨と月を巡る徒然なるままの、それこそ随想は試みたくてたまらない。とりあえず、「雨の目蛇の目」においては、雨に纏わる歌謡曲や蛇の目傘を中心に雨の話題に軽く触れている。「梅雨入りに傘のことなど」においても、さらに傘、しかもビニール傘に拘って、やはり雨を意識して、雨の周辺を巡ってはいる。
 しかし、雨の日に傘を差しているというのは、それはそれで風情があるし、やむを得ない仕儀ではあろうが、肝腎の雨の感覚が傘に遮られている感は、どうしても否めない。
 もっと、雨に降られ、雨に祟られる感覚を味わっておきたいと思ったりする。
 それにしても、まず、思うのは、「雨月」という組み合わせの妙である。
 というより、率直なところ、両者は両立しない。雨が降っているなら、月影は見えないし、月が照っているなら、少なくともその間は雨が上がっている、それも、雨雲が通り過ぎているのでなければならない。

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上田秋成作『雨月物語』

 上田秋成(1734‐1809)作『雨月物語』(高田 衛/稲田 篤信 校注、ちくま学芸文庫)を読了した。
 一時期、小生にとっての日本文学での読書上の空白の期間である江戸文芸を多少とも埋めようと、弥次さん・喜多さんで有名な十返舎一九(1765‐1831)の『東海道中膝栗毛』や井原西鶴(1642‐1693)の『好色一代男』、あるいは近松門左衛門の心中モノなどを読んでいったのだが、ついに時間切れ(失業保険金給付期間の終了)で、山東京伝(1761‐1816)の『忠臣水滸傳』も、滝沢(曲亭)馬琴(1767-1848)の『南総里見八犬伝』も、手付かずに終わってしまった。
 江戸というと、松尾芭蕉や小林一茶や良寛、与謝蕪村などの俳諧系統の作品には折々触れることはあったが、広く文芸ということになると、小生にとって極めて手薄な時代なのだった。
 無論、菅茶山、竹田出雲、鶴屋南北、為永春水など、名立たる逸材が未踏どころか、名前に接するのもやっとという現実が今、ある。
 まして、賀茂真渕、伊藤仁斎、藤田東湖、吉田松陰、荻生徂徠、新井白石、山崎闇斎、富永仲基、山片播桃、中江藤樹、三浦梅園、熊沢蕃山など、もう、数知れない思想家に至っては、いつの日か触れるという意欲すら自分の中にあるとは思えない。平賀源内らの畸人も逸したくないし。
 地方には、郷里の先覚者を顕彰するサイトが少なからずあるのに、こと、東京(江戸)に限っては、「荻生徂徠や新井白石や徳川思想史のウェブを作ろうと一念発起する人間を一人も作り出すことはなかった」と嘆いているサイトがあった。但し、98年の時点での嘆きである。
 以後、事情は少しは変ったのだろうか

『古今集』や『源氏物語』、あるいは『平家物語』などを読まれる方は、結構いるようだが、江戸期の文芸・思想については案外と手薄なのではないか。せいぜい、浮世絵などを御覧になる機会を得るよう努めるくらいのものか。
 自戒を込めて言うと、もっともっと江戸期の文芸に光を! と思う。

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2005/12/19

松岡正剛著『遊学 1』

 [ 新聞でも伝えられていたが、松岡正剛氏の「千夜千冊」が過日、目出度く千夜つまり千冊を達成された。その記念すべき千夜を、「『良寛全集』(上下)」で迎えられたのは、何故なのだろうか:
 「第千夜【1000】04年7月7日」 ]
 

 順序が逆になったが、松岡正剛著『遊学 2』(中公文庫)が車中で読むには具合が良かったので、引き続き、『1』も待機中の際などに読ませてもらった。彼の読書や思索を巡る渉猟を目くるめくような感を覚えつつ、そうかそういう視点があったのかとか、そんな背景があったのかと、それなりの刺激を受けた。
 彼の文章の語り口が軽妙なのは、無類の落語好きの父君の感化で、子供の頃から落語を聞きに通っていたからなのだろうか。
 実際、彼の父君は、何人もの落語家を贔屓にしていたというし、祝儀をはずんでいたとか。落語だけじゃなく、父君は歌舞伎も新派も相撲も大好きで、それぞれに贔屓がいたらしいし、散財もしたのだとか。しかも、玄人中の玄人に惚れ込んでいいたという。
 あるいは、「NHKの歌舞伎中継にかじりついているときは、役者がセリフをいう前にそのセリフをうなってみせるのが得意だった」とか。
 落語家らの語りの妙。若旦那やら隠居やら、あるいは扇子を箸に見立てて蕎麦を食べる仕草などの芸、軽妙洒脱な語りと表情、聞くものをその世界に取り込んで放さない。
 松岡正剛の千夜千冊には、桂文楽の『芸談あばらかべっそん』(ちくま文庫など)を扱った回もある:
 そういえば、表題の書でも、三遊亭円朝(1839-1900)が採り上げられていた。

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2005/12/11

フロイト/イエンゼン共著『妄想と夢』

 ひょんなことから、過日より、幽霊談義に小さな花を咲かせていた幽霊に纏わる話だと、特に日本の幽霊の場合、足がない幽霊像が焦点になりがちである。
 不肖、小生もその点に触れてきた。

 そんな中、小生が気になっている本があった。それは、S・フロイトとW・イエンゼン共著の『妄想と夢』(安田一郎ほか訳、誠信書房)である(角川文庫にもあるし、「種村季弘訳 作品社」もあるらしい)。
 本書は、小生が学生時代に買って、鮮烈な印象が刻まれた本(フロイトの分析に感銘を受けたのか、それとも、イエンゼンの小説に静かな感動を覚えたのかは、今となっては記憶は、やや、朧である)。
 表題の『妄想と夢』は、正確には、「W・イェンゼン『グラディヴァ』における妄想と夢」である。要は、W・イェンゼンの書いた小説『グラディヴァ』に惹かれたフロイトが、彼なりの精神分析手法で読み解いた本なのである。本書には、ちゃんと、小説『グラディヴァ』が初めに掲載されているのがいい。

 W・イエンゼンという作家が書いた『グラディヴァ』という小説をフロイトが分析している。
 この小説のポイントは、ある実在するレリーフのグラディヴァという女性像の足である。主人公は、考古学の巣窟から日差しの当る外に出て、「左手で、軽やかに服をつまみあげながら」歩く女性のイメージを追い求める。町中でも、女性の足元にばかり目が向く。歩く際の、足の格好が気になる。そしてついに、イメージにあう足を持つ女性に巡り合う。その出逢った女性は、彼には全く予想外の女性だった…。
 そして、小説は、あるいは、小説をとことん腑分けせずには居られないフロイトの分析の魔手の行き先は…。

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2005/12/10

坂口安吾著『桜の森の満開の下』

 坂口安吾著『桜の森の満開の下』(講談社文芸文庫)を読んだ。本書は、表題作を含む短篇集である。
 例によって、本書の謳い文句を掲げておく:
 
 

なぜ、それが“物語・歴史”だったのだろうか――。おのれの胸にある磊塊を、全き孤独の奥底で果然と破砕し、みずからがみずから火をおこし、みずからの光を掲げる。人生的・文学的苦闘の中から、凛然として屹立する“大いなる野性”坂口安吾の“物語・歴史小説世界”。

 本書を読んで、改めて坂口安吾の歴史への造詣の深さや拘りを再認識した。さすがは、『日本文化私観』をモノするだけのことはある。作品にも歴史に仮託した物語が多い。
 さて、彼に付いて触れるべきことは多い。
 言及すべきこと、例えば、『不連続殺人事件』という探偵小説作家としての安吾や、「伊東競輪場でのレースの判定に疑問を抱いたことから競輪事件に発展。自転車振興会を相手に「光を覆うものなし-競輪不正事件」を書く、正義漢としての安吾、『堕落論』『続堕落論』『デカダン文学論』など、エッセイトとして、あるいは文明批評家としての安吾、あるいは『肝臓先生』に見られる人情味溢れる安吾…。

 ちなみに『肝臓先生』は伝記作品で、戦中に日本を脅威に陥れた流行性肝炎が背景にある。先年、今村昌平監督により柄本明主演で「カンゾー先生」として映画化されたことを知る人も多いのでは(テレビでも、この映画は放映された。もっと、話題の主になっていい人物の一人だ)。モデルとなった肝臓先生こと佐藤清一のことは、下記サイトに詳しい。是非、一度、目を通してもらいたい:
佐藤清一 孤軍奮闘たった一人で”流行性肝炎”と戦った肝臓先生    酒井嘉和

 他にも、父は大物議員だった安吾(それゆえの確執)、また、子供の頃は、ガキ大将だった安吾、持病が膀胱結石だった安吾、母との苛烈な憎悪関係に苦しむ安吾、矢田津世子との恋に苦しむ安吾…。
 この恋の話に興味のある方は、下記サイトを御覧下さい:
坂口安吾と矢田津世子
安吾の略歴

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バタイユ著『宗教の理論』

 ジョルジュ・バタイユ著『宗教の理論』(湯浅博雄訳、ちくま学芸文庫)を眺め通した。そう、文字通り、字面を眺め終えたというのが正直なところ。だから、ただの感想文さえも書けそうにない。
 ここでは、バタイユに絡む若干のことを書き綴るだけにしておく。
 そうはいっても、本書の性格を一般的にでも紹介しておく必要があろう。例によって本書の背表紙の謳い文句を転記しておく:

 

ミシェル・フーコーをして「今世紀で最も重要な思想家のひとり」と言わしめたジョルジュ・バタイユは、思想、文学、芸術、政治学、社会学、経済学、人類学等で、超人的な思索活動を展開したが、本書はその全てに通底・横断する普遍的な<宗教的なるもの>の根源的核心の考察を試みる。その視線が貫いていく先にある宗教の<理論>は、あくまで論理的な必然性まで突き詰められたものであり、矛盾に満ちた存在<人間>の本質を、圧倒的な深みをもって露呈させる。バタイユ死後に刊行された、必読のテクスト。

 この中で、「宗教の<理論>は、あくまで論理的な必然性まで突き詰められたものであり」というくだりには、納得できない。但し、「矛盾に満ちた存在<人間>の本質を、圧倒的な深みをもって露呈させる」には、心底、実感する。

 本書の初版は、85年だが、それをちくま学芸文庫に収めるにあたり、ほぼ改訳に近いほどに手を加えたという。
 訳者によると、「私見では、本書はニーチェの『道徳の系譜学』の系統に連なる思想書であり、<宗教>をめぐる思索として、ある堅固な根本思想と独自の視角からの探究を徹底して貫いた論考であ」るという。

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2005/12/08

読書拾遺『カトリーヌ・Mの正直な告白』

ラヴェルのボレロから牧神の午後へ」の中で、カトリーヌ・ミエ著の『カトリーヌ・Mの正直な告白』(高橋利絵子訳、早川書房)を読み始めたと書いている。
 内容は、出版社のレビューだと、「彼女は呼吸するようにセックスする。体のすべてを使って、いつでも、どこでも、だれとでも。フランス現代美術誌『アート・プレス』の女性編集長が、自らの奔放な性生活を赤裸々に明晰に描き、文学界を騒然とさせた自伝的作品」というもの。
 先週末、残りの部分を一気に読んだ。

 小生は、「セックス描写の連続とも思える『カトリーヌ・Mの正直な告白』は、確かに女性でなければ描けない女性の観点・生理・感覚があって、驚く面もあるが、それでも退屈はしないで読み通せそうな予感がある」と、上掲の記事で書いているが、確かに最後まで読み通した。
 本書にしても、やはり読んでいくうちに段々と退屈になっていく。セックス描写に尽きるわけだから、ややスキャンダラスな内容だったり、性的な冒険を試みたりしていても、結局は似たり寄ったりの叙述の連続になってしまう。
 エロ小説にしたって、退屈せずに最後まで読ませるのは相当な技術が要る(ようだ。どんな工夫や秘密が要るのか小生には分かっていない)。週刊誌などのたかが数頁のエロ記事でも、すぐに退屈してしまう。挿絵か写真がなかったら、文章を追っているうちに耐え難いほどの苦痛を覚える時もある。

 その意味では小生に最後まで一応は読ませたのだから、凡庸な内容ではない。というより表現力だろうか。ほんの時折だが、タイトルにあるように、彼女の告白の正直さ(決してえげつなくない。徹底して正直で率直であろうとしているから)が形而上的高みに届くかのような叙述に出会うことがある。
 快感とか興奮も悲しいかな人間は薬物でも使用しない限り、病的ならざる凡人は持続できない。すぐに新しい刺激を欲する。喉が渇く、呑みたい、性において渉猟的であれば(形の上では受動的な風を装っても、それは呼び込み誘う手口に過ぎない)、水呑み場はすぐに見つかる。特に若く醜くない女性であれば、草刈場は至る所、至る時に存在する。

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2005/12/03

トルストイ著『生命について』

 数年ぶりでトルストイ著『生命について』(八島雅彦訳、集英社文庫)を読んだ。
 読んだ…、と言い切れるのか、ちょっと危ういかもしれない。実のところ、読むのが辛かったのである。一見すると彼なりに論理的に書いているようで、必ずしもそうではなく、敢えて言えばパセティックな論理に貫かれていると言ったほうがいいだろう。
 読むものからすると(その世界に没頭出来る者には)ある種の共感をもって、波に乗るように読み進められるが、共感できないと、全ての言葉が右の耳から左の耳へ通り抜けていく。
 こうした評論風エッセイを読むと感じるのは、トルストイがやはり天性の小説家だということだ。『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』などは、読む者を物語や、あるいは個々の叙述の場面に浸らせてくれる。読んでいるうちに、いつしか滔々(とうとう)と流れる大河に浮かび漂っていていることに気付き、読者はただ作家の筆の導くがままに流れていけばいい。
 作家の世界にのめり込もうと思わなくても、豊穣なる世界、肥沃なる大地をしっかりと、今、歩いているという感じを持つことができる。
 それが、自らが思想家というか宗教的実践者として語りだすと、教条的であり、道徳臭が強く、不毛な意味で理屈っぽい。
 そう、彼は、上掲の大作を書き上げた後、小説家たることを止めて、社会的慈善事業などの実践者たる道を選んだのである:
トルストイ・年譜

 作家魂を捨ててまで、そうした世界に飛び込んだのならば、枯れたとまではいかなくても、何某かの宗教的高見に至るか触れるかしていればいいが、本書の末尾にある「鑑賞 ――ぼくたちの同時代人」の中で中沢新一氏も書いているように、トルストイほどに怪物的なまでの強い自己愛の持ち主はなく、まさに、本書は過剰なまでの自己愛の書であり、高尚な宗教的知恵を語っていながら、その実、トルストイ本人はその知恵から一番遠いことを、最初から最後までつくづくと感じさせられる。
 逆に言うと、その凄まじいエゴイストぶりを感得することに本書を読む(小生には)被虐的楽しみが或ると言えようか。その強烈な自己愛と告白衝動癖は、小説の場合も露骨に表れていたりするのだが、同時に彼の作家魂が、芸術的表現の中に韜晦してくれるので、臭みを感じるよりも感銘が深いのである。

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富岡多恵子著『丘に向ってひとは並ぶ』

 朝日新聞朝刊の読書コーナー「自作再訪」は、欠かさず読む。5月9日(日)は、富岡多恵子氏で、『富岡多恵子集9 評論?』(筑摩書房)所収の「室生犀星」だった。表題には、「言葉を読むよろこび 人を識る楽しさ識る」とあ
る。
 小生のPCでは、「しる」を仮名漢字変換させようとしても、「識る」は候補リストに出てこない。「識る」という表記に何か意味があるのだろうか。
 なんて、詩人に意味があるだろうか、と問うのも失礼な話だろう。言葉の表記には、人一倍神経を払うのだろうし、それを感得できない己の不明を恥じるべきなのだろう。でも、分からない。
 富岡多恵子氏は、詩人として作家人生を始め、『丘に向ってひとは並ぶ』で小説家デヴューを果たした。やがて、この「室生犀星」で、「言葉を読むよろこび 人を識る楽しさ識る」という味をしめたのだという。以後、中勘助、釈 迢空という詩人の評伝を書いていく。

 富岡多恵子氏の情報をネットで調べていて初めて気付いたのだが、かの篠田正浩監督作品の『心中天網島』(近松門左衛門原作)の脚本は、武満徹氏や篠田正浩氏と共同執筆だという。
 近松門左衛門

 この映画、小生の好きな女優、岩下志麻が際立っているのは別儀として、異色の作品で、冒頭には文楽のシーンが映し出されるのが印象的だった。
 ネットでこの映画作品について調べると、「冒頭は文楽のカットに始まり、そこに篠田監督と脚本の富岡多恵子との電話でのやりとりが音声でかぶせられます。あえて虚構性を前面にうち出すことで、観る側の小春や治兵衛への感情移入を排除しているかのようです」とある。
 そうそう、この映画には文楽のシーンだけじゃなく、黒子も登場するのだった
 音楽を担当していたのは、脚本作成にも関わった武満徹氏。
 とにかく、富岡多恵子氏は多才な方なのだ。

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