秋成の「雨と月」をめぐって
過日、上田秋成作『雨月物語』を読了した。
その感想文は、書き終えたのだが、どうも、触れるべき事柄、しかし到底、触れることなど考え及ばない事柄があまりに多すぎて、気分的には中途半端なのである。本作が含むものが多彩であり、読了したといいつつ、むしろ、<言葉の森>を通り過ぎたに過ぎないからなのだろう。
さて、感想文にも書いたが、本作の表題にある「雨月」だが、上田秋成自身の「序」での説明は、あまりに呆気ないものである。即ち、「(前略)明和五年の三月、雨が上がって晴れ、月がおぼろの夜、窓のもとで編成して書肆に渡した。題して雨月物語ということにした。剪枝畸人記す」というだけなのだ。
数々の物語は、いずれも古来よりの古典に典拠するのだし、「雨月」も、いずれ、何かの古典に由来するのかもしれない。
それはそれとして、小生なりに雨と月を巡る徒然なるままの、それこそ随想は試みたくてたまらない。とりあえず、「雨の目蛇の目」においては、雨に纏わる歌謡曲や蛇の目傘を中心に雨の話題に軽く触れている。「梅雨入りに傘のことなど」においても、さらに傘、しかもビニール傘に拘って、やはり雨を意識して、雨の周辺を巡ってはいる。
しかし、雨の日に傘を差しているというのは、それはそれで風情があるし、やむを得ない仕儀ではあろうが、肝腎の雨の感覚が傘に遮られている感は、どうしても否めない。
もっと、雨に降られ、雨に祟られる感覚を味わっておきたいと思ったりする。
それにしても、まず、思うのは、「雨月」という組み合わせの妙である。
というより、率直なところ、両者は両立しない。雨が降っているなら、月影は見えないし、月が照っているなら、少なくともその間は雨が上がっている、それも、雨雲が通り過ぎているのでなければならない。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
最近のコメント