ロラン・バルト著『表徴の帝国』
原題:ロラン・バルト著『表徴の帝国』夢の帝国?(04/05/24付けメルマガにて配信)
ロラン・バルト著の『表徴の帝国』(宗 左近訳、ちくま学芸文庫)を過日、読了した。原題は、『L'Empire des signes』で、直訳したら、「シーニュ(記号)の帝国」ということになるのか。
この場合、日本語が出来ないし、少なくとも来日当時は日本の文化に詳しくなかったロラン・バルトにとっては、日本の全てがエキゾチックであり、謎めいており、見るもの聞くもの味わうものの全てが、まるで夢の中のもう一つ違う世界に迷い込んだようにシーニュに満ちていたということなのだろうか。
が、本来、シーニュ(記号)は、明確な意味や約束や定義を課されている。誤解の余地があっては、そのシーニュを組み立てるわけには到底、いかないはずなのである。その意味からすると、シーニュの帝国というのは、そもそも思い浮かぶはずのないタイトルのはずである。手拭いに描かれた模様や文字も、知らないものには、記号ではなく、その土地の人々には日常的に慣れ親しんでいる、しかし門外漢にはあくまで曖昧模糊たる意味不明な符牒以上のものではないのだ。
が、ロラン・バルトは、あくまでシーニュの連なりを綴っていく。滑らかで透明な、とても光沢のある言葉を積み重ねていく。つまり、決して御飯粒のようには積み重なりも束の間とはいえ塊ともなるはずのない記号を彼の創造性の宇宙、異次元の宇宙、日本の重力圏とは違う宇宙であるしかない世界でしか構築されないクリスタルな造形を生み出している。
率直に言って、滑稽ですらあったりする。でも、バルトだから、笑うわけもいかない。最後の最後まで、バルトの言葉を理解できない己の不明と無知を恥じるのに忙しいし。
それこそ、我が日本のことについて書いてあるのに、読んでいる自分こそが夢の中に漂っていて、気が付いたら、ブラックボックスから吐き出され、一体、今まで自分は何処に居たのだろう、なんて、思ってしまう。まあ、これが日本の文化についてすら疎い小生の正直な感想なのである。
しかし、これでは、あまりに印象に寄り添い過ぎている。
なので、ロラン・バルト自身の言葉を引用しておこう:
わたしは日本についての本を書いたつもりはない。これはエクリチュールについての本である。日本を使って、わたしが関心を抱くエクリチュールの問題について書いた。日本はわたしに詩的素材を与えてくれたので、それを用いて、表徴についてのわたしの思想を展開したのである。
本書の末尾には、訳者である宗 左近氏による解説が付されているが、小生には本文以上に理解が及ばなかったので、まるで参考にならなかった。
仏文学者であり詩人でもある宗 左近氏の名前を知ったのは、『日本美 縄文の系譜』(新潮選書)によってだった。
縄文文化に関心のある小生は、一時期、その関連の書籍を読み漁っていて、梅原猛氏や岡本太郎氏などと並んで(無論、縄文文化などを研究する専門家は当然だけれど)縄文文化の美や独自性の素晴らしさに早くから気付き、世に喧伝していた一人としての宗氏に近付いたのである。
せっかくなので、上掲書『日本美 縄文の系譜』の謳い文句を引用しておこう:
日本の芸術の、ひいては精神の抑の母胎は縄文です。だが、弥生に征服されて歴史の地底に埋められました。その上に近代化が行なわれました。それが、今日の日本の心の衰頽を招いたのです。しかし、闇の中の伏流水となって、縄文の祈念は流れ続けてきました。時に、それは歴史の上層に縄文の虹を噴上げました。その虹を見つめて、日本人の愛は何であるのか、日本人の未来は何であり得るのか、それを探り出そうとするのが本書です。
さらについでなので、下記サイトにて、宗 左近氏の詩人としての仕事のほんの一部を垣間見てみよう。
中でも、代表作ではないのかもしれないが、「火焔土器」という詩をどうぞ。岡本太郎ばりのスケールや迫力を覚えるのではないか。どうも梅原猛氏や岡本太郎氏、そして宗 左近氏と、無骨なまでに直に対象を愛する方が縄文文化に惹かれるようである。
そう、氏は、高校などの校歌の作詞も手がけており、その作曲をかの三善晃氏が担っておられたりする。宗 左近氏が作詞された某高校の校歌をちらっと覗いてみよう(結構、自慢気なので、覗くと喜ぶかも、歌えば、もっと喜ぶ?)。
どうも、脱線が多い。本題に戻ろう。
本書は、1966年から1968年にかけて数度来日した体験から生まれた本であり、スイス・スキラ社から《創造の小径》シリーズの一冊として70年に刊行されたもの。多くの図版が掲載されている(それら写真を眺めるのも、結構、楽しい。のっけから舟木一夫の凛々しい若武者像だったりする)。
もう、知悉されている本なのかもしれない。
ここまで読んでくれた方へのお礼に、本書の一部を引用しておきたい。ただただバルトのシーニュの宇宙を楽しめばいいのだ。項目は、「箸」である。
まず、榎本其角の俳句を引用した上で(瓜の皮水もくもでに流れけり)、そのフランス語訳が示されている。それを(宗 左近氏により)、日本語に訳すと、下記となる:
切断された胡瓜
その汁が流れている
蜘蛛の脚を描いて
微小なものと食べうるものとの合一が、ここにはある。ものは、小さいからこそ食べられる。だがまた、食べられて人間を養うものだからこそ、ものはその本質、つまり小ささという本質をみたすことができる。東洋の食べものと箸との協和は、機能と、道具の面だけにとどまりえない。食べものは、箸でつまみとれるように分断される。だが同時に、食べものを小さな断片に分断するためにこそ箸は存在する。分断する運動と分断された形そのもの、これが分断する道具と分断された物質の性格を超える。
箸は、食べものを皿から口へ運ぶ以外に、おびただしい機能をもっていて(単に口へ運ぶだけなら、箸はいちばん不適合である。そのためなら、指とフォークが機能的である)、そのおびただしさこそが、箸本来の機能なのである。箸は、まずはじめに――その形そのものが明らかに語っているところなのだが――指示するという機能を持っている。箸は、食べものを指し、その断片を示し、人差指と同じ選択の動作をおこなう。しかし、そうすることによって、同じ一つの皿のなかの食べものだけを、機械的に何度も反覆して嚥み下して喉を通すことをさけて、箸はおのれの選択したものを示しながら(つまり、瞬間のうちにこれを選択し、あれを選択しないとう動作を見せながら)、食事という日常性のなかに、秩序ではなく、いわば気まぐれと怠惰とをもちこむのである。こうしたすぐれた知恵の働きのため、食事はもうきまりきったものではなくなる。二本の箸のもう一つの機能、それは食べものの断片をつまむことである(もはや西洋のフォークのおこなうような、しっかりと掴まえる動作ではない)。《つまむ》という言葉は、しかし、強すぎて挑発的でありすぎる(《つまむ》とは、性悪な娘が男をひっかける、外科医が患部をつまむ、ドレスメーカーのつまみ縫い、いかがわしい人間のつまみ食い、などをあらわす言葉である)。それというのも、食べものを持ちあげたり、運んだりするのにちょうど必要以上の圧迫が、箸によって与えられることはないからである。箸をあやるつ動作のなかには、木や漆という箸の材質の柔らかさも手伝って、人が赤ん坊の身体を動かすときのような、配慮のゆきわたった抑制、母性的ななにものか、圧迫ではなくて、力(動作を起こすものという意味での力)、これが存在する。(以下、略)
どうだろう。違和感を覚える叙述もあるが、読んでいて、結構、楽しいのではなかろうか。
何か日本人の挙措・動作というより、日本文化と西洋の文化との間に巨大な透き間があって、その大洋をそれなりに泳ぎの上手い人が妙技を披露しつつ泳いでくれている。日本の沿海部をなぞりつつ、演技を繰り広げられているし、その異次元の宇宙は、隔靴掻痒の感を免れないけれど、でも、我々が気付かない、しかし思わず知らずのうちに日常的に展開する空間の特殊性に思い至らせる喚起力はあるようでもある。
でも、そんなことより、一つの夢の宇宙に構築された日本という名の虚構空間をひたすらに堪能すればいいのではないか。
箸の文化などについては、下記のサイトに小生による簡単な記述がある:
「御飯茶碗と箸と日本」
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