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2005/11/06

モンテーニュ著『エセーⅡ―思考と表現』

 モンテーニュ著『エセーⅡ―思考と表現』(荒木 昭太郎訳、中公クラシックス刊)を過日、読了した。小生にとっては、「エセー」の四半世紀ぶりの再読である。初めて読んだ当時、面白いと思ったかどうか。
 それより若さに任せて大作の類いを強引に読み漁っていった、その一冊だったような記憶がある。それは、河出書房新社刊の『世界の大思想』シリーズの中にあったもので、『随想録』(松浪信三郎訳)という表題だった。
  さて、いつもながらの勝手な感想文を書き綴る前に、例によって、本書の謳い文句を転記しておく:

 

モンテーニュ[モンテーニュ][De Montaigne,Michel Eyquem]1533~92。フランスの思想家。ボルドー近郊モンテーニュの商業市民系の貴族出身。1554年からペリグー次いでボルドーの法院で評定官をつとめる。68年父の死によりモンテーニュの領主となり、70年37歳でボルドー高等法院参事を辞し引退を決意、自邸の管理と読書の生活に入る。書きとめた感想・論考を2巻94章の『エセー』として80年に出版する。81年から4年間ボルドー市長。以後さらに執筆をすすめ3巻107章『エセー』新版を88年に刊行。この著作がフランス・モラリスト文学の礎となった。

 モンテーニュの生涯について、大雑把なことは、これで分かるかもしれない。

 ついでながら、訳者である荒木昭太郎氏についても、本書から転記させてもらう。尚、荒木昭太郎氏には、『モンテーニュ遠近』(大修館書店)や『モンテ-ニュ 初代エッセイストの問いかけ』(中公新書)、訳書にマイケル・A.スクリ-チ著『モンテ-ニュとメランコリ-『エセ-』の英知』(みすず書房)などがあるようである(小生はいずれも未読):

 

荒木昭太郎[アラキショウタロウ]1930年(昭和5年)横浜市に生まれる。1953年、東京大学文学部フランス文学科卒業。東京大学教養学部教授を1991年に退官。その後東洋英和女学院大学社会学部教授を2001年まで務める。専攻はモンテーニュを中心とするフランス・ルネサンス期文学。東京大学名誉教授

 訳者である荒木昭太郎氏の著書『モンテ-ニュ 初代エッセイストの問いかけ』(中公新書)の副題に注目するのは意味のあることと思う。そう、モンテーニュはエッセイストであるというより、エッセイというジャンル、あるいは思考法・表現法・自己省察法を創始した人物(哲学者)なのである。
 上記のモンテーニュの生涯の紹介の中では、肝腎なことが抜けている。つまり、モンテーニュが生きた時代の世相である。まさに、その世情と向き合う形で、エセーが書き綴られているのだし、また、エッセイというスタイルが築き上げられたと思われる。
 別のサイトでのモンテーニュ(の生涯)の紹介を読んでもらおう。といっても、短い文面である。

 中に、「幼時からラテン語教育を受け」という項も見逃せない。彼は、フランス語はラテン語を習得した後に<学んだ>のである。が、ここでは、その点に深入りしない。
 それより、「1568年,父の跡を継いでモンテーニュ領主となるが,1571年,37歳で引退し,読書と著作の生活に入る。しかし,折からの宗教戦争に巻き込まれ,人間の思想のむなしさを感得する。」という項に注目すべきだと思う。
 さらにネットで読めるモンテーニュ論として、下記のサイトが参考になる(少なくとも小生の感想文よりは):
モンテーニュと現代世界」 G.C.ホーマンズ

 この中で、「『エセー』はすべての読み書きできる人の数少ない必読書の ひとつであるべきであります。しかし、人がその読書で最善の恩恵を受けるのは、在学中ではなく、大きな世界の経験を積んで後のことでしょう。」というのは、小生は実感を持って同感する。
 四半世紀を経て再読して、いろいろ感じることがあったし、自称エッセイの類いを書き綴るようになって、無性にモンテーニュを再読したくなったというのも、生意気かもしれないけれど、少しは世界を経験した(という感じがある)からでもある。
 さて、現下、世界は非常にきな臭い状況に立ち至っている。アメリカの突出した動きが世界を掻き回している。少なくともイスラム社会(だけではないと思うが)を揺るがしていることは否定できない。意図しているかどうかは別として、宗教戦争の様相さえ、下手したら帯びそうな雲行きなのである(背景にはイスラム系の人々の人口の増大がある。欧米には日本人には想像もつかないことのようだが、殊のほか、脅威と感じられるのだろう)。
 モンテーニュの、エセーが書き綴られた三十代以降の頃は、宗教戦争の最中なのだった。それは、「フランスにおけるカトリックとプロテスタント(ユグノー)間の宗教戦争の時代」だったかもしれないとしても、悲惨な状況が長く続いたのである。
 そんな中、『エセー』が書かれていく。上掲のサイトにもあるように、「モンテーニュは非常に多くの主題について書いています。瑣末に見える事柄から、明らかに重要と思われるものまで多岐に渡っています。それが彼の魅力の一つであります。彼は必ずしも真剣でなかったし、また、しばしば一貫性もありませんでした。それがまた魅力の一つ」なのである。
 千々に乱れる状況の中で、自己を人間を冷静に観察する。一つのテーマに沿って、腰を据えて探求するのではなく、状況に応じ、日々の心の動きに応じ、瑣末から壮大に至る話題を採り上げる。順序など関係なく、日記風でもあり、同じテーマを、何度も、繰り返し、但し違う角度から、古典に依拠しつつ採り上げる。
 ある程度、観察し探求したなら、深入りはしない。それはモンテーニュに探求する能がなかったということではなく、あるテーマについて、その都度に、必要十分な観察と探求と省察をしたなら、それ以上に瞑想的な沈思は避ける知恵があるということなのだろう。
 そうした姿勢に見合うものとしては、まさにエッセイという表現形式以外に採る在り様はなかったということでもあるのだろう。
 宗教的盲信の横行する中で、モンテーニュは、かの有名なモットーで応じる。
 そう、「私は何を知ろうか(ク・セジュ)」である。
 彼は懐疑に止まったという批判はありえるだろう。が、宗教戦争の最中にあって、敢えて懐疑の場に止まるというのは、なかなかに苦しいものなのではなかろうか。むしろ、勇気の要る意思を貫徹させる必要があったのではなかろうか。何かの立場に拠ってしまって、その立場から、世相を一刀両断する。そんなことができたなら、胸のすく思いがするかもしれない。
 が、それでは人間的な誠実さに欠ける。
 モンテーニュにとって、哲学とは、何だったのだろうか。単なる懐疑なのか。単なる保守なのか。懐疑の名の逃避なのか。学問という名の婉曲なる世捨て人たることなのか。
 恐らくは、モンテーニュにとって哲学というのは、真理以上に、真理を求める姿勢のほうがはるかに大事と心得る覚悟を意味していたのではなかろうか。モンテーニュの後にベーコンが、やがてパスカルがやってくる。
 松岡正剛氏も、さすがに忘れずに、「千夜千冊」の中で本書を採り上げている。

 小生は指摘できなかったが、モンテーニュが宗教戦争に狂奔する世相の中で、冷静さを保てたのは、マラーノの系譜に連なるという指摘も見逃せない。
 マラーノについては、「千夜千冊」第842夜で説明されている。
 あるいは、簡単な形では小生も触れたことがある

 最後に、肝腎のエセーという言葉についての説明だけはしておきたい。松岡氏の項でも、最後に説明されている。「エッセイというのはラテン語の「秤」から派生した言葉で、器具での計測のような意味をもっていた」と。
 また、「ということは、試験、検査、探索もみんなエセーであり、試験や検査や探索が成就しないこともまた、エセーなのである」と松岡氏は続ける。
 エセーとは、試論であり試考なのであり、試みなのである。巨大すぎて決して全貌など窺いようもない現実という岩山の絶壁を前にして、とにかく徒労であろうと、あちらこちらから攀じ登ろうとする、その試みなのだと思う。
                          (04/04/11)

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