松岡正剛著『遊学 2』
松岡正剛著『遊学 2』(中公文庫)を過日、読了した。車中で気軽に読むには、最適の本だった。まだ、『遊学 2』は入手していない。下記のサイトで、本書の概要の案内が読めた。当該部分を引用すると:
伝説の雑誌『遊』から生まれた『遊学』(大和書房)。古今東西より選ばれた巨人たち142人の消息を、松岡自身の体験をまじえ融通無碍に綴った空前の人物譜。古書店でも手に入らなかったこの幻の大著が、新たに加筆訂正され、『遊学I・II』として中公文庫より出版されます。9月25日発売。I巻はピタゴラスからエジソンまで、II巻はユインスマンからマンディアルグまでを収録
松岡正剛氏には『千夜千冊』などで随分、お世話になっている。いろんな本を読み、さて、読書感想文を書こうと、ネットで読書感想や著者についての情報を得ようとすると、小生が設定したキーワードのかなりのものが、『千夜千冊』の網に掛かってしまう:
まあ、彼に付いて小生如きが改めて紹介するに及ばないだろう。というより、ちょいと無理があると感じている。
彼の名前を知ったのは、伝説の雑誌『遊』の創刊号だった。
入手したのは、72年、小生が大学に入学した年である。
その年度には、まるで小生を圧倒するかのように、知の大洪水が起きた。青土社刊の『現代思想』が創刊されたのも、72年度末だった。創刊号が発刊されたのは、73年の1月の初めだったか。その時の特集は、「現代思想の総展望」だった。
書店に並ぶこの雑誌は、すぐに入手した。この雑誌は、それまで、哲学の啓蒙書や、高校二年の頃から刊行が始まっていた中央公論社の『世界の名著』シリーズでお茶を濁していた小生のやや窮屈な目をこじ開けてくれた。爾来、十年ほどは、毎月、律儀に購入していった。
同時に既に刊行されていた『ユリイカ』も、こちらはポツポツだが買っていく。他に思潮社の『現代詩手帖』も、さらにポツンポツンと買っていた。詩や文学は、哲学思想書ほどには読んでいなかったので、馴染みの詩人は、数えるほどもいなかったのである。
さて、青土社刊の『現代思想』に驚かされ、我が知見の狭苦しさを痛感させられつつも、しかし、それでも何か、真っ当すぎるものを何処かしら感じていた。もっと、知の世界は、奥行きが深いはずなのである。文学にしても、埴谷雄高でさえ、『ユリイカ』や『現代思想』では、その枠に捉えきれないではないか…、そんな感覚がなかったわけではなかったのである。
そこに登場したのが、『遊』(の創刊号)だったのである。とにかく、文学も思想も詩も素粒子論も芸術も、そうした既成の枠組みを取っ払ってくれるような雑誌であったのだ。
湯川秀樹も朝永振一郎も、岡潔も、ニュートンもアインシュタインも川端康成も谷崎潤一郎も泉鏡花も、パスカルやデカルトも、みんな一緒くたの土俵で読み返すような、自在な知の視座に飢えていたのだろうと思う。
講読はしなかったけれど、『アンアン』70年、『ノンノ』71年と、次々と創刊され、『ぴあ』も72年に創刊された。
1972年2月19日に始まる浅間山荘事件などで、学生運動への何処とない覚めた意識や警戒心も生まれていて、一つの時代の転換期でもあったように感じる。それまでは、多少はあった、日本の左翼系学生運動への一般の間からの支援や共感も、その事件を契機に、一気に萎んでいってしまった。
小生は、浅間山荘事件のクライマックスを尻目に大学の入学試験を受けていたのだった。そして、入学して間もなくして『遊』の創刊号に出会ったのだった。ある意味、学生運動の挫折は、学生が政治運動に関わること全般への警戒心というか、ウンザリ感を抱かせてしまったように思える。振り子が活動・運動から、内に篭りがちな<知的な運動>へと大きく振られてしまったのである。
大学のキャンパスが、都心や市街地からドンドン、郊外へと移されていった。大学同士の交流が、現実的に困難になってしまった。
学生が経済成長の恩恵を被る形でやや裕福になりつつあったこともある。
60年代後半から偏差値が導入され、学生・生徒が偏差値で序列化され、大学もその偏差値に基づいて序列化されていった。偏差値の齎した精神的不毛と得も言えぬ脱力感というか無力感というのは、当時(も今も)無視し得ぬものがあったように思う。
とにもかくにも72年前後は、学生にとっても転換期だったのである。
(今から振り返ってみると、かなりの部分が国家による演出であり、学生も社会も、その戦略に嵌ってしまったのではと思われる…。)
さて、肝腎の松岡正剛氏本人のことは何も書いていない。冒頭で書いたように小生が語る能はないのである。編集(編集工学!)の天才だと、今更、褒め上げても仕方ないだろうし。
それより、『遊学』を読んでいて、あるいは『千夜千冊』を折々参照してきた中で、薄々感じてくるようになったのは、彼が天性の編集者であり知のコーディネーターであるということだろうか。
逆に言うと、松岡正剛氏の思想的なオリジナリティの在り処が小生には見えないということでもある。あるいは、そうしたオリジナリティを個人に期待するという発想自体が、ピントがずれているということなのだろう。
正直な実感を言うと、本書『遊学』の末尾に至る頃には、目くるめく賑やかさは依然として覚えつつも、いささか退屈の感が漂っていたのも、事実なのだ。
何が一体、ただただ畏敬すべき彼に足りないと感じているのか。今は分からない。それはまた、別の機会があったならば、触れることがあるかもしれない。
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