ジョージ・エリオット著『サイラス・マーナー』
ジョージ・エリオット(George Eliot 1819~80)著『サイラス・マーナー』(土井 治訳、岩波文庫)を読んだ。誰もが読んだ、とはいかなくとも、名前だけは聞いたことのある小説だろう。
小生は、今回でこの作品を読むのは三回目となる。初めて、この小説を読んだ時の印象が薄い。
ついで、94年の失業時代に図書館から借り出した『ロモラ』がジョージ・エリオットを読んだ二作品めとなる。この『ロモラ』に感動して、彼女(そう、名前は男性だが、実は女性なのだ)の作品を他にも読みたいと思い、岩波文庫を改めて購入し、読み返したのが二度目(数年前)なのである。
ある意味、『ロモラ』の発見こそが、小生にとってのジョージ・エリオットの発見だったというべきだろう。失業していて、時間を持て余していたからこそ、挑戦できた大作だった。そうでなかったら、手にすること自体、ありえなかったろうし。
気に掛けて書店を物色しても、『サイラス・マーナー』はなんとか書棚の片隅にあっても、『ロモラ』が並んでいることなど、まずない(!)のだし。
ある意味、ジョージ・エリオットの作品は、どれも地味な作風であると言える。物語的には、展開がうまくて、最後にはハッピーエンドも用意されている。だが、読み始めると、最初の部分のやや暗いトーンに辟易してしまうかもしれない。
小生も、初めて読んだ時は、沈鬱な世界、そして主人公のサイラスの純朴で真面目なのだけれど、あまりの地味ぶりにうんざりしたものだった。だから、肝腎の後半部分の展開を走り読みしてしまい、味わうどころではなかったのである。
が、さすがに三回目となると、腰を据えて読む。ジョージ・エリオットの叙述の素晴らしさそのものを物語のドラマチックな展開よりも楽しんで読もうとしている自分がいた。
念のため、岩波文庫の表紙の謳い文句を転記しておく:
信じ切っていた友に裏切られ、人も世も神も呪う世捨て人となったサイラスの唯一の慰めは金だった。だがその金も盗まれて絶望の淵に沈んだ彼に再び生きることの希望を与えたのは、たまたま家に迷いこんできた幼児エピーの無心な姿だった。「大人のためのおとぎ話」として広く愛読されてきたエリオットの名作。
「大人のためのおとぎ話」…。たしかにそのようにも読める。
物語の展開に、いちゃもんめいた文句は付けられなくもない。
しかし、大方の人には、安心して作者の語り口に身を任せていたら、最後は漂着すべき場所に至り付き、気持のいい読後感に浸っているだろうと言っていいだろう。
が、同時に、「大人のためのおとぎ話」であるとしても、ゴドフリー(とその妻ナンシー)という副主人公が、物語の奥行きを深めてくれている。彼が若き日の過ちを犯すことが、エピーを生み、妻ナンシーを苦しめ(しかし、若干、妻ナンシーの苦しみが物足りない。それが、物語をメルヘンチックにさせてしまうのだ)、主人公サイラスを癒すことになる。
むしろ、このあたりが物語の読みどころなのかもしれない。
どんな作家にも長所・短所がある。このサイトによると、サマセット・モームはエリオット作品の短所として、「「情熱が欠けている」と評し」たという:
モームがどういう文脈でこのように評したのかは、分からない。
ただ、エリオットは、主人公を語ると同時に、物語の登場人物全てを陰翳ある描き方をする。下手すると、主人公は誰なのか、読んでいて分からなくなったりする。
キリスト教的価値観がしっかり彼女の中にあり、だからこそ、悪の道に惑うものをも、しっかり描けるのだろう。だから、つい、サブの登場人物にも共感してしまうのである。それが欠点として映る可能性は、ある。
でも、幾度も読むと、むしろ、そうした彼女の、つい踏み込んで描いてしまう作家魂を感じてしまうという面も、あるのであり、読むほどに彼女の世界に惹かれていく所以なのだと思う。
思えば、シャーロット・ブロンテの『ジェイン・エア』を読んだことが、小生の文学開眼体験となったのだった。イギリス文学には、ブロンテ姉妹や、ヴァージニア・ウルフなど、小生垂涎の女流作家がいるのだ。彼女等の作品も読み返したいものである。
ジョージ・エリオットの生涯については、このサイトが簡潔だ:
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