『メルロ=ポンティ・コレクション』(3)
引き続き、モーリス・メルロ=ポンティ(Maurice Merleau‐Ponty)著『メルロ=ポンティ・コレクション』(中山 元訳、ちくま学芸文庫)を扱う。ま、今回で最後にするつもりだが。
本書について、全般的な紹介を未だしていなかった。遅ればせながら、裏表紙にある謳い文句を転記しておく:
メルロ=ポンティの思想の魅力は、言いえないものを言うために傾ける強靱な思想的な営為にある。彼の思考の根幹にあるのは、客体であるとともに主体であり、見る者であるとともに見られるものであるという<身体>の両義性を考え抜こうとする強い意志である。この「身体」という謎によって開ける共同の生と世界の不思議さ……。
目次は下記の通り:
言語について
表現としての身体と言葉(『知覚の現象学』から)
言葉の問題(『コレージュ・ド・フランス講義要録』から)
身体について
問い掛けと直観(『見えるものと見えないもの』から)
絡み合い――キアスム(『見えるものと見えないもの』から)
自然について
自然の概念(『コレージュ・ド・フランス講義要録』から)
政治と歴史について
プロレタリアから人民委員へ(『ヒューマニズムとテロル』から)
歴史の理論のための資料(『コレージュ・ド・フランス講義要録』から)
個人の歴史と公共の歴史における「制度」(『コレージュ・ド……』から)
芸術について
セザンヌの疑い(『意味と無意味』から)
要はポンティの主著などからの抜粋論文集なのであり、ポンティの思想や文章に馴染みでないものには、やや取っ付きが悪い。ま、本書を読んで、興味を持った論文があれば、その元にある主著へ移っていけばいいのだろう。
その分、訳者であり編者である中山元氏による丁寧な解説が末尾にある。
小生などは、「セザンヌの疑い」という章などが、セザンヌ論で、初めて読むに値する文章にめぐり合ったという気がしたものである。
またまた、引用をしたいという誘惑に駆られている。ここでは「言葉の問題」という項の冒頭の一文を引用させてもらう。ソシュールの理論に精通する方には、今更という紹介なのだろうが、小生には改めて瞑想を誘う一文だったのである:
言葉は言語体系(ラング)に刻み込まれた可能性を実現するだけではない。言葉については限定的な定義をしたソシュールにおいてすでに、言葉はたんなる結果などではない。言葉は言語体系に担われると同時に、言語体系を支え、言語体系を変えるものである。ソシュールは言葉をテーマにしながら、実は言語の研究を新しい場へと移したのであり、ソシュールわたしたちのカテゴリーの再検討を始めたのである。ソシュールは記号と意味するものの間に確固とした区別を維持できるかどうか疑問とした。この区別を固持していると、確立された言語体系だけを考察すべきだと考えられるが、これは言葉においてはもつれた状態にあるのである。この状態にあっては、音と意味はたんに連合されるものではない。記号とは「弁別的、対立的、否定的」なものであるというのがソシュールの有名な定義だが、この定義で言おうとしているのは、話す主体においては言語体系は、さまざまな記号の間、さまざまな意味作用の間の<ずれ>の体系として現前しているということ、言葉はたった一つの身振りで、これらの二つの秩序における差異化を実現するということ、そして閉じられていない意味作用と、関係のうちにしか存在しない記号に対しては、延長するもの(res extensa)と思考するもの(res cogitans)の区別をあてはめることはできないということである。 (p.61-2)
以下、当該年のコレージュ・ド・フランス講義の目的を語っていくのだが、小生は、上記の文章、特に後半のくだりだけでも、あれこれ想を練るに十分すぎる一文なのだった。
言うまでもないが、記号とは「弁別的、対立的、否定的」なものであるというソシュールの有名な定義がどの程度、妥当性が持つかは、それはそれで問題なのだが、仮に多少なりとも妥当だったとしても、それが、漢字(と仮名)表記の言葉に妥当するかとなると、一層、問題的であることは、改めて誰しも意識する事柄だろう。
小生などに、漢字はそもそも表音文字なのか、それとも表意文字なのか、という議論をする能はない。ただ、単純にはソシュールの理論を敷衍するわけにはいかないことくらいは分かる。
その上で、世界が情報的に切迫し、言語も特に英語(というより米語)に席捲される中で、日本語であっても、小生の耳には、時に記号的に、つまりは「弁別的、対立的、否定的」に聞こえるような気がするのである(特に若い人の間で使われる日本語には)。
その傾向は、特に若い人の言葉遣いや発音の仕方に顕著に思える。小生の好き」なバンド(歌手)にサザンオールスターズの桑田佳祐がいるが、彼は恐らくは意識的自覚的に日本語をロック調の音楽のメロディに乗せるべく、発音を英語風に<崩して>歌っていた(し、今もその気味が濃厚である)と思われる。
英語の(カタカナ語としての、次第にわりと正確な発音での英語の)歌詞を曲にはめ込む在り方が、新鮮に感じられたものだ。
まあ、聞きなれないと、歌詞カードを見ないと、一体、何を歌っているか分からないのだが、そんな拘りなど軽く超えているということか。
そう言えば、その前にキャロルの矢沢永吉などがいて、歌詞は日本語なのだけれど、英語風に発音するという新風をもたらしたものだった。
さすがに、恐らくは特に90年前後頃からは、英語(の発音)に堪能な(少なくとも日常的に耳に馴染んでいる)若い歌い手が輩出し、宇多田ヒカル(あるいはラブ・サイケデリコなど)で突き抜けてしまったとも言えるのかもしれない。
それはともかく、日本語でありながら、英語風な発音をする。
だから、小生のような時代についていけない人間には、時に顰蹙も買うのだけれど(つまり、今時の若手歌手は、発声の基本がなっていないとか、何故、わざと喉を潰したような歌い方・発声法を敢えてするのか、とか)、同時に常に英語を筆頭とする外国語を意識せざるをえない時代状況を強く意識させられてしまう。
こうした環境を前提に一応は日本人である小生が思想表現とか文学表現を考える時、漢字(仮名混じり文)の表意文字性よりも、もしかたしたら先祖帰りじゃないけれど、表音文字的な感覚での扱い方が、思わず知らず思考の上でも、文章表現をする上でも思わず知らず入ってしまうことを思ってしまうのである。
(この点は、さらに探求する余地が、たっぷりあると思う。)
記号的に、つまりは「弁別的、対立的、否定的」に日本語を使いこなすということ、表現する上で、日本語でありながら、音韻的な宇宙において、欧米語と漢字語とのフュージョン的位相を考えること、その上で表現の宇宙を爆発的に広げる余地がある…、少なくともそのブレイクの予感だけは、小生は、ビシビシと感じてしまうのである。
誰かが、文学や音楽や思想などの世界でブレイクスルーするに違いない。それとも、もう、誰かが一歩を踏み出しているのだろうか。
(04/04/11)
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