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2005/10/09

川端康成著『文芸時評』(3)

原題:川端康成著『文芸時評』あれこれ(3)

 川端康成著『文芸時評』(講談社文芸文庫)に載っている時評は昭和六年から十三年までのものだが、最初の頃の新人だろうが同輩だろうが先輩だろうが、褒めるものは褒める、けなすものは遠慮会釈なく批判するという姿勢は、恐らくは相当な風当たりがあったのだろう、最後のほうでは、褒めるものは褒めるが、ダメだと思うものは触れないという姿勢に変わっている。
 年齢を重ねて丸くなったということもあるのだろうし、論難された相手の浮沈をまざまざと見たこともあったのだろうが、同時に、時代が背景にある点も大きいのだろう。
 日本が15年戦争を自らが巻き起こす形で飛び込んでいって、世相はいよいよ窮屈さを帯びている。
 実際、昭和六年から十三年という年代というのは意味するものが大きい。本書の解説(羽鳥徹哉)を引用させてもらう:
「昭和六年、満州事変、昭和七年、満州国建設、昭和八年、日本の国際連盟脱退、小林多喜二虐殺、共産党指導者の転向声明、昭和十一年、2・26事件、昭和十二年、日中戦争勃発」
「それらの動きを背景に、昭和八年、九年頃は、プロレタリア文学やモダニズム文学が崩壊した後、文学の新しい出発を目指して「文芸復興」の呼び声が起こり、転向文学が制作され、旧時代作家が復活する」

 一時は隆盛を見たプロレタリア文学の運動もマルクス主義理論に基づく文学思潮も弾圧されて、衰退の一途を辿る。川端は自らの感性だけを頼りに批評する人間だから、文学作品がプロレタリア運動に棹差すものだから褒めるとか、逆に非難するということはなく、あくまで作品の出来だけを溯上に乗せる。本書でも、彼が頻りに褒めるのは(他にもないではないが)小林多喜二のみという印象を受ける:

 ところで、川端の自分の批評眼は正しいという自信は何処から来るのだろうか。更にその価値基準に基づいて情容赦もなく非難するという姿勢を続けられるのは何故だったのだろうか。そもそも、批評活動を続けるというしんどい仕事を長く続けられたのは、どういう胸中を彼に見つければいいのだろうか。

[ 今にして本書の内容を離れて一般論として思うのだが、「自分の批評眼は正しいという自信は何処から来るのだろうか」という疑問は愚問ではなかろうか。この後にも若干、触れてはいるが、評論するとは、自ら_感性と知性と読みとで相手と対峙することなのだ。
 徹底して読み込み、こうだと理解し、褒めるべきは褒めるとしても、批判すべきと感じた点は徹底して批判すべきなのである。それが読むということだし、理解することに至るわけだし、論評するとは人を愛することを前提にしているならば、愛するが故に相手に対し無関心ではありえず、気になる点があれば、とことん追求し理解に至るべきなのであろう。
 そこには孤独が付き纏う。自分の理解が間違っている恐れは常にある。間違っているかもしれないから、穏当な表現に終始し、万が一相手から突っ込み返された時も、どうでもエクスキューズできるよう、逃げ道を常に確保しておくというのは、中途半端だし、弱腰だし、愛においてずるい、他に愛人を抱えていて妻がダメならそこへ逃げ込んで慰めてもらおうという魂胆がみえみえなのである。
 批判をする人は、孤独に耐えないといけない。万が一、間違っていて後で、ああ、あれは浅薄だったと後悔する懸念は十分以上にありえるとしても、その都度において、自分がそう感じ、そのようにしか理解できないのならば、そのように主張し非難するしかないのだ。
 その覚悟なくして、評論家になどなれるはずもない。想像を絶する勉強も不可欠なのは言うまでもない。 (05/10/09 アップ時追記)]

 人にとことん付き合う。気に入る人だけではなく、目に付く作品(仕事)の全てに付き合う、というのは、たとえそれが褒めることであれ、逆に論難することであれ、相当に愛情が(愛憎の念が)深くないと出来ないことだろう。
 同時に、人にどう思われようと言いたいこと、言うべきことは言うという姿勢には、孤独や孤立を恐れないという人間性に裏打ちされていないと不可能なはずと小生には思われる。
 川端の生い立ちや年譜は、彼の作品を好む方も多く、知られている。敢えて、ほんの一端だけを拾い上げておく。
 明治三十二年父は開業医(漢詩文、文人画をたしなむ)だったが、川端が二歳の時に亡くなり、母の実家に移っている。その母も川端が三歳の時に亡くなっている。川端は祖母のもとに引き取られるのだが、その祖母も数年のうちに川端が小学校入学の年に亡くなり、以後、七歳から十五歳まで祖父と二人暮しを続ける(つまり、十五歳で孤児となったわけである)。
 この生い立ちと、祖父との暮らしが川端に影響を与えずにはいなかったろう。ちなみに、川端が中学二年だった十三歳頃から小説家を志したとか:

 さて、立派な主義主張があっても、文学者という以上は作品が全てなのだ。
 が、時代は、そんな当たり前のことを許さない。多くの若者が戦争に駆り出される。否、借り出されるという表現では受身過ぎる。実際には、戦地に赴く人間を眩しい目で送り出したのだ。一族から兵隊が出れば、誇りであったわけで、表彰状だって貰える(小生の田舎の家にも、座敷に出征を顕彰する表彰状が何枚も額入りで飾ってある)。戦地で死と向き合っている、おクニのために戦っている、そんな人たちの気持、そんな人たちの家族の気持ちを思いなさい。粛然たる態度で彼らを見、また、時代に対しても、真摯に向き合うべき。この場合の真摯とは戦争に批判的な姿勢や言動は許さないということである。文学作品も、従軍記や戦地での日記形式が増えて、それはそれで立派といえば立派なのだが、しかし、文学は人間の美しい面も醜い面も目を背けずに直視することが不可欠なのだとしたら、真面目一方の文学など、文学としては死んだも同然とも思える。
 プロレタリア文学の運動もマルクス主義も、さらには人間の暗い面を直視し描き切る姿勢も許されなくなり、多くの文学者は方向性を見失ってしまった(書き忘れていたが、本書も、本文はかなりの箇所で検閲を受け、削除・伏字となっている部分が見受けられる。本書の末尾に削除された言葉が載っている)。
 売れる作品というのは大衆に迎合するものばかりで純文学作家は窮乏を極めていた。大衆文学が頭からいいとか悪いということではなく、文学とは何かを問い詰める姿勢など度外視した安易な小説が歓迎される世相が、純文学作家を追い詰めていったのである。
 
 そんななか、ここでは触れないが、川端のライバルである横光利一の孤軍奮闘振りが際立つ

 また、厳しい批評活動を展開しつつも、昭和十年からは名作『雪国』の連載が始まっている。時代の突きつける課題が重い根雪となって川端を苦しめつつも、彼自身、模索し、作品に結晶していったのである。

 本書の解説にあるように、川端にとっては先輩の徳田秋声の存在というのは、非常に大きなものだったようである:

 徳田は川端から見れば老成しており、解脱しているように思える。若い川端には、ともすると表現が弛緩しているようにも見えるのだが、しかし、魂の徹底の挙げ句の境地にも見える。作家に厳しい姿勢を求め、作品に張りをもとめつつも、どこか自分の目指す方向が徳田秋声にあるように感じられ、川端は揺れていたのである。その模索の日々の中にあっての『雪国』なのだろう。
 小生、川端康成の作品で好きなものは数々あるが、やはり『雪国』が筆頭だろう。但し、我が垂涎の書というと、『眠れる美女』を挙げるのだが:                            (04/03/14)

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コメント

先日川端全集31巻文学時評の巻を購入。内容は昭和7~16年の新聞時評、および、関連記事。現在でも時評は新聞になされているが、川端のように10年以上毎月、というのはないのではないでしょうか。驚きました。批評は厳しく容易なことでは褒めない。冒頭に、藤村、夜明け前を批評していたが(連載分をすべて読んでいないので、と断ったうえ)登場人物がすべて藤村の顔をもっている、と批評。創作よりすばらしいのじゃないか、とおもえるほど。

投稿: 井上昇 | 2017/02/19 11:39

井上昇さん コメント、ありがとうございます。

文学者(作家)が批評に手を出す。自分は好きじゃないけど、好んで、あるいは求められて行う人もいるんでしょうね。
まして、10年となると、勉強も兼ねてとか、好きで、という以上に何か深い動機があったんだろうと感じます。

冒頭の藤村「夜明け前」の評が素晴らしいとか。創作よりもというと、気になりますね。
小生には、藤村「夜明け前」は三度は読みましたから。

投稿: やいっち | 2017/02/19 20:24

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