『私は、経済学をどう読んできたか』(5)
前回、扱ったアルフレッド・マーシャルに続き、本書『私は、経済学をどう読んできたか』では、「二十世紀の経済学者たち」として、ソースタイン・ヴェブレン、ジョン・M・ケインズ、ヨーゼフ・A・シュンペーターらが採り上げられている。
が、ここでは一気に著者であるハイルブローナーの「終わりに」へと飛ばせてもらう。経済学についての展望を彼に語ってもらいたいのである。
マルクスに代表されるような、一国の中の社会政治的階級の命運を扱うような経済学と、マーシャルやケインズのように、個人という形のない集団の運命が扱われる経済学という視点、つまり、「前者のシナリオは社会秩序自体の変化の見通しを説明したのに対して、後者は所得分配の変化を説明はしても、相対的な階級関係の変化には触れない」後者は「階級の重要性ばかりかその存在さえ否定する傾向へと考え方が変わった」のだとした上で、ハイルブローナーは語る:
こうして見ると、経済学は社会研究という自己認識から、「科学」という自己認識へと徐々に後退の道を歩んできている。たとえばマーシャルが行き着いたのは、興味深いことに生物学であった。このことは、社会学的、政治的考察に対する関心が次第に弱まり、代わって分析の手法としてますます「モデル」が選択されるようになったことに表れている。適切な行動をする――主として最大化と最適化を行う――主体のみが、こうした学説では考察される。数学的説明ができないような諸力、たとえば非合理的な意思決定、盲目的な服従、無限の野心などは扱われない。当然のことながら、「有効性」――何にとって有効なのか――についての考察は、分析の必要条件としては下位に置かれる。全く同様に、経済政策は、説明の「厳密性」の追究よりも下位に置かれることになる。私がどこかで書いたことだが、もし火星からの訪問者が主流派経済学の学会誌を手にして、それを物理学の本と間違えても大目に見られることであろう。
このような壮大な説話に、予見可能な終着点があるのだろうか。「科学的」経済学の実践者が、時代遅れの教師にありがちな頑固さをもって現在の方法をそのまま追究し続けるのを想像することは、実に容易である。だが、予見することは難しいものの、もう一つの発展の道筋を想像することもできる。今日、資本主義システムは強力な技術、かつてない国際的な金融および投資の流れ、環境からの脅威の出現、そして高まる政治の不安定性などによって多くの困難にさらされている。こうした課題があればこそ、本書で明らかにしてきた政治経済学の伝統を再び蘇らせることが、やはり必要になると思う。 (p.535-6)
その上で、ハイルブローナーは、「政治経済学が一群の異端の経済学者――ソースタイン・ヴェブレンが論じた技術者に対応する人々――の手によって再生され、新たな関心を呼び起こすことを期待したい」と述べる。
「そうした学者たちは、たとえ洗練されたモデルの構築には困難を伴おうとも、現代の社会政治的現実を十分に認識しようとする努力を分析の出発点とするような経済研究の様式を、探し求めるであろう」とハイルブローナーは、期待を込めて展望するのである。
そう、ソースタイン・ヴェブレンは、肥大化する「科学性」に待ったをかけたのである。以下、ヴェブレンの言葉を本書から再引用する:
経済学者の心理学的かつ人類学的な前提は、数世代前の心理学や社会科学の前提そのままである。快楽主義的な人間観とは、快楽と苦痛を瞬間的に計算する人間という考え方であり、それは均質な幸福の塊が、刺激を受けてあちこち動き、位置は変わるが自らは変わらない存在として捉えられる。この彼には過去もなければ将来もない。彼は孤立した。限定された人間で、静寂を破る連続的な力でどちらか一方に動かされる以外は、じっと静止状態にある。要素空間に自ら身を置き、自分の精神軸の周りをぐるぐる回るだけで、力が自分に加わるとそのベクトルの指し示す方向に従って動く。その加わった力が消え去ると、彼は休止状態に入り、元の自己満足的な欲望の塊に戻る。抽象的に言えば、この快楽主義的な人間は自ら行動する主体ではない。彼は、生存過程の中心的存在ではない。ただ外部の、自らはどうにもならない状況によって課せられた一連の条件に従うのみである (p.401)
このように、現代の多くの「科学的な」経済学者の結論ではなく、前提そのものに批判の矢を放つ学者が、ともすると無視されがちなのも当然なのかもしれない:
ここでやや飛躍するようだが、小生は哲学者ヴィトゲンシュタインを思う。
彼は、一般に彼の前期と呼ばれる時期の代表的な著作とされる『論理哲学論考』で、「成立している事態の全体が世界である」「対象の配列が事態を構成する」と<喝破>した。
つまるところ、「科学的」を標榜する経済学というのは、人間など存在しない。ただ、「要素空間に自ら身を置き、自分の精神軸の周りをぐるぐる回るだけで、力が自分に加わるとそのベクトルの指し示す方向に従って動く。その加わった力が消え去ると、彼は休止状態に入り、元の自己満足的な欲望の塊に戻る」だけなのである。そうでないと経済学が成り立たないので、それ以上は人間が経済学に闖入されては困るのだ。
そうして、一旦、要素を確立し、現実をモデル化したなら、あとは精緻な数式を織り成していくだけなのである。そして得られた結論は現実の世界で検証の苦しみに晒されることなく、一気に現実世界に応用されてしまう。当て嵌まらなかったら、モデルを再構築し、係数を手直しする、そしてまた応用である。現実世界に応用する前に厳しい検証という試練を潜ることは度外視されている。
さて、言うまでもないことだが、ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』は、「成立している事態の全体が世界である」「対象の配列が事態を構成する」以外の現実、言葉や論理で語り得ない世界の豊かさこそが圧倒的なものだという主張が背後にある。キルケゴールやショーペンハウエルやニーチェやワーグナーらでなければ表現しえない神秘という言葉を使うしかないという認識があったわけである。
しかも、その哲学さえもヴィトゲンシュタインは放棄してしまう:
つまり、現代の「科学的」な経済学というのは、前期のヴィトゲンシュタインが、「語りうることは明瞭に語られうるが、言いえないことについては沈黙せねばならない」として、語りうるものがいかに貧しいものでしかないかを示した、その枠組みを少しも外れてはいないのである。どんなに精緻な「科学的」経済学も、その語っている世界は、極小に過ぎない…。
その上でなおかつヴィトゲンシュタインは、そもそも前提である成立している事態の全体が世界である」「対象の配列が事態を構成する」という枠組み自体を否定し去ってしまっているのである。
現実の世界にほんの少しでも触れるのは、どんな形であれ語るのは、まして表現するのは至難の業どころではないのではなかろうか。
(04/03/15)
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