プルースト著『評論選 Ⅰ文学篇』
原題:プルースト著『評論選 Ⅰ文学篇』あれこれ
プルースト著『評論選 Ⅰ文学篇』(保苅瑞穂・編、ちくま文庫)を読み始めている。『評論選 Ⅱ 芸術篇』に引き続いてのものだ。今更、小生がプルーストについて語っても人に与えられる情報など何もない。
ただ、ひたすらに彼の評論というより文章に魅了されているだけである。
例によって、文庫の裏表紙にある謳い文句を引用する形で、本書の性格を紹介しておきたい:
20世紀文学の最高峰『失われた時を求めて』全7篇の小説家プルーストはまた、たぐい稀な批評家でもあった。ヨーロッパの長い文学的遺産の上に立って同時代に透徹した眼をむけ、対象に潜む美と真実を的確に捉えた卓抜な評論を全2冊に収める。1は独創的なネルヴァル、ボードレール、バルザック論を含んだ、“小説”の創作につながる『サント=ブーヴに反論する』を軸とする文学論を集成。
たとえば、本書の冒頭の一章は、「サント・ブーヴに反論する」と題され、「序文草案」「サント=ブーヴの方法 」などと続くのだが、中に、「文学と批評をめぐる覚書」と題された一項がある。これがすこぶる面白い。思うに、プルー
ストの批評家としての、というより作家としての秘密が覚書の形で生々しく披露されているような気がして、読みながら興奮してしまう。
多少アトランダムな形になるかもしれないが、一部だけ、つまみ食い的に引用してみる:
ある作家を読み始めると、私はすぐ、ほかの作家とははっきり違った唄の節を歌詞の陰に苦もなく見分けたものだった。そして読みすすむうち、われ知らずくだんの節を心のなかで口ずさみ、歌詞の一語一語を速く読んだり遅く読んだり、あるいはまた、唄を歌うとき、節の長さによってしかじかの語の最後のシラブルを保留し、母音を長々と延ばすように、途中でぴたりと音を停めてみたりした。
彼は言う:
ものを書くすべは知らないけれども、自分には他人よりも鋭くてよく聴きわける耳があると分かっていたし、何作か文体を模写することができたのも、まさにそのせいなのである。
なぜなら、作家の場合、節さえつかまえてしまえば、歌詞はすぐにでも浮かんでくるものだからだ。
私には、二つの、別々の観念や感覚のあいだに、深いつながりを探り出す資質もあるようで、時として、つまり生涯のさまざまな時期に、私はそうした資質が、ともども自分のなかに生きつづけているのを知ったのだ。
この資質は:
やがては衰弱し、命を終えてゆくのにちがいない。
この資質は、これからもさぞ苦労することだろう。というのも、病気がきわだって重くなり、頭は空、体力ゼロというような時にかぎって、ときどき見かけるこのもうひとりの私が顔を出し、二つの観念のあいだにつながりを探り出したりするのだから。
秋の、もう花もない紅葉もないというときにこそ、あの景色、この景色のあいだに、並びなく合一が感じられる、といったようなものであろうか。
そして、ここからが一番、肝腎な点だと小生は感じている:
こうして、ぼろ屑のようになった私のなかで、ひとりの少年が遊び戯れることになるのだが、この少年は、別に何も食べなくてもいいのだ。ある観念を発見し、目のあたりに見る歓びだけで、十分、栄養が取れるからである。少年が観念を創り出し、観念が少年を創り出す。たとえ少年が死んだとしても、別の観念が少年を蘇生させる。乾きすぎた大気のなかで発芽しそこない、いったんは死んだ種子が、少しでも水と熱を補給してやれば蘇るのと同じことだ。
私としては、自分のなかでこんな風にして遊んでいる少年が、二つの、別々の印象や観念のあいだに、誰でも聴き取れるというわけはない微妙な和音を、ちゃんと捉えるだけの鋭く確かな耳を持った者と、実は同一人にちがいないと考えている。
ある意味ではたしかに彼(少年)がこの和音を創り出したのだけれども、彼はまたこの和音を糧にしてこそ生きるのだ。彼は身をもたげ、芽を出し、和音を命の源として成長し、やがて死ぬ。この和音でしか生きることができないのだから。
この後も、恐らくはプルースト(の創作)の秘密に関わるに違いない、魅力に満ちた覚書が続く。
ところで、3月9日付け朝日新聞夕刊に西垣通氏の手になる「基礎情報学」についての一文が載っていた。表題は「メディア通じ自己創出する社会組織」となっている。
西垣通氏は、「東京大学大学院情報学環教授」という肩書のようである。
この一文の中で、オートポイエーシスという「従来の学問とは決定的に異なる発想」に触れている。
彼によると、オートポイエーシスとは「自己(オート)を作る(ポイエーシス)」という意味であり、「自己創出システム」と訳されることもある。という。
基礎情報学の立場から、個人を説明すると、以下のようになると言う。つまり、「個人とは一種のオートポイエーシス・システムに他ならない。人間に限らずあらゆる生命体は、自分で自分を作り続けていく存在である。「細胞は基本的に、自分のDNA遺伝情報にもとづいて作られる。これはつまり、過去に記憶された情報をもとに、自己循環的に自分を形成し続けていく、ということである。」
このことは、人間の心にも当て嵌まることだし、社会的組織も、このシステムとして理解されるというのだ。つまり、「生成消滅するコミュニケーションが社会的組織を作る」と理解するわけである。
まあ、新聞の紙面での説明だけでは要領を得ないのは仕方ないのかもしれない。
が、とにかく小生には、このオートポイエーシスのポイントが理解できない。難しすぎるのか、そうでなければ、素人の感覚からすると当たり前のことを言っているだけではないかと思えてしまうのである。
個人に限らず社会も、既成の情報や組織があり、その上に立って、自分で自分を作り続けていく存在なのだし、それだけでなく、社会にも作られ、社会に影響を与え、個人相互にコミュニケートしつつ関係し合い、個人も社会も醸成されていく…。大体、それ以外に社会も個人も成り立ち得ないのではないか。素人たる小生は、そう思ってしまうのである。
それより、もっと、肝腎な疑問としてあるのは、まさに生命の問題である。あるいは個人ならば、創造の問題と言い換えてもいい。
そもそも、なぜに人は相互に関係し合うのか。孤立しては存立できないのか。既成の情報が過剰どころか個人を、社会を圧倒するほどに満ち溢れている、押し潰されそうなほどだというのに、それでも、社会が成長したり個人が内面を豊かにしえるのは何故なのか。今日より明日と思えるのは何故なのか。一体、何かが生み出される(新しい社会形態、組織形態、新しい作品、アイデア…)というのは、そこにオートポイエーシスを活性させる<パワー>の源があるからなのではないか。
稿を改めて、いつか、この辺りを考えてみたい。
(04/03/10)
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