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2005/10/19

『メルロ=ポンティ・コレクション』(3)

 引き続き、モーリス・メルロ=ポンティ(Maurice Merleau‐Ponty)著『メルロ=ポンティ・コレクション』(中山 元訳、ちくま学芸文庫)を扱う。ま、今回で最後にするつもりだが。
 本書について、全般的な紹介を未だしていなかった。遅ればせながら、裏表紙にある謳い文句を転記しておく:

メルロ=ポンティの思想の魅力は、言いえないものを言うために傾ける強靱な思想的な営為にある。彼の思考の根幹にあるのは、客体であるとともに主体であり、見る者であるとともに見られるものであるという<身体>の両義性を考え抜こうとする強い意志である。この「身体」という謎によって開ける共同の生と世界の不思議さ……。

 目次は下記の通り:

 言語について
   表現としての身体と言葉(『知覚の現象学』から)
   言葉の問題(『コレージュ・ド・フランス講義要録』から)
 身体について
   問い掛けと直観(『見えるものと見えないもの』から)
   絡み合い――キアスム(『見えるものと見えないもの』から)
 自然について
   自然の概念(『コレージュ・ド・フランス講義要録』から)
 政治と歴史について
   プロレタリアから人民委員へ(『ヒューマニズムとテロル』から)
   歴史の理論のための資料(『コレージュ・ド・フランス講義要録』から)
   個人の歴史と公共の歴史における「制度」(『コレージュ・ド……』から)
 芸術について
   セザンヌの疑い(『意味と無意味』から)

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『メルロ=ポンティ・コレクション』(続)

 引き続き、モーリス・メルロ=ポンティ(Maurice Merleau‐Ponty)著『メルロ=ポンティ・コレクション』(中山 元訳、ちくま学芸文庫)を扱う。
 ま、気軽に書いていくつもり。といっても、今回は(も?)、ほとんど引用になるけれど。

 ポンティのプルーストへの関心は深いようで、「プルーストほど、言葉のこの悪循環、言葉という奇蹟をうまく表現した人はいない」という。
 この「言葉のこの悪循環、言葉という奇蹟」というのは、以下のようなことである。
 少々長くなるが、小生自身の勉強のためにも、ポンティの言葉を敢えて引用したい。垂涎の言葉を共に味わって欲しい:

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『メルロ=ポンティ・コレクション』

原題:『メルロ=ポンティ・コレクション』雑記

 モーリス・メルロ=ポンティ(Maurice Merleau‐Ponty)著『メルロ=ポンティ・コレクション』(中山 元訳、ちくま学芸文庫)を読み始めた。メルロ=ポンティを読むのは、『眼と精神』以来である。
 すると、いきなり、本書の中で、プルーストを念頭において分析する場面に遭遇した。考えてみるまでもなく、メルロ=ポンティとプルーストは意外な取り合わせではないのだが。
 さて、そのくだりというのは、「表現としての身体と言葉」という章の「言葉の中の思考」という項に見出される。ベルグソンの記憶と身体についての理論を批判した上で、ポンティは次のように書いている:

記憶における身体の役割を理解するためには、記憶を過去を構成する意識と考えるのではなく、現在における関わりから出発して、時間を再び<開こう>とする努力であると考えなければならない。身体はわたしたちが「姿勢をとる」ことのできる手段であり、擬似現前を作り出すことのできる手段、空間だけでなく、時間と交わるための手段であると考えなければならない。

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2005/10/09

『私は、経済学をどう読んできたか』(5)

 前回、扱ったアルフレッド・マーシャルに続き、本書『私は、経済学をどう読んできたか』では、「二十世紀の経済学者たち」として、ソースタイン・ヴェブレン、ジョン・M・ケインズ、ヨーゼフ・A・シュンペーターらが採り上げられている。
 が、ここでは一気に著者であるハイルブローナーの「終わりに」へと飛ばせてもらう。経済学についての展望を彼に語ってもらいたいのである。
 マルクスに代表されるような、一国の中の社会政治的階級の命運を扱うような経済学と、マーシャルやケインズのように、個人という形のない集団の運命が扱われる経済学という視点、つまり、「前者のシナリオは社会秩序自体の変化の見通しを説明したのに対して、後者は所得分配の変化を説明はしても、相対的な階級関係の変化には触れない」後者は「階級の重要性ばかりかその存在さえ否定する傾向へと考え方が変わった」のだとした上で、ハイルブローナーは語る:

こうして見ると、経済学は社会研究という自己認識から、「科学」という自己認識へと徐々に後退の道を歩んできている。たとえばマーシャルが行き着いたのは、興味深いことに生物学であった。このことは、社会学的、政治的考察に対する関心が次第に弱まり、代わって分析の手法としてますます「モデル」が選択されるようになったことに表れている。適切な行動をする――主として最大化と最適化を行う――主体のみが、こうした学説では考察される。数学的説明ができないような諸力、たとえば非合理的な意思決定、盲目的な服従、無限の野心などは扱われない。当然のことながら、「有効性」――何にとって有効なのか――についての考察は、分析の必要条件としては下位に置かれる。全く同様に、経済政策は、説明の「厳密性」の追究よりも下位に置かれることになる。私がどこかで書いたことだが、もし火星からの訪問者が主流派経済学の学会誌を手にして、それを物理学の本と間違えても大目に見られることであろう。
このような壮大な説話に、予見可能な終着点があるのだろうか。「科学的」経済学の実践者が、時代遅れの教師にありがちな頑固さをもって現在の方法をそのまま追究し続けるのを想像することは、実に容易である。だが、予見することは難しいものの、もう一つの発展の道筋を想像することもできる。今日、資本主義システムは強力な技術、かつてない国際的な金融および投資の流れ、環境からの脅威の出現、そして高まる政治の不安定性などによって多くの困難にさらされている。こうした課題があればこそ、本書で明らかにしてきた政治経済学の伝統を再び蘇らせることが、やはり必要になると思う。  (p.535-6)

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川端康成著『文芸時評』(3)

原題:川端康成著『文芸時評』あれこれ(3)

 川端康成著『文芸時評』(講談社文芸文庫)に載っている時評は昭和六年から十三年までのものだが、最初の頃の新人だろうが同輩だろうが先輩だろうが、褒めるものは褒める、けなすものは遠慮会釈なく批判するという姿勢は、恐らくは相当な風当たりがあったのだろう、最後のほうでは、褒めるものは褒めるが、ダメだと思うものは触れないという姿勢に変わっている。
 年齢を重ねて丸くなったということもあるのだろうし、論難された相手の浮沈をまざまざと見たこともあったのだろうが、同時に、時代が背景にある点も大きいのだろう。
 日本が15年戦争を自らが巻き起こす形で飛び込んでいって、世相はいよいよ窮屈さを帯びている。
 実際、昭和六年から十三年という年代というのは意味するものが大きい。本書の解説(羽鳥徹哉)を引用させてもらう:
「昭和六年、満州事変、昭和七年、満州国建設、昭和八年、日本の国際連盟脱退、小林多喜二虐殺、共産党指導者の転向声明、昭和十一年、2・26事件、昭和十二年、日中戦争勃発」
「それらの動きを背景に、昭和八年、九年頃は、プロレタリア文学やモダニズム文学が崩壊した後、文学の新しい出発を目指して「文芸復興」の呼び声が起こり、転向文学が制作され、旧時代作家が復活する」

 一時は隆盛を見たプロレタリア文学の運動もマルクス主義理論に基づく文学思潮も弾圧されて、衰退の一途を辿る。川端は自らの感性だけを頼りに批評する人間だから、文学作品がプロレタリア運動に棹差すものだから褒めるとか、逆に非難するということはなく、あくまで作品の出来だけを溯上に乗せる。本書でも、彼が頻りに褒めるのは(他にもないではないが)小林多喜二のみという印象を受ける:

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プルースト『評論選 Ⅰ文学篇』(続)

原題:プルースト『評論選 Ⅰ文学篇』雑記(続)

 引き続き、プルースト著『評論選 Ⅰ文学篇』(保苅瑞穂・編、ちくま文庫)を扱う。
 読んでいて、またまた一度だけで読み流すにはあまりに惜しいくだりがあったので、どうしても、メモしておきたいと思うのだ:

才能に恵まれれば、私たちにも書けるかもしれぬ美しい作品というものがある。しかしそれは、私たちの内部に、輪郭もあだかならず漂っていて、たとえて言えば、心を魅する唄だけれども、どんな節まわしだったのかさっぱり思い出せず、口ずさむこともできない、このくらいの長さだったとあらましも伝えられない、果して全休止符があったのかどうか、短い音符が連続していたかどうかも言えそうにない、そういう古い唄みたいなものなのだ。かつて正体をつきとめたためしのないさまざまな真実の、こうした思い出に日夜とりつかれている人がもしいるとすれば、それこそが天与の資質を持つ人間だというべきである。だが、その人間が、自分の耳には何かしら甘美な節が聞こえてくると言うだけで、他人にはなんにも告げるべきことがないとする。この場合、彼には才能がないのだ。才能とは記憶力の一種であって、これがあれば、あの正体不明の曲をわが身にちかぢかと引き寄せ、明らかに聞き取り、書きとどめ、再生し、歌うことができるはずである。だが、いずれは、才能も記憶も衰弱し、心の筋肉がゆるんで、もはや、外面的なものにせよ内面的なものにせよ、思い出を引き寄せるだけの力がない、そういう年齢がやってくる。時として、鍛錬が足りないせいで、また、はやばやと自己満足に陥ってしまうせいで、そんな年齢が生涯にわたって続くことがある。そうなれば、誰ひとりとして、本人さえもが、捉えがたくも甘美なリズムでまといついてきたその唄の節を、永久に知ることなく過ぎてしまうのである。 (p.209-210)

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プルースト『評論選 Ⅰ文学篇』(続)

原題:プルースト『評論選 Ⅰ文学篇』雑記(続)

 引き続き、プルースト著『評論選 Ⅰ文学篇』(保苅瑞穂・編、ちくま文庫)を扱う。
 読んでいて、またまた一度だけで読み流すにはあまりに惜しいくだりがあったので、どうしても、メモしておきたいと思うのだ:

才能に恵まれれば、私たちにも書けるかもしれぬ美しい作品というものがある。しかしそれは、私たちの内部に、輪郭もあだかならず漂っていて、たとえて言えば、心を魅する唄だけれども、どんな節まわしだったのかさっぱり思い出せず、口ずさむこともできない、このくらいの長さだったとあらましも伝えられない、果して全休止符があったのかどうか、短い音符が連続していたかどうかも言えそうにない、そういう古い唄みたいなものなのだ。かつて正体をつきとめたためしのないさまざまな真実の、こうした思い出に日夜とりつかれている人がもしいるとすれば、それこそが天与の資質を持つ人間だというべきである。だが、その人間が、自分の耳には何かしら甘美な節が聞こえてくると言うだけで、他人にはなんにも告げるべきことがないとする。この場合、彼には才能がないのだ。才能とは記憶力の一種であって、これがあれば、あの正体不明の曲をわが身にちかぢかと引き寄せ、明らかに聞き取り、書きとどめ、再生し、歌うことができるはずである。だが、いずれは、才能も記憶も衰弱し、心の筋肉がゆるんで、もはや、外面的なものにせよ内面的なものにせよ、思い出を引き寄せるだけの力がない、そういう年齢がやってくる。時として、鍛錬が足りないせいで、また、はやばやと自己満足に陥ってしまうせいで、そんな年齢が生涯にわたって続くことがある。そうなれば、誰ひとりとして、本人さえもが、捉えがたくも甘美なリズムでまといついてきたその唄の節を、永久に知ることなく過ぎてしまうのである。 (p.209-210)

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プルースト著『評論選 Ⅰ文学篇』

原題:プルースト著『評論選 Ⅰ文学篇』あれこれ

 プルースト著『評論選 Ⅰ文学篇』(保苅瑞穂・編、ちくま文庫)を読み始めている。『評論選 Ⅱ 芸術篇』に引き続いてのものだ。今更、小生がプルーストについて語っても人に与えられる情報など何もない。
 ただ、ひたすらに彼の評論というより文章に魅了されているだけである。
 例によって、文庫の裏表紙にある謳い文句を引用する形で、本書の性格を紹介しておきたい:

20世紀文学の最高峰『失われた時を求めて』全7篇の小説家プルーストはまた、たぐい稀な批評家でもあった。ヨーロッパの長い文学的遺産の上に立って同時代に透徹した眼をむけ、対象に潜む美と真実を的確に捉えた卓抜な評論を全2冊に収める。1は独創的なネルヴァル、ボードレール、バルザック論を含んだ、“小説”の創作につながる『サント=ブーヴに反論する』を軸とする文学論を集成。

 たとえば、本書の冒頭の一章は、「サント・ブーヴに反論する」と題され、「序文草案」「サント=ブーヴの方法 」などと続くのだが、中に、「文学と批評をめぐる覚書」と題された一項がある。これがすこぶる面白い。思うに、プルー
ストの批評家としての、というより作家としての秘密が覚書の形で生々しく披露されているような気がして、読みながら興奮してしまう。

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