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2005/10/09

プルースト『評論選 Ⅰ文学篇』(続)

原題:プルースト『評論選 Ⅰ文学篇』雑記(続)

 引き続き、プルースト著『評論選 Ⅰ文学篇』(保苅瑞穂・編、ちくま文庫)を扱う。
 読んでいて、またまた一度だけで読み流すにはあまりに惜しいくだりがあったので、どうしても、メモしておきたいと思うのだ:

才能に恵まれれば、私たちにも書けるかもしれぬ美しい作品というものがある。しかしそれは、私たちの内部に、輪郭もあだかならず漂っていて、たとえて言えば、心を魅する唄だけれども、どんな節まわしだったのかさっぱり思い出せず、口ずさむこともできない、このくらいの長さだったとあらましも伝えられない、果して全休止符があったのかどうか、短い音符が連続していたかどうかも言えそうにない、そういう古い唄みたいなものなのだ。かつて正体をつきとめたためしのないさまざまな真実の、こうした思い出に日夜とりつかれている人がもしいるとすれば、それこそが天与の資質を持つ人間だというべきである。だが、その人間が、自分の耳には何かしら甘美な節が聞こえてくると言うだけで、他人にはなんにも告げるべきことがないとする。この場合、彼には才能がないのだ。才能とは記憶力の一種であって、これがあれば、あの正体不明の曲をわが身にちかぢかと引き寄せ、明らかに聞き取り、書きとどめ、再生し、歌うことができるはずである。だが、いずれは、才能も記憶も衰弱し、心の筋肉がゆるんで、もはや、外面的なものにせよ内面的なものにせよ、思い出を引き寄せるだけの力がない、そういう年齢がやってくる。時として、鍛錬が足りないせいで、また、はやばやと自己満足に陥ってしまうせいで、そんな年齢が生涯にわたって続くことがある。そうなれば、誰ひとりとして、本人さえもが、捉えがたくも甘美なリズムでまといついてきたその唄の節を、永久に知ることなく過ぎてしまうのである。 (p.209-210)

 この辺りはもう、プルーストの言葉に耳を傾けるしかない。
 才能とは記憶力。但し、捉えどころのない真実、正体不明の曲、日夜とりつかれてならない思い出、自分の耳に何かしら甘美な節が聞こえてくるだけではなく、他人に何かしら告げたくてならない心を魅する唄、才能も記憶も衰弱し、心の筋肉が緩んだなら、なすすべもなく永久に消え行くしかない唄の節を思い出し思い浮かべる、そんな記憶力なのだ。

 ところで前稿で、やや唐突に、オートポイエーシス理論に言及し、その理論の新味が奈辺にあるのか分からないとした上で、次のように書いた。
「何かが生み出される(新しい社会形態、組織形態、新しい作品、アイデア…)というのは、そこにオートポイエーシスを活性させる<パワー>の源があるからなのではないか。」
 システムの構造はそのオートポイエーシス理論で一定の理解が進むのだろうとしても、肝腎の<創造>の秘蹟に亘る部分には、まるで手が届かないのではと思えるのである。

 思うに、誰の心にも琴線があるのだと思う。また、琴線に触れる思い出があり、忘れられない曲が折に触れて奏でられるのだろうと思う。そして、ことによったら、その表現の形や手段は、音楽、彫刻、舞踏、絵画、ボランティア、小説、詩などと、違うのだろうとしても、さまざまな形でその人の琴線に鳴る響きを表に示さんと試みるのだろう。
 けれど、人は時の流れの中で大切な何かを忘れてしまう。心の筋肉が緩んでしまう。琴線を掻き鳴らす何か、そして奏でられる何かを、己の中で感じているだけというのではなく、もう一度、心に蘇らせ、人の眼に触れえる形に象形化するというのは、感じているだけというのとはまるで違う次元の営みとなる。
 そこには苦労を愛惜するような、その労苦がむしろ愉悦であるような、己の肉体を消耗させ燃え尽きさせても何かに駆られる、その<何か>が必要なのだ。
 命とか意志とか創造力と、分かったようでいて、その実、何も分からない言葉で告げるしかない、創造の泉への道。
 小生の如き凡人は、せめてプルーストを読んで、その秘蹟の熱さと繊細さを感じたいものである。 
                              (04/03/12)

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