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2005/09/26

『私は、経済学をどう読んできたか』(3)

 経済学にも門外漢の小生は、一体、いつから経済学の世界に数式が導入されるようになったのか、数学的科学でなければならないと考えられるようになったのかを知らない。
 多くの学問が哲学から分離し独立していった。
 独立するだけではなく、哲学との違いを際立たせるかのように物理学(や数学)をお手本に科学的たらんことを志向しはじめた。
 科学的とは観察と分析に基づく厳密な理論構成ということだけではなく、端的に数量化という発想の導入を実質的には意味していた。現実を単純化したモデルに還元し、幾つかの要素を分離析出して数値化可能にして、やがては、素人が横から盗み見ると、物理学か何かのテキストであるかのように数式と数値が並ぶようになった。
 心理学も、文学でさえも、一部は軽量化されているし、経済学もその趨勢からは無縁ではなく、むしろ、一部の経済学者には経済学こそ数学的科学たりえる学問なのだと見なされたりしてきた。

 数学化を行った最初の一人が、ウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズ(1835-1882)であり、1871年に出版された彼の『経済学の理論』は、「経済思想の新たな転換を告げる一大事件であった」という。

 経済学を数学化させるための端緒を開いたのが、ベンサム(の快楽・苦痛に二分する)功利主義だったというのは、何を意味するのだろうか。いずれにしても数学化を実現するためには、現実のモデル化をする、つまり現実をある観点から割り切って単純化する必要がある。

 ジェヴォンズは効用理論を打ち出したが、これは、ベンサムの功利主義の発想を発展させ、商品の消費からどのように快楽が導き出されるかを説明する。効用(価値とは効用によって定まる、労働が価値の原因なのではない!)が交換でどのように増加するか、交換の両当事者はどのようにすれば効用を最大化できるかを示そうとする。

 労働理論というのは、効用理論から派生したものなのである。
「私の見るところ、われわれの学問は、単にそれが量を取り扱うというだけで数学的でなければならない。いやしくも取り扱う事物に大小がありうる場合には、その法則および関係は本質上数学的でなければならない。通常の需要・供給法則なるものは、ひとえに需要され、もしくは供給される商品の量を取り扱い、価格との関係においてその量の変動の仕方を表現するものである。この事実の結果としてこの法則は数学的である。……」

 経済学の数学化をたとえば、レオン・ワルラス(1834-1920)が更に進めた。
「確かなことは、物理数学的科学は狭義の数学と同様に、その概念のタイプを経験に借りるけれども、それ以後は経験から離れるということである。これらの科学は現実のタイプから理念的タイプを抽象してこれを定義する。そしてこの定義を基礎として彼らの定理と証明の全構造を先験的に構築する。そしてその後に経験に立ち帰るが、それは結論を確認するためでなく、これを応用するためである。……(略)……この方法に従って、純粋経済学は交換、供給、需要、市場、資本、収入、生産用役、生産物などのタイプを経験に借りなければならない。これらの
現実のタイプから、純粋経済学は定義によって理念的なタイプを抽象しその上に推理を行うのである。現実に帰るのは科学が成立した後であり、応用を目的としてでなければならない。かくして、理念的市場において理念的な需要と供給とに厳密な関係をもつ理念的な価格が得られる。」
 純粋経済学の誕生というわけである。

 注目すべきは、「現実に帰るのは科学が成立した後であり、応用を目的としてでなければならない」という点だろう。
 決して、結論を確認するためではない。もはや、推理の結果、得られた成果は応用されるべきものなのだ。
 既に、一旦、最初に概念のタイプを得たなら、あとは一切、経験や現実と接する場面がない。ブラックボックスを通過したなら、いきなり現実への応用が待つばかりというわけだ。
 しかし、では、以後、経済学は、以降、純粋経済学へひた走ったかというと、必ずしもそういうわけではない。そこには、アルフレッド・マーシャル(1842-1924)という存在が屹立しているのだ。
                         (04/03/03)

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