川端康成著『文芸時評』
原題:「川端康成著『文芸時評』あれこれ」(04/03/07)
小生は小説家としての川端康成には多少は触れてきた。絶品としか言いようのない『雪国』は何度、読んだことか。『眠れる美女』は我が垂涎の書である。が、川端康成が文芸評論家として文壇に登場したというのは、まるで知らなかった。
参考のため、例によって本書『文芸時評』(講談社文芸文庫)の裏表紙の謳い文句を引用しておく(こうするのは、小生の本の紹介は、自分の好みに走りがちでバランスを欠いている恐れが多分にあるからである。ところで同時に今、小生はプルーストの評論選を偶然だが同時並行する形で読んでいる。対比するつもりも、その意味もあまりないとは思うが、なかなか楽しい読書体験なのである):
大正十年「招魂祭一景」で注目された著者は翌十一年、文芸時評家として文壇に登場、小説を書く傍ら二十年に亘り時評を書き続けた。本書には「永井荷風氏の『つゆのあとさき』」、「谷崎潤一郎氏の『春琴抄』」のほか横光利一の純粋小説論にふれた「『純粋小説論』の反響」など昭和六年から十三年までの時評を収録。自ら激動の時代を反映。ノーベル賞作家川端康成の出発点を刻す文芸時評。
この、ノーベル賞受賞ということで、川端は、「美しい日本の私」という受賞記念講演を行った。後年、小生は、「美しい日本の私」を久方ぶりに読んで、改めて静かな感動を覚え、『ナム序説 脳死する日本のわたし―妄想的文化批評』を書き上げたものだった(95年の失業当時)。
明らかに、「脳死する日本のわたし」というのは、「美しい日本の私」をいびつな形で踏襲している。
小生が高校三年生だった当時、川端にとって門下(?)だった三島由紀夫の割腹自殺事件、さらには川端康成本人のガス自殺などが相次いで生じ、浅間山荘事件などの世相と相俟って、小生に衝撃を与えた。
その頃の小生は、文学より哲学に傾倒していて、小説の世界、まして自分が曲がりなりにも創作するなどとは夢にも思わなかった。文学は、立山連峰の高峰の彼方での遠い世界の<出来事>であり、本の形に成った作品を読むことしか考えられなかったのだ。なんて初心な我輩だったんだろう。自分で試みようと思うまでに、大学を卒業してからでも、十年以上を経過している…。
川端康成は、大学を卒業して間もなく、同人誌「文芸時代」を創刊したという。そんな経歴も、今更ながらに気づく。本書を読んで分かるように、彼は辛辣な批評を展開している。とてもやわな精神の持ち主などではないのである。
ところで、「文芸時評」という言葉だが、一体、いつから誰によって創始されたのだろう。この点について文芸評論家の谷沢永一談の形で書かれているサイトを発見したので、興味のある方は、下記を参照願いたい。
本書には、上掲の紹介にもあるように、昭和六年から十三年までの時評を収録してある。冒頭がまた、「文壇唾棄論」である。話題がなくなると、間隙を埋めるようにして発生する、しかし、ついつい誰しも一言語ってみたくなる話題である。いつの時代も似たような論が流行るものだ。
これについては、川端はかなり真っ当な言い方で一刀両断している:
文壇を罵る人は多い。しかし、自分の眼と声で、それをする人は少ない。文学の流れはいかに濁ったとて、一日も静止してはいない。文壇に対する不平不満を聞くならば、人々は第一にその声の主が文壇のよき部分に目を閉ざしていないかと疑い、第二に今日の文学を知る力があるかを調べ、第三に彼自身の文学が腐っている時ではないかを見るべきである。
かなりの自信家でないと書けない文言である(つまり、自ら表現者としての意欲に満ちているということ)。
川端の筆はさらに勢い良く、純文学衰亡論に及ぶ。当時、映画が勃興してきた時代でもあったのだ。
川端は書く、「文壇の合唱は多く早合点だ。去年あたりの、文学が映画に滅ぼされるという騒ぎも、片や世界の名映画、片や月々の短篇駄作、それを比べ、日本映画は棚に上げてのことだから、話にならない。例えば、近頃評判の映画「モロッコ」の心理描写の技法なんか、文学として見れば古風な大甘ものだ。云々」
こんな才気ある闊達な論調を展開できる彼が後年、自殺してしまうなんて、悲しいと思うばかりである。
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