『私は、経済学をどう読んできたか』(2)
ハイルブローナーの本は、前稿でも書いたが経済学の歴史に貢献した高名な面々の文章がたっぷり引用されている。
今回は、マルクスとベンサム(の一部)の項を読んだ。
カール・マルクス/フリードリッヒ・エンゲルス共著の『共産党宣言』からも引用されているのだが、その第一章の末尾の「……工業の進歩は、競争による労働者の孤立化の代わりに、結合による労働者の革命的団結を作り出す。だから、大工業の発展とともに、ブルジョア階級の足もとから、かれらがそのうえで生産し、また生産物を取得する土台そのものが取り去られる。かれらは何よりも、かれら自身の墓掘り人を生産する。かれらの没落とプロレタリア階級の勝利は、ともに不可避である。」は、あまりに願望の念の濃い洞察だったのだと、懐かしさと悲しさを覚えたりする。
この溌剌としたというか、勇ましいというか、勇み足気味の結語は、一体、マルクスとエンゲルスのどちらの主張が込められているのか。
[『共産党宣言』の全文を、以下のサイトで読むことが出来る(永江良一訳)]
今日の世界で見られるように、各国の労働者は、とことん分断していってしまった。とてもじゃないが、万国の労働者よ、団結せよ! とは叫びようがない惨状だ。
日本でも冷戦構造の瓦解に遅れること数年、あるいは孤立を深め、権力や社会と単独者として向き合う羽目に陥っている。違った文脈だろうが、キルケゴールの叫びが今更ながらに身につまされそうなほどに度し難い孤独を託っている。
個人は窓のない微粒子のように細分化され、一方、光の二面性ではないが、個人は細波ともなる。グローバル化する世界の荒波に弄ばれる波しぶきとなっている。自己の存在のあやふやさが、自殺へ、精神的混迷へ、自律神経失調症へ、飽くなき過激な刺激(濃い味、グルメ、ドラッグ依存、ブランド、創造性と独自性への過剰な賛美)への焦燥感へと追い込まれていく。社会にあって、個人は各個撃破されていくのだ。
マルクスの諸著ででも、そこに嗅ぎ取れるのは、とにもかくにも人間臭さだ。人間が人間社会を理解しようとしていることくらいは、ボンヤリの小生でも感じられる。今となっては、懐かしいくらいに慕わしい世界がある。未だ、いつかは労働者が団結するなどと夢見ることもできたのだ!
今だって、ネットの出現で、横のつながりを持つ可能性は、潜在的には高まっている。実際、いろいろな形でネットワークが組まれている。しかし、あまりにネットの可能性が膨大すぎて、一体、どこに横のつながりの糸口を見出せばいいのか分からないでもいる。
さて、ベンサムの有名な言葉、「自然は人類を苦痛と快楽という、二人の主権者の支配のもとにおいてきた。」以下の文章(引用)を本書で読むことができる。あまりに割り切りすぎた視点ではあるが、今だに、この功利主義的視点以上の洞察を誰一人示すことができないでいる。
経済上の行動原理において、快不快以外に梃子となる根拠がないということなのだろうか。
(04/03/02)
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