J・M・クッツェー著『夷狄を待ちながら』
著者であるJ・M・クッツェー(J.M.Coetzee(1940- ))は、昨年度のノーベル文学賞の受賞者。本書『夷狄を待ちながら』(土岐恒二訳、福島富士男解説、集英社文庫)は数々出ている彼の本の翻訳で、唯一の文庫本のようである(だから手が出せた)。
クッツェーは、「南アフリカのケープタウンの生まれ。彼にはボーア人(オランダ系の南アフリカ移住者)とイギリス人の血が流れている」という:
彼には共にブッカー賞を受賞した『マイケル K(1983)』や『恥辱』がある。
表表紙には、M・エルンストの『荒野のナポレオン』が掲げられている。
さて、タイトルの『夷狄を待ちながら』からは多くの方が有名なタイトルを連想されるだろう。そう、『ゴドーを待ちながら』である。『夷狄を待ちながら』の原題は、『Waiting for the Barbarians』で、「the Barbarians」をどう訳すかを別にすれば、ほぼ直訳なのである。
本書(文庫本)の裏表紙の謳い文句を引用すると、「静かな辺境の町に、二十数年ものあいだ民政官を勤めてきた初老の男「私」がいる。暇なときには町はずれの遺跡を発掘している。そこへ首都から、帝国の「寝ずの番」を任ずる第三局のジョル大佐がやってくる。彼がもたらしたのは、夷狄(野蛮人)が攻めてくるという噂と、凄惨な拷問であった。「私」は拷問を受けて両足が捻れた少女に魅入られ身辺に置くが、やがて「私」も夷狄に通じていると疑いをかけられ拷問に……。」とある。
帯には、「野蛮人は攻めてくるのか? けっして来ない夷狄を待ちながら、文明の名の下の蛮行がつづく…。」とある。クッツェーが劇作家サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』を読んでいたかどうかは知らないが(当然、読んでいただろうし、芝居も見たことがあるのかもしれない)、この「ゴドー」という得体の知れない何物かを待ちつづける、ある意味、生きることの存在理由さえ問われてしまう物語を意識していただろうと思っていいのだろう。
本書の場合、待ちつづける相手は、夷狄(野蛮人)である。その意味で、姿も形もあるはずである。
が、物語の中では、彼らの姿は直接にはほとんど描かれない。彼らは、<文明人>には容易には姿を見せないのだ。しかし、<文明人>にすれば、いつかは夷狄(野蛮人)どもがやってくるに違いないと怯えつづけるしかない。
何しろ、攻め入り追い払ったのは<文明人>の側なのであり、攻め取った土地はもともとは夷狄(野蛮人)たちのものなのだ。更地にでもしないかぎり、奴等が舞い戻って来るのだろうし、戻ってきた時には、自分たち<文明人>が為した蛮行の復讐が始まるに違いないのだ。
人は恐怖する。その際、己の思い描く最大の恐怖を描く。その恐怖とは、突き詰めたら、自分が過去に見たか為した蛮行や残虐や非道の復讐への怯えだったりする。つまり天に唾した者の恐怖の的は、つまりは己の本性への不信と恐怖なのかもしれない。
異境世界にいて、<文明人>はいつまでも、やってくるのだろう夷狄に怯えつつ、身内の裏切り者を探し出し(作り出し)拷問に掛けて見せしめにし、己たちを守るという大義の下に、やりたい放題した挙げ句、人間性がトコトン剥き出しにされていく。
植民地で<文明人>は常に同じことをやってきたのだろう、か。アメリカ大陸で白人らが行ったように。今は、もう、アメリカの地で過去の亡霊は蘇ることはないのだろうか。
アメリカが今、世界で唯一の大国になり、常に外敵を作り出し、攻め立て、更地にせずば居られないというのも、もしかしたら過去に先住民に対して為した蛮行への怯えが土台にあるのではないのか。怯えを怯えとして認めない、つまり、やったことは正義なのだと思い込まないと、自由と民主との大義の国だと言い続けないと、存立できないのかもしれない。
つまり、決してアメリカ大陸が異境の地でも先住民の土地でもない、自分たちの正統な土地なのだと思うためには、徹底して正義に拘り、正義にしがみ付き、それどころか彼らの文明の地を囲繞する野蛮の地を征伐し続けるしかないのではないか。
アメリカが先住民の土地でなくなってからは、数百年も経過していない。蛮行の過去を忘れ、冷静に見詰めなおすには短すぎる。祖父の祖父の、そのまた祖父の代の蛮行は記憶に刻まれ殺しまくった興奮の血潮は覚めやらずに、今も熱く滾っているのだろう。
その滾りの熱が多少でも平熱に近くなるまでは、アメリカは<外>に夷狄(野蛮人)を求めつづけるしかないのだろう。
己の為した暴力の悲惨に向き合い、冷静な反省に至らしめるのは凄まじい勇気が要る。それより沸々と湧く熱い血を外に振り向け暴力の連鎖を続けたほうが、容易なのだということは悲しいほどに自然なのだということか。
いつかアメリカが世界を、つまり異境の地の全てを更地にするまでは、夷狄を作り出し、夷狄を待ちながら、国家の尊厳と結束を保ちつづけるしかない、そのように我々は覚悟しないといけないのだろうか。
心の中の異境の地、異境の心。アウトサイダーの世界は、何処にもあるのだろう。それを見詰めるのは困難という言葉では表現できないほどに凄まじい努力が要るのだと思う。そんな勇気があるくらいだったら、誰も苦労はしない。
それより、異質な者(物)を見つけ次第に叩き潰し、己の中の純粋さを(純粋さと正義という幻想を)頑なに守るほうが楽なのだ。
しかし、外部のモノは内部へ浸透する。外部は常に内部を見張っている。ほんの僅かの透き間さえあれば、ダムに出来た目には見えない微細な皹に過ぎないのだとしても、そこから傷口は開いていき、ダムは決壊する。内部は外部に呑み込まれる。
なぜなら、内部は、せいぜいが大海の中の島であり、それどころか大洋を漂流する小舟なのであって、外部なしには内部など、もともと存在することすら叶わないのだから。
そうは、いっても文明はその地を固め、さらに広げようとし続けるのだろう。闇も異質な世界も恐怖の世界、軽蔑でもって対面するしかない世界なのだろうから。世界の全てを更地にするまでは、夷狄を待ちながら夷狄に怯えながら夷狄を作り出しさえしながら、外部のみならず、内部でさえも蛮行を繰り返していくのだろう。
(04/02/05)
[ 本書は政治的な背景があって受賞となったのだろうか、読みながらそんな感懐を抱いていた。小説として出来がいいとは必ずしも思えなかったのだ。本書は、コンラッドの『闇の奥』と併せて読むのがいいかも。 (05/09/11 追記)]
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