ハイルブローナー著『私は、経済学をどう読んできたか』
原題:「経済学の土台としての人間洞察…(04/02/20)」
経済思想史家のロバート・L・ハイルブローナー著『私は、経済学をどう読んできたか』(ちくま学芸文庫)をボチボチと読んでいる。経済学の形成の歴史に預かる著明な人物の思想や発想を、できるだけ本人の言葉を引用する形で、但し著者の鋭いコメントを付しつつ、説明してくれる。
経済学にも疎い小生には、何を読んでも啓発されることばかり。とにかくいきなり聖書からの引用が冒頭に来るのは驚いた。
ところで、今はアダム・スミスの項を読んでいる。恥ずかしながら、小生は彼の『国富論』は読んでいない。大学に入って間もない頃、同級生の某が今、『国富論』を原書で読んでいるなんて言うもので、その彼の気障振りが気に食わなくて、坊主憎けりゃ袈裟まで…で、『国富論』は読まないままに来てしまった。
恐らくは書店で立ち読みくらいはしたはずだが、ついに入手はしなかった(小生の場合、入手イコール読むということ)。
ま、これは小生の怠慢の言い訳に過ぎない。
今、上掲書でアダム・スミスの諸著からの引用文などを読んでいるが、読んでいて、経済学といいながら、実のところ社会分析であり人間観察であり、その上での経済という切り口からの社会への洞察なのだと感じた。
彼の時代においても顕著に進んだ産業の高度化、それに伴う分業システム。その対比での農民の生活や仕事振りの分析。
学生時代、カール・マルクスの短めの諸著や、特に『資本論』などを読み齧ったけど、そこには鋭い、しかし骨太の社会諷刺と批判があり、人間への共感の念があって、読み応えがあったことを思い出した(なのに、『資本論』は訳書の第一分冊の冒頭の百頁を読んだだけ)。
とにかくほんの一部だろうが、国富論の文章に接して、これなら読んでみたいと思わせてくれた。歴史に残る本は、経済学にあっても、結局は社会や特に人間への洞察に光るものがあるからなのだと、改めて思う。
ところで、では、近代以降の経済学はどうなのだろう。高度な数式が駆使されている、その裏にはどんな人間への理解が前提されているのだろうか。それとも人間不在? そんなことはないと思いたいけれど。
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コメント
A.スミスのレッセ・フェールに習って
世のなか市場主義が大流行のようで、
小泉内閣もこれに習って突っ走っているばかりか、
民主党も代わりばえのしない主張。
大きな政府、福祉国家を打ち出して
闘って欲しいものですが・・・・・
投稿: artshore | 2005/09/30 19:24
経済学は(経済学に限らないけど)理論よりも数式頼りになっている。物理学の成功に習ってリジッドな数式に満たされた論文が高等なような錯覚。
経済学から人間が消え去って久しい。フーコーの「言葉と物」の末尾の、人間が消えていくという予言めいた言葉が、多くの文系の学にも妥当しているような。
人間が不在になれば、自然が経済学から消えたなら、あとは数式という玩具が残るだけ。自涜の学問。
経済学も突き詰めたところ人間洞察であり世界認識なのだという理解を改めて求めたい気分です。
投稿: やいっち | 2005/09/30 19:39