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2005/09/26

プルースト『評論選Ⅱ 芸術篇』

原題:「プルースト『評論選Ⅱ 芸術篇』と死の愉楽」(04/02/20)

 マルセル・プルースト(1871-1922)の『評論選Ⅱ 芸術篇』(保苅瑞穂編 ちくま文庫)を読了した。
 参考に目次を掲げておくと、以下のようである:

ジョン・ラスキン(『アミアンの聖書』訳者の序文より)/読書について(『胡麻と百合』訳者の序文)/美術論/社会時評/音楽時評/社交・肖像/親殺しの肖像/アンケート回答

 これらのどれも魅力的なのだが、ラスキンが今一つ、掴みきれなかったのが、「読書について」を読み出したところから、一気にプルーストワールドに導かれていった。評論と銘打っているし、その通りなのだけれど、文章のスタイルは、まさに、『失われた時を求めて』のプルーストの面目躍如なのである。
 本書(の「読書について」など)に刺激されて、読書についてとか、蝋燭の焔を糸口にあれこれ自分なりの瞑想や妄想を展開してみたりした。そうしたくさせてくれるのである。

 今更、中身についてあれこれ書く気にはなれない。ただ、本書の編者・保苅瑞穂氏(独協大学教授)による「あとがき」でも引用されている以下の一文だけは、再引用させてもらいたい。それは、ラスキン論の中で、「作家が従うべき道徳について述べた」一節なのである:

 かれの道徳性とは、(〔作家が取りつかれている〕これらの現実が私たちの目にどれほど特殊なものに映ろうとも)その現実を永遠の相のもとに観照させることによって、それらをしかと見届けたいという欲求と、それらを再創造して、そこに永続的で、明確なヴィジョンをあたえずにはいられないその必然のためになら、いっさいの快楽も、いっさいの義務も、そればかりか自分の生命までも、犠牲にするよう作家を駆り立てる本能のことである。事実、かれ自身の生命に存在理由があるとすれば、それは、これらの現実に接触するための唯一可能な方法としてあるほかはなく、その生命に価値があるとすれば、それは、物理学者にとって不可欠な実験器具がもちうる価値に等しい。

 さて、プルーストの文章に改めて魅了されたと書きながら、長篇小説好きの小生も、肝腎の『失われた時を求めて』を全文通して読んだことがない。
 学生時代に井上究一郎氏の訳で3分の1を、数年前、鈴木道彦氏の編訳の2巻本も読んだりと、半分ほどは読んだのだけど、とうとう今に至るも読み通せないでいるのだ。『失われた時を求めて』に比べたら、トーマス・マンの『魔の山』も短篇だということになる?
 ところで、知られているようにプルーストの持病の喘息については、当然ながら彼の発想にも文章にも強く影響を与えている。というか、長く続く一文の起伏の裏側に息することへの細心極まる神経が行き渡っている。
 このことは、喘息のみならず結核を患う作家に(限らないが)は共通するものがあるような気がする。埴谷雄高の文章も、結核ならではの息遣いが感じられる。少なくとも『死霊』の第三章までは濃密なまでの緻密な叙述と、できるだけ句読点で文章を区切らない表現方法に、息遣いの際、喉か気管支か肺の中の腫れ物や神経質な粘膜にできるだけ刺激を与えないよう、息を潜め根を詰める習癖が感じ取られてならないのである。
 トーマス・マンの『魔の山』も、サナトリウム文学であり、まさにそうした世界が描かれている。
 これは、重い風邪ないしは、肺炎などの症状に苦しみ、息をするのもやっとという状態が、常態になったと思えば多少は想像が付くのだろうか。とにかく腫れ物に触るまいという一心で息をするしかないというのは、健康な者には想像を超える苦心があるのだろうと思うしかない。
 このことは、前にも書いたので、これ以上はここでは触れない。
[「結核と作家と」参照のこと。 (05/09/26 補記)]

 死を常に意識して生きてきた作家。人のようには生きることは叶わず、「いっさいの快楽も、いっさいの義務も」度外視して生きるしかなく、「そればかりか自分の生命までも、犠牲にするよう作家を駆り立てる本能」のみを友として生きるしかなかったわけである。
 しかし、蛇足とは思うけれど、急いで付言するなら、細密で緻密な、しかも、過不足のない表現をどこまでも追い求める、その営為の中に彼ならではの愉楽の時を味わっていなかったとは言えない筈なのである。
 死をも背負っても魅惑されるほどに、書くことは誘惑に満ちた営為なのだろう。

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