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2005/09/26

『私は、経済学をどう読んできたか』(4)

 アルフレッド・マーシャル(Alfred Marshall. 1842-1924)も、小生には、名前を聞いたことがある以外には、馴染みのない経済学者。まあ、ケインズを育てた、乃至は、ケインズが弟子であることを聞きかじっただけ。
 マーシャルの経済学者としてのモットーは、「冷静な頭脳(cool head)と温かい心情(warm heart)」なのだとか。  彼の生涯など、彼に付いての全般的なことは、下記のサイトを参照のこと:

『私は、経済学をどう読んできたか』の著者、ハイルブローナーによると、「経済思想の発展を学ぶ上でマーシャルが特に興味深いのは、(略)同時に二つの経済分析の手法を唱えている」点にあるという。
 「一つは明らかに限界理論の手法で、彼のなした貢献は極めて大きい。もう一つは、非限界理論、と言うよりは反限界理論とも言うべき、経済学を本質的に社会学的な、いかめしい言葉を使うなら道徳的な学問と見る考えである。」言うなれば、「科学が対象とする世界にはないような問題を抱えることにもなる」わけである。
「この道徳面の強調は『経済学原理』の最初のページに見られる」として、本書には第一章の序論が引用されている。ここでは、さらにそのほんの触りの部分だけを再引用する:

「経済学」は日常生活を営んでいる人間に関する研究である。それは、個人的ならびに社会的な行動のうち、福祉の物質的要求の獲得とその使用にきわめて密接に関連している側面を取り扱うものなのである。

 なるほど、経済学がそうであったのなら、素晴らしい。小生も少しは勉強してみたくなってしまう。
 経済学で言う<法則>とは何だろうか。様々な<文系>の学問に数式が導入されている。数学とまでは行かないとしても、物理学(特に近代において意識されていた天文学=ニュートンの天体物理学)での法則と同じ厳密さを誇れる物なのか。
 素人でも、そうはいかないと直感的には思うだろう。
 社会現象を扱うはずの、それが経済という側面に限定されているとしても、到底、物理現象ほどには法則など成立するはずがない、そう、ド素人たる小生は思う(思い込んでいる)。
 自然現象にしたって、法則化が馴染むのは極めて限定的な局面、理想化された、ある意味理念的な空間においてにすぎないのではないか。
 が、cool headのマーシャルは、軽く小生の危惧というよりただの怠惰な精神をいなしてしまう。「われわれは人間行動の傾向についてなんらかの観念をもたなくてはならないのだから、われわれに選択できることといえば、それを思慮深く形づくるか、それとも無思慮に形づくるかだけである。」
 さらに、マーシャルは続ける。
「問題がむずかしければ、それだけ堅実で慎重な探求が必要であり、また先進的な科学が積みかさねてきた経験を活用し、人間行動の傾向について考え抜かれた推定、あるいは暫定的な法則をできるだけよく形づくることが要求されるのである。」

 怠惰な小生のように、現実と言うものは複雑怪奇なもので、とてもじゃないが、法則などという概念など妥当するわけがないと、あっさり理論化を諦めるのではなく、現実の世界で生きる以上は、可能な限りの「人間行動の傾向について考え抜かれた推定、あるいは暫定的な法則をできるだけよく形づくること」が、大切だ、というわけである。
 さて、マーシャルの経済学に関する業績について、細々と紹介することは、小生の能力を超える。興味の範囲もはるかに食み出てしまう。その点については、西岡幹雄氏著の『マーシャル研究』(1997年,晃洋書房) に任せるのが賢明だろう

 それよりも、ここではマーシャルの言う「日常生活を営んでいる人間に関する研究」に関心を向けたい。

 マーシャルの『経済学原理』では、例えば、成功した実業家の息子が実業界で有利な出発が出来る…はずなのに、現実には難しい…、なぜなら、彼ら二代目達は、必ずしも誰もが創業者ほどには能力や気質に恵まれているわけではない、だから、世襲王国が打ち立てられることはないのだ…云々と、今時の経済学の本では間違っても書かないようなことを縷縷、語って見せてくれている。
『経済学原理』には、ハイルブローナーによると、「二人のマーシャルが我々の前に現れた――鋭く、しかし視野の狭い分析家のマーシャルと、社会に関心を持ち、希望的観測をする道徳家のマーシャルである。」本書において、ハイルブローナーが引用している『経済学原理』の末尾近くのマーシャルの言葉を再引用しよう:

いつもそうであったが、今日も、社会の再組織のけだかく熱心な計画作成者たちは、かれらの構想力をもって容易にきずきあげた制度のもとでは生活はこうなるだろうと、美しい絵を描いてみせている。しかしこれは無責任な想像だというほかはない。それというのも、人間性がこれまで一世紀かかっても、たとえ有利な条件があっても、変化するとはとうてい期待できなかったのに、かれらは新しい制度のもとではそんな変化が急速に行われるといった想定を暗黙のうちにおいているからである。人間性が理想どおりに変貌できるものなら、現行の私有財産制度のもとでも、経済騎士道が生活を指導していくことになろう。私有財産の必要性は明らかに人間性の性質だけでは説明できないもっと奥深いものがあるのだが、人間性がそうなってしまえば、私有財産の必要はなくなるし、またあっても無害なものとなるだろう。(以下、略)。

 若き日、数学者を志したマーシャル(実際、数学教師にもなった。量子物理学に関心があった)、一方、「研究を重ねるごとに彼は自然を創造してきた「神」の存在を必然的に否定してしまうことに悩んでいた」マーシャル。
 彼は、最後まで今となっては古典的な人間に関心の深い経済学者だったということなのだろう。
 そうはいっても、経済学は更に純粋な学としての経済学への道を突き進む。視野の狭い分析的な、その意味で厳密で緻密な法則や数式に満ち溢れた経済学へと。
                       (04/03/07)

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