『解体新書』初版本発見!
昨日、車中でラジオを聞いていたら、杉田玄白の『解体新書』初版本が、しかも、全五巻揃った形で発見されたというニュースが流れてきた。小生、思わず耳をそば立てた。
生憎(すいません、幸いにも)、ニュースの途中でお客さんをお乗せしたので、ラジオのボリュームを下げてしまい、詳細を聞くことはできなかった。
聞きかじってお客様を目的地にお届けしてから急いでメモしたのは、「杉田玄白 解体新書 初版 五巻揃い 京都 後の版では訂正されている間違いがそのまま そのうち公表する 安永」などのキーワード(?)だった。
あまり大きなニュースではないのか、あるいは既に旧聞に属する話題で、ここ数日の新聞などでは扱われないのか、ネットで関連する情報を探しても見つからない。
小生、歴史も何も得意ではないし、詳しくはないのだが、ただ、どんな学問でも黎明期に関連するような、その学問に燭光の当るような話題となると、大好きである。
この『解体新書』に関連しては、『蘭学事始』である。本書は、「杉田玄白が82歳のときに蘭学創始の時代を回想録風にまとめたものを、大槻玄沢に補筆を依頼し玄沢は玄白に日頃聞いていることや自分の見聞を入れ「蘭東事始」として玄白に進呈した」のだとか:
杉田玄白が82歳! 晩年に至るまで明晰な頭脳や記憶力を維持されていたのだろう。いずれにしても常人ではない。
ちなみに、「後の版では訂正されている間違いがそのまま」というメモ書きを上掲のサイトの世話になる形で補足すると、「大槻玄沢が師の杉田玄白より『解体新書』の原典を翻訳・重訂するよう依頼され刊行したもので、内容は杉田玄白の『解体新書』よりはるかに正確で、江戸時代の解剖書としては最も完備したものであると同時に大槻玄沢の学識の博さが知られる」ということである。
ただ、ここまで書いて悲しいのは、『蘭学事始』は読んだことがあるが、『解体新書』は今に至るも読んでいないということ。関心があるといいながら、この体たらくなのだ。
古書・古文献の発見というと、過日、伊能忠敬の日本地図で、何か重要な発見があったというニュースを聞いたばかりである。こういう発見という話題は、何故か大好きだ。歴史の古層が、(文献・資料の新発見という意味で)新しい資料で光が当る、そのことでどんな忘れられた相貌が見出されるかと、楽しみでならない。
その意味では、古代の文献が何か見つかったなら、興奮は最大となるのだが、さて。
学問の夜明け的なもの、特に医学に限ると例えば、昔、トールワルド著の『外科の夜明け』(講談社文庫刊)を読んで興奮覚めやらなかったことを思い出す:
映画『風と共に去りぬ』を初めて見たのは、小生が大学に入って間もない頃だった。その後、幾度となく見ることになり、小説のほうも、全部を通して読んだし、続編にあたる『スカーレット』さえ、読み通した。
さて、その映画を初めて見たときに衝撃を受けたシーンがある。
それは、戦争で怪我をした軍人の足を切断する。しかも、麻酔無しで、というシーンだった。余儀なく戦場で治療現場に立ち会うことになったスカーレットが、まさにその麻酔無しでの足の(ノコギリでの)切断に立ち会うことになる。処置が終わった後で、確かスカーレットは吐いていたような記憶がある。
けれど、昔はこれが当たり前の現実だったのだ。上掲のサイトから引用させてもらう:
当時の外科学で最大の問題は外傷の治療であり,相次ぐ戦争でのけが人,街中での交通外傷患者(馬車に轢かれて受傷)はそこらに溢れていた。その多くが敗血症(当時はそういう概念すらなかったが・・・)で死んでいったが,唯一,命を助ける方法は怪我をした四肢を切断する事だった。なるべく傷から遠い場所で四肢を切断できれば患者は死なずに済むのである。
そして、本書『外科の夜明け』は、「麻酔発明前夜の外科手術がどれほど苦痛を伴うものだったか,消毒法開発前夜の手術がどれほど恐ろしい死亡率だったかを描き,この二つの発見が人類に計り知れない福音だったことを,あたかもその場に立ち会っているかのようなリアルタイムの生々しさで描き尽くしている」のだ。
医者というと、今日の我々は、基礎研究に携わる人も勿論なのだが、第一に思うのは我々に身近な人として、治療する人、ということだろう。が、長く医学というのは、あくまで学問であって、人に直接触れるような<不浄>なことは、下々の者が行うものに過ぎなかったのである。
西洋でも、実際の治療行為は、民間療法に委ねられていた。
床屋さんの看板である白地に赤と青の縞が入っていて、それがグルグル回っているが、その赤と青は、動脈と静脈を表し、瀉血など伝統的な民間療法が、医学的な背景とは無縁な形で行われていたことの遠い名残なのだということは広く知られている(どうも、俗説らしい…)。
日本に話を戻す。
医学の黎明期ものというと何といっても、「世界で初めて全身麻酔による手術を行った華岡青洲(はなおかせいしゅう)」が有名である。
しかしながら、印象として『華岡青洲の妻』という先入観というか、イメージがあまりに強い。言うまでもなく、有吉佐和子著である。
大方の人は、舞台や映画、あるいはテレビドラマで周知のドラマとなっているかもしれない:
小生も、遠い昔、中学の頃(?)テレビでこのドラマを見た。何となくこのドラマの影響がありすぎて、肝腎の有吉佐和子さんの『華岡青洲の妻』(新潮文庫刊)を読んでいないような気がする。もう、読まなくたって結果が分かってるじゃない、ていう感覚が強すぎる、それほどドラマの印象が、つまり、嫁と姑との確執など陰湿な形で脳裏に刻まれているのである。
医学の黎明モノというわけではないが、やはり逸することが出来ないのは、ヒポクラテスの 『古い医術について』(岩波文庫)だろう。古代のギリシャにあって、医学の父と呼ばれるヒポクラテスは、病気の原因を合理的に考えようとしたこと、病気の症状を冷静に観察したおとなど、その後の医学の理論と実践(治療)の乖離を思うと、屹立した存在ということになるのだろう。
ところで、下記のサイトをつらつら眺めていたら、面白い記述が見つかった:
というのは、冒頭の「樋口一葉は、大変な頭痛もちでした。」ということではない。
もっと下の方に、「●ヒポクラテスの片頭痛の記述」という一項がある。
その中に、「ヒポクラテスはヒポ+クラテス」であり、「ヒポhippoはウマの意味」。「cratesは「統治」の意味」そして、「哲人ソクラテスの妻クサンシッペ Xanthippeはxanthos(黄色) + hippos(馬)、すなわち「黄馬」という意味」で、つまり、クサンチッペは、ソクラテスではなく、ヒポクラテスと一緒になれば、ヒッポをクラテスできたかもしれない、というのだ。
ま、ソクラテスのようなとんでもない変人と結婚したら、どんな素敵な女性も、悪妻になるしかないのだろうけれど。
それに、女性とは御すべきものという古い発想が透けて見えるような気もして、世の女性の反感も買いそうである。
ヒポクラテスについては、「ピポクラテスの誓い」が有名だが、これは既に話題に採り上げたことがあるので、ここでは触れないでおく。
(03/12/02)
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