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2005/08/07

チェーホフ『六号室』

原題:チェーホフ『六号室』の頃(03/10/04)

 チェーホフに夢中になったのは、もう三十年の昔になる。文庫本で何冊か読んでチェーホフの世界の虜になり、ついには昭和51年に発行された再訂版チェーホフ全集(神西清/池田健太郎/原卓也訳、中央公論社刊)にも手を出すようになった。
 といっても、数冊ほど買っただけで、全冊を揃えるのは頓挫している。全集を二揃え所蔵したドストエフスキーほどには傾倒しなかったということなのか。
 実はそうともいえない。ドストエフスキーの世界には仮に没頭しても、その世界に踏み迷って、そこから抜け出せないだろうという予感はなかった。何処か違う世界、異質な世界を感じていたのかもしれない。
 だからどこまで読み浸っても、その世界から抜け出せないという気もせず、その意味で安心して浸りきることができた、とも言える。
 その点、チェーホフ文学は、その魅力に毒されたなら、到底、抜け出せないだろう、そんな予感というか恐怖のようなものを覚えたのだと、今にして思う。
 大学生になり読書を存分に出来るようになって、主に古典を中心に読み漁った(といっても六年間の大学時代で千冊を越える程度なので、読み漁ったというのは大袈裟なのかもしれない。ただ、自分の感覚では徹夜も辞さないで読めたやや甘い孤独の漂う幸福な時代だったということなのかなと思ったり)。

 その中でも文学ではロシア文学に入れ込んだようだ。チェーホフ、プーシキン、ゴーゴリ、ガルシン、ドストエフスキー、トルストイ、ツルゲーネフ、ゴーリキー、ゴンチャロフ(オブローモフ)、ショーロホフ(静かなドン)、レールモン
トフ、パステルナーク、アクショーノフ(星の切符)、クロポトキン、トロツキイー、レーニン、これはポーランド文学だが、ロシア文学の流れでシェンキエビッチ(クオ・バディス)などなど。

 高校の頃から哲学熱に浮かされていたが、大学も五年目ともなると、大概の友人はさすがに大学を去り、ほとんど一人きりの生活が始まっていた。それまでの四年は、週に三度、四度と友達のアパートを泊まり歩きながら、徹夜で文学談義、哲学談義、音楽や美術談議などをしながら、人との交流にしんどいと思いながらも外を出歩くこと
も多かった。人間的な交流がまだあったのだ。
 それが、一気に一人きりの生活が始まった(確か一人だけ友人が居残っていたが、彼は次のステップのための受験勉強に勤しんでいて、小生を相手にする暇がなかったようだ)。
 一人、杜の都・仙台の外れの新興住宅地にあるアパートの一室に篭りながら、依然、本の渉猟をしつつも、哲学の迷妄に深入りしていった。
 別に小生などが深い思索を展開できたとか、そんなことではなく、徹底して自分の世界に落ち込んでいくと、そこには何の歯止めもない、ひたすらに手応えのない泥沼が待っているだけだったということなのである。
 高校の頃から、フロイトをはじめ、精神医学関連の本も読み漁っていて、たとえばブランケンブルクの『自明性の喪失』(みすず書房刊)に魅了され、もしかしたら自分はまともじゃないんじゃないか、という、若者に特有の病弊に陥ってしまったりする。
 誰一人、付き合う人もないと、ある種偏った(後から思うと偏っていたのだろうが、当の本人には分からない)精神の傾向は、ドンドン病的に強まっていく。誰もいない世界で、会話もなく、雑事もなく、行けども行けども似たような、あるいは何処か違うような空白の世界が待っているだけ。
 やがて、日常の世界と断絶したような<錯覚>に陥ってしまう。錯覚とは後で振り返っての、あるいは外からの表現であって、当人としては錯覚と正常の境目が分からなくなっている。どこまでが正常な範囲の思索や瞑想なのであって、何処からが踏み入ってはならない尋常ならざる世界なのか、自分には判断の付けようがない。
 段々、常識が分からなくなり、正常とか良識とか常識が見えなくなり、それこそ単純な自明性の感覚が失われてしまう。
 世界の中にあって、水平の感覚も垂直の感覚も喪失しているから、健全なる常識の大地に真っ直ぐに立っているはずなのに、傾いているような、バランスを失っているような、眩暈を覚えるような、不思議な酩酊感に酔ってしまう。
 覚醒のない酩酊。

 チェーホフの「六号室」を幾度、読んだことだろうか。この傑作は有名なので話の内容を知っている人も多いだろう。今更、粗筋を説明するなよ、なんて声も聞こえてきそうである。
 そこで、この「六号室」を扱ったサイトを紹介するに留める:
 楡野 麦彦氏 
ロシアの近代における、知識人について ~チェーホフ『六号病室』~

 あるいはこのサイトでは、「六号室」の冒頭部分の訳が読める。中村白葉訳で、その雰囲気を味わってもらいたい。
 何処か埴谷雄高の『死霊』、それとも、夢野久作の「ドグラ・マグラ」の雰囲
気を漂わせていることを感じることだろう:

 作品の時代背景的なものは、楡野 麦彦氏のサイトに説明がある。
 『六号病室』における主要な二人の登場人物は、地方都市の医師アンドレイ・エフィームイチと、その病院の精神病棟に軟禁されている元執達吏イヴァン・ドミートリチである。
 アンドレイ・エフィームイチは、楡野 麦彦氏のサイトにある引用を再引用するなら(湯浅芳子訳)、次のような発想をする男である:

 人生は腹だたしい罠です。考える人間が成人に達して、成熟した自覚をもつようになると、彼は知らずしらず自分を、さながら出口のない罠にかかっているように感じます。実際、彼は彼の意志に反して、なにかの偶然によって無から生へ呼び出された……なんのために? 彼は自分の生存の意義と目的を知りたがる、彼にそれを言うものはないか、あるいはバカげたことを言うかです。彼は叩く――があけてくれない。彼に死がやってくる――これもまた彼の意志に反してです。まあこうして、監獄で共通の不幸によって結ばれた人びとが一しょに集っていると楽な気がするように、人生においてもまた、分析や普遍化へ傾いている人びとが一しょに集って、誇らしい自由な思想の交換に時を送っていると、罠のことには気がつかない。この意味において、知力はかけがえのない享楽なのです。

 そのアンドレイ・エフィームイチは、病院の精神病棟に軟禁されている元執達吏イヴァン・ドミートリチに初めて話し相手になれる人間を見出す。ここが皮肉なところだ。物事を徹底して誠実に考え抜くと、その人は社会から食み出してしまう。まるで理解されない異常な人間扱いをされる、のか。

 再度、同じサイトから引用させてもらう:

 問題は、きみとわたしは思考(かんが)えている、ということにあるのです。わたしたちは互いのなかに、思考し議論することのできる人間を見ています、そしてこれは、わたしたちの見解がどう異っていようとも、わたしたちを一致共同のものにしています。一般の分別のなさ、無能無才、鈍さ、がわたしをどんなにあきあきさせたか、そしてどんなによろこんで、いつでもそのたびわたしがきみと談話しているか、ねえ、きみがそれをわかってくださったらな! きみは知力に富んだ人です、そしてわたしはきみを享楽しているのです。

 精神病棟に軟禁されている元執達吏「ドミートリチが本当に精神病者なのか、それは判らない。ただ、彼は社会的に「精神病」とされているだけである」。エフィームイチは、ドミートリチと親しくなり、このように語りかける:

 きみはものを考える、そして考え深い人です。どんな環境にいても、きみは自分自身のなかに安らぎを見出すことができる。人生への解明へとひたすら努力する自由な深い思索、俗界の愚かな齷齪への完全な軽蔑、――そらこれこそ、人間がかつてこれ以上のものを知らない二つの福(さいわい)です。

 大学生活の終わりの二年間、乏しい知力しかないのに、それでも徹底して闇の世界の中に深入りしていくと、もう、元の世界には戻れないことを感じてくる。青木が原の樹海に、なんの後戻りのための手段もなく、仲間もなく、踏み入り戸惑い逡巡し絶望的な迷妄に狂気の臭いを嗅ぎつけるばかり。
 要するに一言で言うと、孤独に耐え切れなかったということになるのだろうか。誰の応援もなく、他人との他愛もない付き合いもなく、ただただ自分の思索と判断と常識だけがコンパスで茫漠とした世界を流浪し続ける、流浪の果てに蜃気楼の町さえもいつか行き当たるとは限らない、その恐怖感に怯えてしまったのだと思う。
(デカルトやスピノザを勝手に自分の中で英雄視しているのも、彼らが、最期までやってのけたからだ。)
 昭和51年にチェーホフの「六号室」などを読み直して、狂気に至るしかないという恐怖感を覚え、自分はさっさと一人、敵前逃亡したような気がする。
 それでもその後数年は、徒労に終わる精神的なモラトリアムを続けるのだが、それも優柔不断のせいなのかもしれない。
 やがて、上京して三年もしないうちにガス事故で死に損なった時、最終的にやっと自分に見切りをつけられた、と思ったのだ。弱気の虫が泣き叫ぶものだから、文学も思想も趣味の範囲に留めようと撤退を始めたのである。それが昭和の55年の終わり頃で、翌年には小生はサラリーマンになる。
 そのサラリーマン生活が、まさか、もっと長いモラトリアムになるとも思わないで。その後のことは、いつか別の機会に。

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コメント

初コメントです。
なぜこんな古い日記に?とお思いかもしれませんが、うれしくなったので書いています。なぜかと言いますとわたしは中村白葉の曾孫なのです。
何の気はなしに曽祖父の名前で検索してみたら15200もヒットし、絶版になった本を探して下さっている方や昔読んだと言う話を日記に書いて下さっている方がいて感動しています。わたしが3歳の時に亡くなったので記憶はさだかではないのですがこんな風に本を読んでくださった方の日記を読むことによって曽祖父の面影を見ているようでうれしい気持ちになりました。

投稿: luna | 2007/09/07 13:26

lunaさん、はじめまして!
コメント、ありがとう。
まさか、中村白葉さんを曽祖父とされる方からコメントをいただけるとは、驚きであり、とても嬉しいことです。
曽祖父の方の業績が残っていて、今も息衝いている。
凄いことですね。
曽祖父の中村白葉さんの訳業の恩恵を受けた人は世の中にどれほどいることでしょう。


小生の場合、曽祖父のことはまるで知らない。知っていることと言えば、曽祖父が小生の本家から田畑を一部譲り受ける形で分家し、今の小生の家が始まったらしい(その土地に今も郷里の家がある)ことくらいです。

旧稿にコメントをいただき、小生も拙稿を懐かしく読みました。

話を先に進める前に、中村白葉さんについて(「中村白葉 - Wikipedia」より): 
中村 白葉(なかむら はくよう、1890年11月23日 - 1974年8月12日)は、ロシヤ文学者。

神戸市生まれ。本名・長三郎。名古屋商業学校を出たのち、1912年、東京外国語学校(現・東京外国語大学)ロシヤ語科卒業。米川正夫は一歳年下で在学中に知り合い、一緒に同人誌『露西亜文学』を刊行しロシヤ文学の紹介を始める。卒業後、鉄道院に勤めるが文学への志が強く、辞職、雑誌編集者となる。24歳の時、新潮社にいた投書仲間の加藤武雄より「罪と罰」の翻訳依頼を受け、1914年、それまで内田魯庵の英語からの重訳で読まれていたのを、初めてロシヤ語からの邦訳を刊行する。15年、朝日新聞社に入るが、翌年、貿易商野沢組のロシヤ部に二年間勤務。19年、退職し、『アンナ・カレーニナ』を翻訳、また22年ころ、福岡日日新聞に自伝的小説「蜜蜂の如く」を連載した。23年の震災後、日本電報通信社文藝部に三年半勤務するが辞職、以後ロシヤ文学の翻訳に生涯を捧げる。トルストイ、チェーホフ、プーシキンの作品は、その大半を手がけた。『アンナ・カレーニナ』は何度も改訳をおこなった。
ロシヤ文学者の中村融は、女婿にして養子。
             (転記終り)

幾つか注目すべき事実がありますね。
●「罪と罰」が、それまで内田魯庵の英語からの重訳で読まれていたのを、初めてロシヤ語からの邦訳を刊行する。
●会社を辞め、『アンナ・カレーニナ』を翻訳した。
●トルストイ、チェーホフ、プーシキンの作品は、その大半を手がけたこと。
●ロシヤ文学者の中村融は、女婿にして養子。

文中にあるように小生は特に学生時代から社会人になった頃の十年はロシア文学を中心に読んできました。
調べてみたら、ちょうど小生がロシア文学作品を読み漁っていた頃(1970年台半ばから80年代半ば)、中村白葉さんの作品が次々に刊行されていたようです。
中村白葉さんは74年に亡くなられたとのこと。ちょうど相前後して小生はロシア文学に傾倒したことになる?!

ちなみに、今もロシア文学好きは変っていません。昨年は「アンナ・カレーニナ」を読みましたし。
今の時代、ロシア文学(翻訳)はどの程度の人気なのか分かりませんが、あの驚異的な高峰は読まれ続けていくことでしょう。

投稿: やいっち | 2007/09/08 12:53

長いお返事ありがとうございます。
わたしにとっては曽祖父は曽祖父で子供の頃などは家に本があっても「イワンの馬鹿」くらいしか読んでなかったんです。中学、高校くらいでさすがに読まなきゃと思い挑戦したものの「罪と罰」なんて何度も挫折してやっと読み終えると言う感じでした。(苦笑)そして印象といえばロシアってなんだか寒くて陰気くさいところだな、そんなところには住みたくないなでした。そしてその通り今は明るいメキシコ人と結婚し一年中気候の温暖なところに住んでいます。(笑)外国に目が行くと言う点では似てるのかもしれませんね。中村融の子供達もイギリスとローマに行きましたし・・・

曽祖父は長三郎という(ダサイ?)本名がとっても嫌いだったようです。白葉なんて随分かっこつけましたよね。(笑)
そして長唄の家元の娘だった曾祖母はお稽古には熱心でしたが家事育児は全くと言っていいほどしないわがままな人だったので、奥さんとの事で苦労したトルストイと自分の境遇を重ねていたようです。

実はまだ読んでいない作品もたくさんあるので今回こうしていまだに曽祖父の作品を読んでくださったり思い出してくださる方に刺激をうけて再挑戦してみようかと思っています。

下記の記事はインターネットで見つけたものです。

印税をうけとらないなんて今では考えられないような話ですが、その当時は文学者も出版社もいいものを世間に出そうとして必死だったんですね。

身内自慢のようですがその純粋な情熱に感動しました。物質社会に流されそうになる今の時代こそ忘れたくないですね。


ღ♦*゚¨゚・*:..。♦♫ღ♦*゚¨゚・*:..。♦♫ღ♦*゚¨゚・*:..。♦♫ღ♦
三木さんの一文がきっかけで、計らずも30年程前のことを思い起こしました。中村白葉さんとお目にかかった時のことです。河出書房が倒産した時の頃で、談が偶々印税の話に及びました。

 ご承知の通り、中村白葉はトルストイ全集を刊行していまして、月つ゛きの生活費を貰えればいいと言って、巨額の印税が河出書房にプ-ルしてありました。そうすれば、会社の資金繰りにいくらかでも役立つと思ったからそうしたのです。ロシヤ文学の翻訳一筋で家族を扶養していくことの困難を骨身に沁みていることと、大正、昭和時代の経済的に脆弱な出版界を目の当たりにして来ただけに、出版社の台所事情は熟知していたからです。

 倒産して河出書房の社員が、白葉邸に訪れて会社の倒産の経過を説明した後、「先生、今となれば印税全部貰って下さったらよかったのに、、、」

 白葉は微笑しながら、如何にも屈託なくそう言いました。そこには苦心して一字一句翻訳した報酬を、あっさり放棄する態度に一抹の清々しさを覚えました。と同時に感服しました。

 出入りの社員にしてみれば、申しわけなさでそう言うしかなかったのでしょう。その社員も辛い立場であったと想像されますが、恐らく中村白葉の淡々とした態度にホッとすると共に済まない気持を懐いて帰社したことだろうと想像するのです。

 この時の話は誰にも話さないで来ました。又話しても心底から判って貰えるとは限りません。今回の文章を拝読して、中村白葉の心境を理解していただけるのは、三木さんを除いていないと確信したからに他なりません。三木さんが露文専攻で、河出の編集者を経て筆一本で生計を立ててこられたから、原稿料や印税と言うものがどういう性質のものであるかということを骨身に沁みていられると思うからです。

 その中村白葉が、長野の木崎夏期大学で毎年講義をしていましたが、その年急死されて今年で26年になります。今年の夏、久し振りに「ここまで生きてきて、私の八十年」(河出書房刊)の随筆集をしもときました。

 ここに書かれていることは、声を大にして仰々しいことは何も言っていません。鬼面人を驚かす類の奇抜な文章は一遍もありません。だが滋味豊かな人生が描かれていて、30年以前に書かれたものであっても、いささかも色褪せることなく、心に響いてきます。そんな訳で、在りし日の白葉がしきりに懐かしく思われました。

 中村白葉は、この随筆が上梓されてまもなく芸術院会員になられました。中村白葉の随筆が好きで、雑誌や新聞で見かけると愛読していたものですから、芸術院会員に推挙された時、東京新聞の投稿蘭に、お祝いの言葉を書きました。我々が今日、ロシヤ文学の作品を何処の国よりも多く翻訳を通して読めるのは、二葉亭四迷、中村白葉、米川正夫らの翻訳者の恩恵によるもので、トルストイの全作品は本国以外で読めるのは日本だけであるということなどを書いて、多年のロシア文学の我が国に移植した功績をたたえました。

 この記事を読まれて、当時世田谷の茅屋に挨拶に来られると電話で言われるので、恐縮してこちらから世田谷桜新町のお宅に参堂しました。

「文章世界」選者の田山花袋、投稿仲間の木村 毅、加藤武雄などのこと、近所に住んでいた志賀直哉のことなどを語って、実に楽しい一時を過ごしました。生涯一度きりの出会いでしたが、中村白葉の活字が目に触れるとその時の温雅な微笑を湛えたお顔と穏やかな言葉が蘇ってきます。八十にして新鮮な感覚を持ち続けた明治の文学青年の面影を今も忘れることが出来ません。

 三木 卓さんは直ぐに葉書を下さった。以下はその全文である。

 岩波の「図書」の拙文をきめこまかく読んで下さり、ありがとう存じました。あと半年ほどで完結しますが、ていねいに書いていかなければ、と思った次第です。

 中村白葉さんのおはなしが出て、懐しく拝読いたしました。わたしはトルストイ全集の最後の一冊(日記)の担当者で、桜新町のお宅へ通ったものです。白葉さんは、世界文学全集で沢山売ってくれたから、といって全社員を招待した食事の会をやってくださいました。桜新町のお宅は、昔、お客の出迎えのときにはチョウチンを使うようなところだったそうです。わが青春の露文学者たちというのを書くべきなのでしょうが、、、、お礼まで。

 この三木 卓さんの葉書で、中村白葉のトルストイ全集(最終回)の翻訳の担当が、三木 卓さんであったこと初めて知った。三木 卓さんは早稲田の露文出身であるが、中村白葉の担当を務めたとは驚いた。

 も一つは出迎えにチョウチンを使うような辺鄙なところであったと書かれているが、小生が白葉邸を訪問した時は、住宅街に中にあって、その面影はみとめらなかった。

 だが小生が初めての訪問で、道が分らないのでないかと心配して、途中まで行ってみた、と言われたので恐縮した覚えがある。随筆から想像していた人柄であった。ღ♦*゚¨゚・*:..。♦♫ღ♦*゚¨゚・*:..。♦♫ღ♦*゚¨゚・*:..。♦♫ღ♦

投稿: luna | 2007/09/09 10:42

lunaさん
貴重なお話をありがとうございます。
可能なら、全文を本文に転記して紹介したほどの、情熱や温かみを感じさせるいい話です。

曽祖父の名前は長三郎さんだとか。小生の祖父は長太郎でした。ちょっと似ている?
でも、小生の場合、祖父の面影も物心付く前に亡くなってしまって何もない。まして曽祖父のことは、調べようがない。

今回のお話で、小生がロシア文学に限らず(外国の)本を数多く読めるのは、中村白葉さんをはじめ、先人の労苦と情熱の賜物だったのだと改めてつくづく感じました。

小生はロシア文学は好きで、特にドストエフスキーは、小説に限れば長編・短編に限らず全作品を最低3回は読み通してきました。好きな作品の「罪と罰」は、日本語訳で5回(以上)、英訳で1回は読んでいます。
「カラマーゾフの兄弟」以下の大作は3回ずつ。

さて、現代にあって、ロシア文学は昔ほどに読まれているのか。あるいは、ロシアにおいて、19世紀ほどの文学(創作)の隆盛が再度、見られるのか。
それは分からないこととして、少なくともロシア文学に傾倒したものとして、細々ながらでも、今後も読んでいって、その感動を伝えていきたいと思ったところです。

投稿: やいっち | 2007/09/10 09:59

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