リチャード・フォーティ著『三葉虫の謎』
本稿は、リチャード・フォーティ著『三葉虫の謎―「進化の目撃者」の驚くべき生態』(垂水雄二訳、早川書房刊)を扱う。リチャード・フォーティについては、記憶に新しいところでは、以前、彼の著『生命40億年全史』(渡辺政隆訳、草思社刊)を扱ったことがある。
その本の魅力を語りきれないまま、まだ、宙ぶらりんになっていて、いつかもう一度、採り上げたいものと思っている。
が、小生は、『三葉虫の謎』をリチャード・フォーティの著だからということで買ったのではない。実は、あるサイトの日記の書き手のハンドルネームが三葉虫なのである。その方の日記は、書いてある内容は結構、子供のことで悩んでいたり(持って生まれた障害のせいで視覚的な認知能力が弱い)など、深刻だったりするのだけれど、不思議なユーモラスが漂っていて、ついつい惹き込まれてしまう。
で、三葉虫という名称が頭にこびり付いてしまい、著者の名前も確かめないで、本書を買ったというわけである。
さて、本書については、かの松岡正剛氏によって既に紹介されている。
また、三葉虫全般について知りたい方は、松岡氏のサイトでも紹介されているが、下記のサイトへどうぞ(表紙の右下に可愛い三葉虫がジタバタしているよ)。
でも、この世界にはまってしまっても小生は責任を持てない…:
小生は、「矢沢サイエンスオフィス編『知の巨人』…」の中で、次のように書いた:
現実とは、あまりに豊かな世界なのだと感じている。従って、科学や技術の進歩も際限がないと小生は勝手に思っている。まだまだ発展の余地は膨大なのだ(楽天的な意味で、そう思っているわけではない)。 が、同時に、科学や技術の今後示されるだろう可能性の世界を考慮に入れてさえも、現実の世界はさらにさらに圧倒的に果て知れず豊かなのだと、感じているのだ。何故って、やっぱり科学も技術も現実の世界に含まれる営みに他ならないのだし。
ここで科学とか技術というと、どうしても素粒子論や遺伝子工学や医学などを思い浮かべがちである。こうした科学の論文を素人が眺めると、所謂文章の部分はほんの一部で、ほとんどが数式で埋められていて、<読む>など論外で、初めから終わりまでチンプンカンプンである。
しかし、そうした科学においても想像力の働く余地が、まだまだこれからも果て知らず広がっていることを、数学者や物理学者の啓蒙書を読むと痛感させられる。極めて見通しについて楽観的な物理学者でさえ、科学に終わりがあるとはまるで感じていないのだと小生にも感じさせてくれるのだ。
一方、歴然たる科学でありながら、机の上での計算や論理的推理などより、現場の調査に明け暮れているのではないかと思われるような科学もある。考古学はその一つの典型だろうし、例えば、ここに扱う古生物学も、もっと極端に<地>の現場に徹している。
そうはいっても、考古学も古生物学も、数式も使うし、遺伝子工学も駆使するし、得られた資料の研究・分析・分類などは机の上での気の遠くなるような根気仕事なのだ。
だとすると、一見すると洗練された学問である数学や物理学も、泥まみれ・汗まみれの学問である(というイメージのある)考古学や古生物学も、その現場が一方は抽象的であるかのように見えて、実はやはり遠近はあっても現実なのであり、一方は何処かの山や岩場や海辺やとまさに自然の領域を渉猟しているようであってもそれが古生物学の現場なのであって、詰まるところ現実であり自然に研究や想像や分析の足掛かりを置いている点で実は同じなのかもしれない。
さて、本書の目次が以下のサイトで見ることができる:
その末尾にあるように、「カブトガニ」が実は、三葉虫の生き残りともいうべき生物だということも本書の中で書かれている。
このサイトには、『カブトガニの不思議』(関口晃一、岩波新書)が紹介されいる。もう12年前に刊行されたこの本も面白く読んだ記憶があって、懐かしいので、ここではせめてタイトルだけはでも紹介しておく。
( ちなみに、「スターウオーズ エピソード3」のダース・ベイダーの画像を見たとき、カブトガニとゴキブリをイメージしているのではと直感したのは小生だけだろうか…。 05/07/17 追記)
また、このサイトにもあるように、「三葉虫の目は方解石(炭酸カルシウム)の結晶を利用していたという驚くべき事実が明らかにされる」。
本書の副題である「進化の目撃者」には、いろいろな意味が篭められている。その一つ、あるいは最大の一つは、本書のキーワードは眼なのだということだ。
三葉虫には数億年にわたる歴史があるのだが、同時に地球上の広範で多様なな地域に適応して棲息し、生き延びてきた。それゆえ、目のある三葉虫が多数の種類を占めるのだが、同時に目のない(目の不要な環境に育った)三葉虫も存在したのだ。
その目の無い三葉虫は、別に三葉虫の中でも原始的とか古いタイプだというわけではないのだ。このことは、目の発生などについて、いろいろな瞑想を誘う。同時に、目の発生の初期の段階に近い種類の古い三葉虫もいて、目の進化の歴史を探る上で貴重な生物でもある。
しかし、目に付いての遺伝子による指示は、三葉虫の発生より古い段階に出来た遺伝子によるものであり、「眼ををつくる刺激は、魚でもハエでもヒトでも同じだと思われる」という。やがてできる眼の形・構造は多様だが、奥深い場所に位置する遺伝子は、根源において共通する由来があるかのようである。
そうした背景を持つ眼が、三葉虫の爆発的な成功(多様性の確保と数億年もの持続性)に伴い、「カンブリア紀が始まってほとんどすぐの時点で、関節肢をもつ動物のあいだで多様な眼へのいちじるしい進化が起こったのは明らか」だとフォーティは言う。
以下に印象的な文章を引用しておきたい:
視覚のはるかに遠い歴史を理解することは、はるかに遠く離れた地質年代にいて、最もかすかな類縁しかもたない動物でさえ、どんなふうに自らの世界を理解しようともがいていたかに気づくための方法を教えてくれる。私たちは、彼らが消滅した風景をどのように理解していたかを、今日私たちが自らの生息環境に適用している用語、光景、イメージ、および色彩の混合によって、記述することができる。私たちにとって、三葉虫もまたかつてものを見ていたという事実を見る(理解する)ことは、彼らを私たちの理解の射程内にもちこむことなのだ。 (p.129)
三葉虫の歴史も長いが、三葉虫の研究の歴史も長い。最初に化石が発見され記録されてから既に三百年となる。研究の歴史の厚みも膨大で、従って、本書は著者も語るように三葉虫の歴史(研究の歴史も含めて)の全貌を語ったものではない。
到底、そんなわけにはいかない。
よって、先のサイトのように、「それより老人の繰り言のように、文章と内容がだらだらと展開する」となるが、そうではなく、まさに一人の研究者として第一線で研究している彼は、輻湊する誤解と陰謀と、しかし結局は科学的研究という誰の目にも疑問の余地のない結論へ至る、その只中にあることを叙述が示しているのだと思う。
(著者は三葉虫研究の第一人者だが、実は未だ五十歳にもならない。碩学というイメージが彼にはあるが、会ってみると、その若さに誰もが驚くという。)
つまり、科学というとクリアーなように見える。何かの科学の研究の歴史というと、なんだか出来上がった秩序があるように見える。が、しかし、実は、研究は一歩一歩が手探りであり、世界の至る所の岩盤をハンマー片手に掘り崩しつつ、次に発見されるかもしれない化石で既成の成果で得られている三葉虫の歴史の展望が覆る可能性もないではない、そんな生きた世界なのだということを身を以って(叙述を以って)示しているのだと思う。
なんたって、研究生活の大半が無駄に終わるかもしれない地道な努力の積み重ねで、そうした研究者たちのほんの一部の人が、あるいはそうした研究者でも、ほんの束の間、成果を得られ、脚光を浴びるだけなのだ。
こんなことが可能なのは、松岡氏のサイトでも引用されているように、「もし一目惚れというものがあるのなら、私は14歳のときに三葉虫と恋に落ちたのだ。以来、私の世界観は三葉虫中心主義的世界観である」とフォーティ自身が語るように、まさに三葉虫に惚れ込んでいるからなのだ。
嫌いな人が見たら、松岡氏ではないが、「本書に収められている数々の三葉虫の化石や再現図やその細部の“どアップ”を見れば、この古生代全体を3億年ほど生き抜いた生物の姿と形は、かつてハンス・ルーディ・ギーガーに始まったエイリアン型宇宙異様生物の原型としか思えないほどに、見れば見るほどグロテスクで醜悪」とも思われかねない。
その三葉虫に惚れ込んだ!
小生にしても、ガキの頃は、家の周りで昆虫採集の真似事くらいはしたことがある。今から四十年前の田舎は、田圃や畑や野原の中に農家と僅かな商家と学校、保育所、公民館、地蔵堂などが散在する長閑さの感じられるものだった。
どの家の庭にも昆虫は巣食っているし、林や藪もあって、その気になればカブトムシやクワガタから、種々の蝶、トンボと見つけ、採集することもできたのだ。
ただ、小生は、捕まえた昆虫を虫ピンで止めるのができなくて、ついつい虫篭の中に多少の餌を与えるだけで、結果として飼い殺しにしてしまう体たらくだった。そもそも、昆虫などに愛情を注ぐような子供ではなかったのだろう。
それでも、ファーブルに限らず、昆虫採集や、それが昂じて生物学や古生物学、考古学の研究者になった人を見ると、羨ましいと思う。フォーティも語るように好きなことをしてカネがもらえるのだから、こんなにありがたいことはないのだ。
三葉虫の研究も、果ての知れないものだとフォーティは言う。
いつか物理学者が三葉虫の視覚を研究し始め、三葉虫がどのように見ていたかについてもっと明快に理解できるようになること……、三葉虫の殻に死んだ海のモニターの役割をする希少元素のかすかな痕跡の記録を見つけることで、地質年代を非常に精密に測定できるようになり、歴史の局面を一変させるかもしれない……。三葉虫の進化の歴史をもっと細かな目盛りでその変化を研究することで、進化的メカニズムへの新たな洞察が現れるかもしれない……。三葉虫は、古生代のショウジョウバエ、生命の歴史の実験的な媒体として、脚光を浴びるかもしれない……。(p.327)
科学の世界も、前途洋洋たものなのだね。科学にないものねだりさえしなければ、素人の小生でも接しているだけでも、得られるものは決して微々たるものではないのだと本書を読んで改めて感じさせてくれた。
(03/09/16)
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