クラウス著『コスモス・オデッセイ』
ロ-レンス・M.クラウス著の『コスモス・オデッセイ』(林大訳、紀伊国屋書店刊)を読了した。副題が、「酸素原子が語る宇宙の物語」となっていて、このタイトルだけで、既に小生は買う気になってしまった:
本書の帯には、「私たちの吸う息に含まれる酸素原子を主人公に、ビッグバンの宇宙から銀河・太陽系を経て、地球の生命の中に宿り、地球消滅後また宇宙へと旅たっていく壮大なストーリーを描く。」と謳われてあり、さらに、「「宇宙のミステリーを、想像力たくましくやさしい言葉で説明する能力についてはカール・セーガンばりだ」 -スティーブン・ホーキング」とある…。
そんなにしなくても、好きな人は手に取るよ、と思ってしまう。
帯には、別に、「ひと滴の水に、宇宙の過去と未来を見る」などと、恐らくは出版社の側がこれは殺し文句だろうと思って付したようなコピーがあったりして。
しかし、そんな蛇足めいたキャッチコピーなどなくても、「酸素原子が語る宇宙の物語」という副題で、もはや、一滴の水に宇宙を見るという意図は、十分に嗅ぎ取れる。
昔、何の本で読んだのか忘れたが、われわれ現代に生きる人間は、呼吸をする度に、遠い過去の人である孔子が吸い、そして吐いた息のうちの幾分子かを吸っている計算になる、という記述があって、非常に印象的に感じたことがある。
本書の中にも、人物は孔子ではないが、同じような記述がされている。「有名な例を利用することにして、ユリウス・カエサルが刺され、「おまえもか、ブルータス」と叫んで死んだ瞬間を考えてみよう。先の推計から、一度に吸い込む息に含まれる酸素原子のうち、少なくともひとつが、カエサルが最後に吐いた息に含まれていた可能性は十分あることを、いくつかの道筋で証明できる」
先の推計というのは、単純に言えば大気が循環しているということだが、たとえば、「私たちが今吸っている酸素原子は数百年で絶えず大気全体に再分配されていると想像」されるということである。「つまり、私たちが、一回に吸う息に含まれる分子はこの先一〇〇年ではないとしても一〇〇〇年の間には大気全体に一様に散らばる」のである。「私たちは想像以上に過去とつながっていることになる」のだ。
細かな計算は本書を読んでもらうことにして、計算上、「カエサルの最後の息に含まれていた酸素原子を平均して三つ取り込んでいることになる」という。逆に言うと、「一度に吸う息に含まれる原子のなかに、カエサルが吐いたものがひとつもない確率は一〇〇分の一に満たない」ことになるという。
もっと言うと、「みなさんが吸うひと息ひと息のなかに、これまで存在したどの人のどの息の分子も入っているだろう!」
このことを敷衍して著者は語る。ここから先の説明は小生が昔、読んだ本には書いてなかったし、小生もそこまでは想像を逞しくしなかった。
つまり、これまで存在したどの人だけではなく、「酸素原子はひとつひとつかつて水分子だった可能性は十分にある」「だが、この水分子が、これまでに地球上に生きただれかの排泄物に含まれていた確率はゼロではない。つまり、みなさんは、これまでに存在した人たちの尿や精液に含まれていたものを吸っているかもしれないのだ。」
さらに、「この議論を人間に限定する必要はない。馬の尿でも豚の糞でも何でもありだ! 議論を地球上の生命のはじまりまで推し進めることができる。同じ仮定によって、みなさんが生きている間に、大気中にはじめて酸素が蓄積されてから地球上で生きたあらゆる種の少なくともひとつが排泄した何らかの分子を吸い込む可能性は十分ある!」
このことをもっと想像の翼を広げると、現代の(あるいは未来の)われわれが吸う酸素原子は、ひとつひとつが長い長い歴史を持っている。地球が形成されて46億年、太陽系が50億年だとして、その長い歴史の中である時は宇宙空間の塵として、ある時は、隕石として、あるいは地球の岩石の中に、それがやがてマグマの噴出などで大気中に混入し、そしてある信じられない僥倖を持って、われわれが吸い込む光栄を得たということが考えられる。
そして、本書は正に、そうした酸素原子の経てきただろう、あるいは見てきただろう宇宙の物語を語るものなのである。
人類がどの程度、これから生き延びていくのか、想像を超えるものがある。人類が登場して高々数百万年に過ぎない。地球の歴史の46億年に比べるどころか、生命の歴史の中でさえ、まだ瞬時の時を刻んだに過ぎない。
われわれ人類の運命がどのようなものであれ、酸素原子はやがていつか原子の、つまりは陽子の崩壊という運命の時まで、数百億年、あるいは兆の単位の時を生き延びていく。その酸素原子がどんな宇宙の姿の変遷を見詰めていくのか、著者は可能な限りの想像を本書で行っているが、その想像される姿のほんの一齣さえ、いつか垣間見る可能性がないというのは、悲しい事実なのだろう、か。
著者のロ-レンス・M.クラウスという方は、1954年生まれの天文学教授である。この方は日本びいきなのかどうか分からないが、カミオカンデ(スーパーカミオカンデ)に幾度も言及されている。そもそも話がスーパーカミオカンデから始まっている。
それだけなら、核の内部のクォークの姿を探るために、あるいは陽子崩壊の可能性を探るために必要性があるとは思うが、たとえば、核の内部にあるクォークの状態を説明するのに、安倍公房の小説などを持ち出してくる。
「核の内部にあるクォークのことを考えると、私はいつも安部公房のあの歯がゆくもすばらしい小説『砂の女』を思い出す。四方を砂丘に囲まれた家で、さびしく暮らす女がおり、ある男が疑いも抱かずその女とねんごろになって、その家に閉じ込められてしまう。男が砂丘の壁をよじのぼって逃げだそうとするたびに、砂の壁は崩れ、男はすべり落ちてしまうのだ。クォークは生まれたときは自由だったのかもしれないが、いたるところで鎖につながれている」 (p.63)
御蔭で久しぶりに安倍公房の『砂の女』を読み直してみたくなった。
一滴の水の中の、さらに一個の酸素原子の歴史を通じて宇宙の創生から死滅までを語る本書を読みながら、器の小さな心しかない小生も、ほんの少しは広い世界を夢見られた気がする。
夏の夜の夢とまではいかないとしても、それはそれは楽しい想像の旅なのだった。
(03/08/25)
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