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2005/07/24

ゼブロウスキー著『円の歴史』

 このところ、丹羽 敏雄著『数学は世界を解明できるか―カオスと予定調和』(中公新書)を読了し、今はアーネスト・ゼブロウスキー著『円の歴史―数と自然の不思議な関係』(松浦 俊輔訳、河出書房新社)を読んでいるなど、数学の啓蒙書を読む機会が多い。
 今は、昨年来の人気の本、小川洋子著『博士の愛した数式』(新潮社)を予約待ちしている。

 数学の本については書評など書けるはずもなく、感想文を綴ることさえ、覚束ない。
 丹羽 敏雄著『数学は世界を解明できるか』は、レビューによると、「天動説は数理モデルを構成して数学的に天体運動を説明する試みである。ガリレイは地上運動にも数理構造があることを示し、ニュートンはそれらを土台に近代的力学を創った。数学の発展がそれを可能にした。現象の基礎にある法則とその数学的表現である微分方程式が示すのは単純さと美しさをもつ予定調和的世界である。しかし、コンピュータの出現は自然の内包する複雑さを明るみに出した―。現代科学思考の到達点を平易に叙述」とのことで、まあ、車中では楽しませてもらったというところ。

 アーネスト・ゼブロウスキー著『円の歴史』は、適当に読み流すつもりでいたが、案外と洞察に満ちていて発見の本だった。だから、後日、感想文を綴ってみるかもしれない。

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野本寛一著『栃と餅』

 野本寛一著の『栃と餅 ―― 食の民俗構造を探る ――』(岩波書店刊)を読了した。こうした地味な好著を手にしえるのも図書館だからこそ。自腹でとなると、情なくもためらってしまう。買いたい本、読みたい本は枚挙に遑のないないほどにある…そんな中で本書をとなると、二の足を踏んでしまっただろうことは間違いない。
 この本が図書館に行った際に、入口付近の新刊コーナーにあったこと、まだ誰にも借りられないであったことは、運が良かったというしかない。
 それとも、多くの方の目には素通りしていくだけの本なのだろうか。この手の本と言うと、柳田國男や折口信夫を筆頭に数知れずあるだろうが、そんな中でも一読してみると地味な感がある。
 それは、筆者が自らを語ることが少ないからだろうか。読み手としては、筆者が足と体で見聞きし、集めた貴重な証言や画像のあれこれを読み眺めるのは楽しいが、探し回る際の筆者の息遣いや汗も、もう少し感じたい。

 さて、上掲の岩波書店の案内によると、「今やグルメブームの名のもとに,ファストフードとスローフードが入り乱れ,食文化は大混乱している.しかし食の民俗を注意深く眺めてみると,食とは何よりも生きるためにあり,そこから儀礼のための食が生まれ,楽しみのための食にいきつく.長年の調査から先人たちの食に関する伝承知を描き,この列島の人々の食に関する嗜好の伝統が姿をあらわす」と説明されている。

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『ドーミエ諷刺画の世界』

 本日未明、『ドーミエ諷刺画の世界』(喜安 朗編、岩波文庫刊)を読了した。
 本書の場合、諷刺画の世界がメインなのだから、読了というより眺め終えたということになるのか。
 例によって文庫本の謳い文句を示しておこう:

「うつろい易きもの」の横溢する19世紀パリの相貌をドーミエはリトグラフィーに描き通した。卓越したデッサン力で市民の生活(流動化した都市の住民一人ひとり)を活写した彼の諷刺画は、その歴史的背景と細部に宿る意味を知ってこそ味わいが増す。膨大な作品群からリトグラフィー109点を選び解説を加えた。

 ドーミエについては以前から関心を抱いていたが、まともに付き合ったのは初めてである。この夏のお盆に上野の西洋美術館にて『ドイツ・ロマン主義の風景素描』展を観たのだが、その後、売店に立ち寄ったら、「ドーミエの諷刺画集」が売られていた。分厚く、また、高価で手が出せなかったが、パラパラ捲っているうちに段々魅了されてきたのだった。
 で、夏の終わりに書店に立ち寄ったら、岩波文庫のコーナーでまたまたドーミエの本が目に飛び込んでくる。買うしかないという変な観念に取り付かれたりして。
 
 ドーミエについては、例えばこのサイトを参照願おう:「ドーミエ展

 このサイトにもあるようにドーミエは諷刺画を描いたのだが、彼の名が今日まで残ったというのは、諷刺の辛らつさとか政治的あるいは社会風俗をめぐる着眼点が鋭かったということもあるが、なんといっても、卓抜な描写力にある。それが「写実主義絵画の先駆として高く評価」される所以でもあるのだろう。

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2005/07/17

リチャード・フォーティ著『三葉虫の謎』

 本稿は、リチャード・フォーティ著『三葉虫の謎―「進化の目撃者」の驚くべき生態』(垂水雄二訳、早川書房刊)を扱う。リチャード・フォーティについては、記憶に新しいところでは、以前、彼の著『生命40億年全史』(渡辺政隆訳、草思社刊)を扱ったことがある
その本の魅力を語りきれないまま、まだ、宙ぶらりんになっていて、いつかもう一度、採り上げたいものと思っている。
 が、小生は、『三葉虫の謎』をリチャード・フォーティの著だからということで買ったのではない。実は、あるサイトの日記の書き手のハンドルネームが三葉虫なのである。その方の日記は、書いてある内容は結構、子供のことで悩んでいたり(持って生まれた障害のせいで視覚的な認知能力が弱い)など、深刻だったりするのだけれど、不思議なユーモラスが漂っていて、ついつい惹き込まれてしまう。
 で、三葉虫という名称が頭にこびり付いてしまい、著者の名前も確かめないで、本書を買ったというわけである。
 さて、本書については、かの松岡正剛氏によって既に紹介されている。
 また、三葉虫全般について知りたい方は、松岡氏のサイトでも紹介されているが、下記のサイトへどうぞ(表紙の右下に可愛い三葉虫がジタバタしているよ)。
 でも、この世界にはまってしまっても小生は責任を持てない…:

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レイチェル・カーソン『沈黙の春』…

 今日、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』を読了した。読んでいて、なんだか万感胸に迫るものがあった。それも、内容以外のところで。
 もしもレイチェルの人生や本書を書く背景事情を知らずに読んだなら、ああ、口うるさい、正義感ばかりが先走る女性の本だなという感想を持ったかもしれないと、妙な感想を抱いてしまった。
 彼女がガンとの戦い、時間との戦いの中で、自分の使命、まさに自分が遣り遂げなければならない仕事として、この著作を書き上げた。徹底して調べ上げ文献を確かめ根拠を確認し、情報を網羅し…。
 彼女が若い頃から著作家になりたいという願いを持っていたことは伝記(リンダ・リア著『レイチェル』)を読み終えた小生は知っている。けれど、若い頃は、科学者の観察眼に裏打ちされた、しかし、もっと詩情溢れる、物語性の加味された本を書きたかったはずだ。小説ということではないとしても。『センス・オブ・ワンダー』のような。
 が、或る日、この仕事は自分がやらなければならない課題だと自覚し、文字通り身命を賭して遣り遂げた。もしも、彼女がもう少し、科学者としての使命感や正義感よりも海を愛する、生き物を愛する気持ちに生きられるような人だったら、もっと楽な(?)人生が送れていたのだろうか。
 やはり、無理か。彼女は彼女の人生を生きたのだ。人生に、たら、れば、などありえない。このようにしか生きられなかったのだ。しかし、それでも、なんというか…。


[ 本稿は、季語随筆「石綿…火浣布」(July 11, 2005)から、書評エッセイ(感想文)に類する部分を抜粋したものです。リンダ・リア著『レイチェル』を読んだ小生、本書を読みながら、ただただ哀切・痛切な気分を覚えているばかりだった。感想文にさえ、ならない…。 (05/07/17 補記)]

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梅原猛著『日本の深層』

 過日、梅原猛著の『日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る』(集英社文庫刊)を読んだ。前回、読んだのは96年頃の事だから、わずか7年ぶりの再読となる。それというのも、縄文文化を探るというテーマでの読書をこのところずっと続けているので、改めて読み直してみる必要があったからである。
 例によって文庫本の裏表紙から、本書についての謳い文句を示すと、以下のようである:

かつて東北は文化の先進地だった。亀ケ岡式土器に代表されるように、繊細で深みのある高度な縄文文化が栄えたのである。著者は東北各地を旅しながら、宮沢賢治など詩人たちの心の深層に耳を傾け、また土着の信仰や祭りの習俗・アイヌの言葉に、日本人の隠された魂の秘密を探り当てる。原日本文化論の新たな出発点を印す意欲作。

 目次を見ておくと、素養のある方には、ある程度、内容について判断できるかもしれない:

 序章 日本文化の源流を探る
 1章 大和朝廷の前線基地、多賀城
 2章 「大盗」もふれえなかった平泉文化の跡
 3章 宮沢賢治の童話の語る日本人の隠された心の深層
 4章 山人と神々の声のこだまする遠野
 5章 強い自負と奔放な想像力をもつ東北の詩人たち
 6章 洞窟の奥深く隠されたもの
 7章 みちのくの果てに栄えた華麗な文化
 8章 ディオニュソス的空想と熱狂の地、津軽
 9章 「おしらさま」の意味するもの
 10章 生霊、死霊の故郷、出羽三山
 終章 新たな文化原理の発掘
 会津魂の深層
 山形紀行

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2005/07/10

クラウス著『コスモス・オデッセイ』

 ロ-レンス・M.クラウス著の『コスモス・オデッセイ』(林大訳、紀伊国屋書店刊)を読了した。副題が、「酸素原子が語る宇宙の物語」となっていて、このタイトルだけで、既に小生は買う気になってしまった:

 本書の帯には、「私たちの吸う息に含まれる酸素原子を主人公に、ビッグバンの宇宙から銀河・太陽系を経て、地球の生命の中に宿り、地球消滅後また宇宙へと旅たっていく壮大なストーリーを描く。」と謳われてあり、さらに、「「宇宙のミステリーを、想像力たくましくやさしい言葉で説明する能力についてはカール・セーガンばりだ」  -スティーブン・ホーキング」とある…。
 そんなにしなくても、好きな人は手に取るよ、と思ってしまう。
 帯には、別に、「ひと滴の水に、宇宙の過去と未来を見る」などと、恐らくは出版社の側がこれは殺し文句だろうと思って付したようなコピーがあったりして。
 しかし、そんな蛇足めいたキャッチコピーなどなくても、「酸素原子が語る宇宙の物語」という副題で、もはや、一滴の水に宇宙を見るという意図は、十分に嗅ぎ取れる。

 昔、何の本で読んだのか忘れたが、われわれ現代に生きる人間は、呼吸をする度に、遠い過去の人である孔子が吸い、そして吐いた息のうちの幾分子かを吸っている計算になる、という記述があって、非常に印象的に感じたことがある。

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