稲岡耕二著『人麻呂の表現世界』
[ 一昨年の拙稿である。稲岡耕二著『人麻呂の表現世界』(岩波書店1991/07刊)を扱っている。出版社のレビューによると、「日本の歌が初めて文字と出会い,書き留められようとするその瞬間に,歌人人麻呂は立っていた.日本の歌を漢字で表現するという課題に人麻呂はどう立ち向かったか.日本文学黎明期のドラマを万葉研究の第一人者が再現」だとか。
本稿を書いた後、比較的最近、随分と遅まきながらではあるが、折口信夫に僅かながら触れるようになって、人麻呂については多少、評価の異なってきている面もある。が、書いた文章を手直しするつもりはない。一部でも手を加えると、そのうち全体を弄くりたくなるのが常だし、それくらいなら全く別の稿を立てたほうがましだと思うのだ。 (05/06/18 アップ時追記)]
稲岡耕二著『人麻呂の表現世界』の周辺(03/07/13)
稲岡耕二氏は、万葉研究の第一人者である故・犬養孝氏の後輩に当たる方だという。柿本人麻呂研究の第一人者と目されている。
小生は、万葉集、その中でも特に柿本人麻呂に関心があり、犬養孝氏の本はもとより、中西進氏の諸著、岸俊男氏著の『古代史からみた万葉歌』(学生社刊)、北山茂夫氏著『万葉の時代』(岩波新書)、梅原猛氏著『水底の歌 柿本人麻呂論(上・下)』(新潮文庫)や『聖徳太子 1-4』(集英社文庫)、そして同氏著の『隠された十字架(法隆寺)』(新潮文庫)、神野志隆光氏著『古事記』(NHKブックス)、井沢元彦氏著『逆説の日本史 2古代怨霊編』(小学館)、故・黒岩重吾著『古代史への旅』(講談社)や『茜に燃ゆ』(中央公論社)、古田武彦氏著『人麻呂の運命』(原書房)、李 寧煕氏著『蘇える万葉集』や『もう一つの万葉集』(ともに文芸春秋社)、などと読んできた。
系統だった読み方をしていないのが情ないが、それは仕方ない。北山茂夫氏の本を除けば、この10年余りの間に読んだ、古代史や万葉集、古事記そして柿本人麻呂関連の本(の一部)である。
あれこれ読んでいくうちに、必ずしも読書の関心について焦点を絞ろうというつもりはないのだが、それでも、段々自分の関心が何処にあるかが少しは見えてくる。小生のように文学にも歴史にも疎い人間でも、柿本人麻呂はとてつもない表現者(あるいは表現手法の開拓者)だったのだと感じられてきたのである。
といっても、未だに、何が凄いのかを小生は、その片鱗だにも理解できていない。ただ、感じているだけなのだ。あまりに山が高く険しすぎて、遠くからその山の姿を眺めて、その美しさや威容を嘆じているだけなのである。
それでも、嘆いているだけでは始まらないので、このたび復刊がなり、ようやく手に入れた稲岡耕二氏の『人麻呂の表現世界』(岩波書店刊)を読んで、少しは険しい登攀の道の、せめて五合目ほどには行ってみた次第である。
富士登山もそうだが、実際には五合目から先が登山であり、それまではハイキング程度のものなのだが、それでも、非学の身としては雰囲気や香りくらいは味わいたかったのだ。
さて、『万葉集』は、大伴家持の手によって編纂されたものとされる。その大本には様々な資料があったと言われている。その大きな源流は、「柿本朝臣人麻呂歌集」であり、柿本人麻呂自身の歌った歌もあるし、あるいは人麻呂が編纂した歌もあるし、いずれにしても、人麻呂が歌集の成立に深く関与したのは間違いないようである。
ここでは、小生の下手な説明を披露するより、やや専門的なサイトの力を借りる。
この中の「人麻呂の表記」という項を参照にする。
この中で、「『万葉集』の編さん資料のひとつとなった「柿本朝臣人麻呂歌集」は、人麻呂の歌を集めたもの、もしくは人麻呂がその成立に深く関与したものと考えるのが現在では支配的である。」と記された上で、さらに、「『万葉集』に「人麻呂作」と明記されている歌以前の、若いころの歌がおさめられていると考えられることから、日本語の書記方法を論ずる上での重要な材料とされてきた」とある。
稲岡耕二氏の『人麻呂の表現世界』は、まさにこの日本語の表記方法の変化を人麻呂を通じて分析した書なのである。
1 春山 友鶯 鳴 別 眷 益間 思御吾 (巻十・1890)
これを「春山の 友鶯の 鳴き別れ 眷(かへ)り ます間も 思ほせ吾(われ)を 」と読むというのは、素人には不思議である。その解明はともかく(それは他の研究の積み重ねの結果として示されているのだ)、「1のように付属語や活用語尾が書記されていない歌を「略体歌(りゃくたいか)」とする。
それに対し、
2 巻向之檜原丹立流春霞欝之思者名積米八方 (巻十・1813)
は、「巻向の 檜原(ひはら)に立てる 春霞 おほにし思はば なづみこめやも」と読む。「2のようにそれら(付属語や活用語尾)を書記したものを「非略体歌(ひりゃくたいか)」と呼ぶ。そんな慣わしが万葉学ではあるのである。
稲岡耕二氏は、「人麻呂は略体歌から非略体歌へと書記方法を発展させていったと考えた。そして、非略体歌という書記方法は、藤原宮跡から出土した木簡に見られる「宣命大書体」を原形として成立したのではないかとする。」
このように説明すると、非略体歌の形式があり、その原型として素朴な表記方法としての略体歌があったかのようで、なにか自然な表記方法、表現方法の流れなり発展があったかのようだが、その表記方法の展開には想像を絶する試行錯誤があったに違いない。
漢字は朝鮮渡来の文化人の手により中国から輸入されたものである。
[言うまでもなく王仁(わに)により輸入されたと言われている ]
日本列島には多様な背景を持つ民族(というか集団)が各地に居住していた。北方系(オホーツクやモンゴル系など)や中国、朝鮮(新羅、高句麗、百済など)、南方系(東南アジア)、さらにはインドや西南アジアからの渡来の人々もいたようである。
それゆえ、単語の上では、そうした各地からの渡来の痕跡を示すかのように多様な背景を示唆するようである。
が、表記の上では、あるいは文章や喋りの語順の上では、モンゴルに影響された朝鮮語の影響が大きいようである。縄文時代由来の言葉(単語や地名など)が残っているとしても、朝鮮渡来の人々が紀元前後より列島に漢字を、そしてやがては表記をも伝え土着の表現方法と相俟って、独自の表現に育っていたのだろう。
しかし、7世紀に列島に居住する、本来は朝鮮半島の何処かを故郷とする渡来の人々が、大陸や朝鮮半島の権力から独立することを志向する中で、表記方法も独自のものを確立された形で編み出す必要があったのだろう。
その試行錯誤は、幾つかの痕跡で多少は辿れるわけである。その代表が柿本人麻呂歌集だったりするわけで、上掲のサイトにもあるように、「中国大陸の表記に近い略体歌から、日本語を書くのによりふさわしい非略体歌へと、書記方法が発展していったとする考えは魅力的である。そして、その「宣命大書体」から、付属語や活用語尾の区別を明示するために「宣命小書体」が生まれ、さらには漢字かな交じり文や、『万葉集』の家持歌日誌の部分で確認できるような万葉仮名による一字一音表記へと、発展・変化していったと考えられてきた。」
稲岡氏も大要は、そのように考えていたわけである。
それに対し、近年、異論が唱えられてきた。同上のサイトにあるように、「推古朝の遺物に残された文字や、近年発見されて話題となった観音寺遺跡出土の「なにはづ」木簡などから、古くから日本語を一字一音ずつ書記する方法もあったことがわかり、定説は崩れはじめている」のであり、「「略体歌から非略体歌へ」という人麻呂歌集に見られる書記方法の変化は、当時の日本語の書記方法全般に通用できることなのか、それとも、人麻呂という歌人の個人的な営為なのか、相次ぐ木簡の出土発見によって、再び論争がまきおこっている。」というのである。
ただ、いずれにしろ、万葉集の中の柿本人麻呂の歌には凄みのようなものを感じる。
参考に、このサイトから柿本人麻呂の歌を挙げておきたい。
玉たすき 畝傍(うねび)の山の 橿原(かしはら)の ひじりの御代(みよ)ゆ 生(あ)れましし 神のことごと 栂(つが)の木の いや継(つ)ぎ継(つ)ぎに 天(あめ)の下 知らしめししを そらにみつ 大和を置きて あをによし 奈良山を越え いかさまに 思ほしめせか 天(あま)離(さか)る 鄙(ひな) にはあれど 石(いは)走る 近江(あふみ)の国の 楽浪(ささなみ)の 大津 の宮に 天(あめ)の下 知らしめしけむ 天皇(すめろき)の 神の命(みこと) の 大宮は ここと聞けども 大殿(おほとの)は ここと言へども 春草の 茂(しげ)く生(お)ひたる 霞(かすみ)立つ 春日の霧(き)れる ももしきの 大宮ところ 見れば悲しも
何か呪力のようなものを感じないだろうか。
ネット上では、このサイトを小生は折々、訪ねることにしている。
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コメント
略体化の紹介興味深く拝見しました。疑問がいくつかあるのですが、人麻呂の歌集から見ると、天皇呼称ができてから果たして大王というでしょうか、それは大王がいたころの歌ではないのか、とか。歌木簡から見て、人麻呂は本当はその時期の人ではないのかなどです。人麻呂はもっと早い時期の人なのに、後ろに移動させられた、という人がいるようですが、どうなのでしょうか。
投稿: 白壁 | 2014/09/18 05:53