藤村『千曲川のスケッチ』
原題:藤村『千曲川のスケッチ』その周辺(03/08/24)
島崎藤村の『千曲川のスケッチ』(新潮文庫)を9年ぶりに読み直した。これで、本書を手にするのは、少なくとも三度目ということになる。
今回は、小生が年齢を重ねたこともあり、多少は読む気持ちも違っていた。つまらないことかもしれないが、例えば、東京在住の小生はオートバイやスクーターで富山へ帰省するのだが、数年前から上信越自動車道を使うようになった(二度目に読んだ9年前の頃の帰省は、ルートが違っていた)。
すると、一度か二度は、高速道路が千曲川の上を通過する。渡っている橋の名前は忘失したが、橋の近辺に表示されている千曲川という名前だけは最初の時から脳裏に刻まれた。石ころの多い河原の上を通過しているに過ぎないのだが、素養も何もない小生は、千曲川というと、五木ひろしか島崎藤村を思い浮かべる。
今年の夏、帰省し、持参した松本清張の『文豪』を読み終えた小生は、寝床でゴロゴロしながら、次に何を読もうかと書棚を物色してみた。田舎で過ごす部屋には、学生時代の本の一部が書棚に並べられてあるのである。ほとんどが古典。当時は、ちゃんとしたものを中心に読んでいたのだなと、その書棚を見るたび、今の読書傾向に忸怩たる思いにさせられる。
まず、目に付いたのが、メレディスの『エゴイスト』(岩波文庫)。学生時代に読んで興奮させられた本の一つである。ところが、上・下巻の上しかない。仕方なく諦め、パスカルの『パンセ』にするか、ルソーの『エミール』にするか、ベーコンの『学問の初歩』にするかと迷った挙げ句、過日、雑文を書いた関連もあり、ヒポクラテスの『古い医術について』を手にした。
その時、同時に、違う書棚も物色した。その書棚にはやはり学生時代の本が納められているのだが、その手前に9年から10年前頃に読んだ本が押し込まれている。その一冊が、藤村の『千曲川のスケッチ』だったのである。
さて、読む気持ちが違うということの二つ目の(やはり瑣末な)理由は、数年前から藤村に傾倒するようになっているから、ということがある。特に『夜明け前』には深い感銘を受けた。それから、藤村の本を改めて読み返し、あるいは捜し求めて読んできた。
ただ、この『千曲川のスケッチ』は9年前に読んだこともあるが、なんとなく軽い本というイメージがあって、改めて読むのは躊躇われてきたのだ。
どうも、小生の勝手な先入観は、何事に依らず、多くのチャンスを奪ってきたように思う。藤村の『千曲川のスケッチ』も、もっと早くに読み直すべきだったと、後悔してみたり。
ついでに言うと、藤村が小諸を中心に信州で暮らしたのは、明治32年4月から明治38年5月である。単身で赴任し、三人の子どもの父となって上京したのである。つまり、彼が小諸で生活し始めてから、ちょうど百年となる計算なのだ。こんなことに意味がないと思うかもしれないが、それを計算してか、岩波文庫は昨年だったか、『千曲川のスケッチ』の改版を出したりして。
さて、この『千曲川のスケッチ』だが、千曲川というのは、藤村が本書でスケッチする舞台(信州小諸を中心とする)なので、取り立てていうことはないが、問題は、このスケッチである。
文学に造詣の深いには常識に属する理解なのだろうが、このスケッチには、藤村もそれなりの思い入れがありそうである。藤村自身による本書の奥書にもあるが、言文一致運動の結実の書なのであり、藤村なりの自負のある書なのだ。スケッチというのは、写生と訳すべき言葉なのだろうが、その写生は、単に風景や人物を写生しているだけでなく、その表現方法を従前の美文調の色彩の濃いものから、藤村のみに止まらない数多くの先人の努力の結晶なのだ。
奥書の関連する一部を引用させてもらう:
私は明治の新しい文学と、言文一致の発達を切り放しては考えられないもので、いろいろの先輩が歩いて来た道を考えても、そこへ持って行くのが一番の近道だと思う。我々の書くものが、古い文章の約束や言い廻しその他から、解き放たれて、今日の言文一致にまで達した事実は、決してあとから考えるほど無造作なものでない。先ず文学上の試みから始まって、それが社会全般にひろまって行き、新聞の論説から、科学上の記述、さては各人のやり取りする手紙、児童の作文にまで及んで来たに就いてはかなり長い年月がかかったことを思ってみるがいい。何んと云っても徳川時代に俳諧や浄瑠璃の作者があらわれて縦横に平談俗語を駆使し、言葉の世界に新しい光を投げ入れたこと。それからあの国学者が万葉、古事記などを探求して、それまで暗いところにあった古い言葉の世界を今一度明るみへ持ち出したこと。この二つの大きな仕事と共に、明治年代に入って言文一致の創設とその発達に力を添えた人々の骨折と云うものは、文学の根柢に横たわる基礎工事であったと私には思われる。私がこんなスケッチをつくるかたわら、言文一致の研究をこころざすようになったのも、一朝一夕に思い立ったことではなかった。
引用は、下記のサイトから(全文が読める)。
藤村は、「画家が三脚を持って野外を歩き、スケッチするごとくに文章を綴ってみよう」とスケッチする文章を綴ったという。当初(原『千曲川のスケッチ』)は、明治33年に書き始められた。しかし、「今日私どもの読み得る『千曲川のスケッチ』は、明治44年6月号から9月号まで『中学世界』に連載され、のち「はしがき」をつけて大正元年12月に一本にまとめられたもの」なのだ。文章のスタイルも、その間に相当に変わったことが推測されると、解説の平野謙氏は書いている。
忙しくて、この150頁あまりの本も読めない人は多いだろうが、せめて、奥書だけでも目を通して苦労を偲んでもらいたい気がする。
小生に、藤村の文学について語る能はない。ここでは、ついでなので、本書の中で、藤村が星について言及している箇所があるのだが、その眺めた星や眺めた日時が特定されているということなので、ちょっと紹介してみる。
まず、当該の一文を引用しておこう:
月の上るのは十二時頃であろうという暮れ方、青い光を帯びた星の姿を南の方の空に望んだ。 東の空には赤い光の星が一つ掛かった。 天にはこの二つの星があるのみだった。山の上の星は君に見せたいと思うものの一つだ。
さて、この記述に現れる赤い星を眺めた日時とは。
どうやら草下英明氏(懐かしい名前! 小生が若い頃、彼の本を読んだり、氏がテレビに出て、天文についてあれこれ語るのを見聞きしていたものだった)の考証に加えて、コンピューターの力を借りて割り出したようである。
結論から言うと、1901年3月の日没後30分(18時21分)から40分(18時31分)頃ということになるらしい。
これまた余談だが、「写生」という言葉が出てきたので、素描に関心を持って、あれこれ書いた手前もあり、写生や写実についてやや突っ込んだ説明を読めるサイトがあるので、それを紹介しておきたい:
「コレクション万華鏡-近代美術の諸相 酒井哲朗」
これに併せて、下記のサイトを読むと、相当程度に理解が進むかも:
「写真と絵画の関係 市村勲」
上掲の両者は、主に美術と絵画に焦点が当てられているが、当然ながら、深く絡まる形で文学や思想も19世紀には大変貌を遂げたわけである。
その顛末などは、機会があったら触れてみたい。
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