山田風太郎著『戦中派不戦日記』
原題:山田風太郎『戦中派不戦日記』あれこれ(03/08/25)
山田風太郎氏というと、自由奔放な想像力を駆使して、時代を自由に飛び、フリークス的存在が闊歩し、暴力などは当たり前(なんてたって、多くは時代活劇として殺し合いをするんだから)、抱腹絶倒(?)の忍術やセックスがふんだんに盛り込まれた、そんな時代活劇作家として知られている。
とは言いながら、小生が山田風太郎氏の本を初めて読んだのは、一昨年の秋で、『風来忍法帖』(講談社文庫刊)だった。その年の夏、氏は、肺炎のため東京都多摩市の病院で死去された。79歳だった。
高名な作家だったし気になる作家だったのに、一冊も読んでいないという忸怩たる思いから、慌てて読んだのである。確か、メルマガで、「風蕭蕭として易水寒し 壮士ひとたび去ってまた還らず」などという言葉を紹介している。
上掲の小説に出てきたので、史記・刺客列伝の中の物語に由来する言葉として紹介したのだった。
この話そのものは、下記のサイトを参照のこと。
『戦中派不戦日記』(講談社文庫)は、山田氏の本としては小生にとって二冊目なのである。この8月15日にちなむ本ということで読んでみることにしたのだ。
本書のタイトルは変わっている。戦中派というのは、読んで字の如しだ。本書は、昭和20年の冒頭から末日までの日記なのだが、彼は、当時23歳の医学生として戦火の東京、そして疎開の地の信州で生きしのいだのである。
彼の下にも召集令状は来たのだが、肺湿潤のため徴兵検査不合格。そして即日、帰郷している。
その直後、医学校の入試に合格し、東京医専(後の東京医科大学)に入学し、卒業している。彼は、戦中派であると同時に、決して戦争に真っ向から否定的ではなく、むしろ、当時の一般的な風潮と変わらず、基本的に戦争を肯定している。
ただ、知的な批判精神が軍部などの戦略に向けられることはしばしばあったようだ。だからこそ、非戦でも反戦でもなく、戦う意思はあるし、アメリカとも本土決戦になっても戦い抜く覚悟でいたが、自分は医学生として一線には立てないという意味での不戦なのである。
本書の後書きを読むと、彼の生い立ちは結構、複雑である。父は医者であり、母も医者の娘なのだが、その父は、診療先で彼が5歳の頃に死んでいる。母は、父の弟である叔父と結婚。しかし、母は風太郎が中学二年になろうという春に死去。親戚の家のたらいまわしの挙げ句、1943年に家出し、沖電気に就職(国策で軍需工場に勤めるしかなかった)。
解説を担当している橋本治氏によると、この沖電気で、戦闘機に必需品の無線機を扱う事務部門に属したのだが、そこで物資不足を認識する。開戦二年目にして、日本のこの体たらくを知るのである。医学生としての冷静さと、実際の社会での経験を通して、山田氏は冷徹な現実認識を得ている。
3月10日の東京大空襲も、5月23日の山の手の空襲も経験している。後者の時、氏の下宿先も焼けている。結局、学校も疎開することになり、信州に疎開の地を求めることになる。空襲に見舞われて、彼は日記に復讐の文字を幾度も刻んでいる。焼夷弾の残酷さを目の当たりにした人間としては、当然の感情なのだろう。
やがて、終戦。日記によると、玉音放送を聞くまでは、彼(に限らないが)はソ連に宣戦布告をするものだとばかり思っていたそうな。それがまさかの全面降伏。そして世の中の価値観の大変貌。アメリカへの媚び。こうした様々な経験が山田氏に、徹底したシニシズムを植え付けたと言えるようだ。
彼の日記を読んで驚くのは日々の日記に読書の記録が欠かされないこと。医学書は言うまでもないとして、鴎外、富士川遊、ゴーリキー、ゴーゴリ、シュニッツラー、山本有三(『米百表』彼は山本有三に対し、かなりシビアーな評価をしている)、メーテルリンク、バルザック、モーパッサン、ルナール、デュマ、トルストイ、スタンダール、ヴィリエ・ド・リラダン、ジイド、キップリング、ピエール・ロティ、イワノフ、ダヌンティオ、戦後になってエンゲルス、ケーベル博士、イプセン、ゾラ、上田敏、チェーホフ、里見とん、武者小路実篤、佐藤春夫…。
ざっと挙げただけでも、戦時下にあって、これだけ読んでいる。一体、これだけの本を何処から入手したのだろうか。やはり医学校乃至、医学生仲間から? 不思議だ。
さて、山田氏には、日記が本書以外にもある。そのうち、生前に出したのは、『戦中派虫けら日記』と『戦中派不戦日記』という二冊の戦時日記である。その他に、『戦中派焼け跡日記―昭和21年』(小学館)がある。小生は未読だが、「本書はそれにつづく一九四六年(敗戦の翌年)の日記で、著者没後にはじめて刊行された」ものだそうである。
たまたまネット検索をしていたら、その『戦中派焼け跡日記』についての津野海太郎氏(評論家・和光大学教授)による書評が見つかった。
その中に気になる記述があったので、ここに紹介したい:
この年、かれは実質上の出世作となる短編「眼中の悪魔」にとりかかった。「人間は戦争という大量の殺戮(さつりく)をやりながら、あらゆる国家が正義の旗じるし」を下ろそうとしない、という意味の一行がそこにある。二十一 世紀の世界。なにも変わっていない。半世紀まえ、風太郎青年はまぎれもない「われらの同時代人」だった。
この一文について、敢えて、論評も感想も書かない。
最後に、余談となるが、4月1日の記録には、エイプリルフールという言葉が見える。当時、既に日本に定着していたということか。彼は、眠っている友人を電報ですよ、と叫んで起こす。友人は、召集令状が来たかと驚いて寿命が縮まる思いがしたとか。結構、茶目っ気がある人だ。
とにかく、700頁ほどの大部の文庫本だが、山田風太郎氏ファンならずとも退屈せずに読めるのは、間違いない。それが何故なのかは、同じく戦中派でもある作家・庄野潤三の世界共々、文章表現の極意か秘密を小生は未だよく分かっていない。
皆さん御自身が読んで、その秘密を探り出してもらいたいものである。
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