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2005/06/05

保阪正康著『大学医学部の危機』

保阪正康著『大学医学部の危機』(03/07/09)

 保阪正康氏の本を読むのは、『天皇が十九人いた―さまざまなる戦後』(角川文庫刊)以来である(この本については既に感想文を書き公表している)。
 『危機』は、たまたま書店で見つけた本で、医学部というより医療そしてそもそも医学、そしてもっと広く身体と心に関心のある小生は、目に付いたら手放せなくなった。毎年、解剖学の本、ウイルスの本、疫病関連、外科の話など、何かしら医学関連の本を読書の献立に入れている小生なのである。
 念のため、「出版社/著者からの内容紹介」を引用しておこう:

「その姿はまさにこの国の縮図だ! いまなお「白い巨塔」なのか?それとももはや「バベルの塔」か。世界に冠たる日本の医療環境。平均余命は高く、薬は豊富。しかしその一方で……。倫理からかけ離れて暴走しかねない先端治療は国民の不信を買い、際限なく膨張する医療費は国家財政を揺るがす。構造改革の時代に、大学医学部は新しい秀れた人材を社会に送り出せるのか?豊富な取材で実像をえぐり出す。」

 さらに「著者について」も紹介文を引用しておく:
「保阪正康(ほさかまさやす)
1939年、北海道札幌市に生まれる。同志社大学文学部社会学科卒業。日本近代史、とくに昭和史の実証的研究を志し、各種の事件関係者の取材をとおして、歴史のなかに埋もれた事件・人物のルポルタージュを書く。ほかに医学・医療と社会のかかわりをさぐった著書も多い。現在、個人誌「昭和史講座」(年2回刊)を主宰。主要著書に『東條英機と天皇の時代(上・下)』(文春文庫)、『後藤田正晴』(文芸春秋)、『吉田茂という逆説』(中央公論新社)、『愛する家族を喪うとき』『安楽死と尊厳死』(講談社現代新書)、『大学医学部』『新・大学医学部』『日本の医療』(講談社文庫)などがある。」
 この実績を見ると、著者の関心がどこにあるかが分かるだろう。
 保阪正康氏には、「昭和史講座」というホームページがある。

 保阪氏が医学に関心を深めたのには、彼の伯父の影響があるのかもしれない。
 本書の「あとがき」によると、「私の伯父はその一生を細菌学研究にかけた医学者であった。その主たるテーマは、細菌、ウイルスなどの微生物の感染に対する生態防御機構の解明ということらしかったが、晩年は大学医学部の責任者として、地域医療に貢献する医師養成に努めていた。」という。
 その伯父さんは、九十歳を前にして亡くなられたのだが、葬儀は、「いっさいの宗教色を排し、クラシック音楽が流れるなかをそれぞれが一輪の花をささげるとうものであった。本人が無宗教を貫いたのは、私の見るところ、生体をつくりあげている細胞が死ぬときが自らの死であり。それは存在自体もその段階でピリオドを打つと考えていたからであろう。医学者のなかに無宗教を貫く者が多いというエピソードは、私はなんどか聞いたことがあるが、それを眼のあたりにして感動を覚えたほどであった。」という。
 人の生き死にに対し、深く考えるところのある者ほど、時に無宗教の葬儀という形式を選ばれるようだ。

 小生自身が医学に関心を持ったのは、幼いころから幾度となく入院した経験があるからだ。また、数多くの多くは大学病院をたらいまわしにされた経験もある。看護婦さんたち(今は、看護士と呼ばなければならないようだが)にはいいイメージしか持っていないが、医者に対しては、残念ながら印象はいいとは言えない。
 そもそも(特に大学病院の場合は)偉い先生と患者との距離は、心理的にもとても遠い。決して人間を単なる治療と研究のための対象としか、また、教授を取巻く連中の教授への尊崇を示すためのギャラリーの一人としか思ってはいないと思いたいのだが……。
 治療や特に診察の時は、さんざん屈辱的な思いをさせられたものだった。恨み骨髄の念さえないとはいえない。悲しいことだけれど、正直な気持ちを吐露すると、そうなのである。
 しかし、医学に目を開かれ、医学関連への関心も多くの健康体の方よりは早くから抱いてきたほうだと思う。中学の時も、宇宙論(天文学)や海洋学などと同時に、生物学へ関心を寄せたのだが、その中心は人間であり、もっと卑近に言うと人間の肉体、そして自分の肉体なのだった。
 その詳細や個人的な事情については他に既に書いたので、改めて書かないが、医学への関心はただの興味本位ではないし、一般論に止まるものでもないことだけは言えるかもしれない。
 高校から大学時代は、医学もそうだが、病気とは何かということにも関心を広げ、一時は立川昭二氏の本の追っ駆けをやっていたこともある。
 余談だが、彼の近著で『病いの人間史』(文春文庫)があるが(小生は未読)、正岡子規と樋口一葉とは互いに面識はなかったようだが、同じ医師に脈をとられていた、など面白そうだ。
 肉体というと、社会人になって読んだ本で、文学の歴史関連でマリオ・プラーツの『肉体と死と悪魔--ロマンティック・アゴニー』(倉智恒夫、草野重行、土田知則、南條竹則訳、国書刊行会刊)がとても印象的だった。この中でも扱われているサドに大学のころから関心を持ったのは言うまでもない。サドには改めて挑戦したいものだ(必ずしも具体的行為としてではない、けれど)。
 別の角度で肉体に関し、レスリー・フィードラー著の『フリークス』(伊藤俊治・旦啓介・大場正明訳、青土社刊)も、十年程前に読んだにも関わらず読後感が今も鮮烈である。
 三木成夫や養老孟司氏、多田富雄氏らの本も出れば読む。解剖学を研究していた布施英利氏の本も読めるものは読んでいる。
 余談が過ぎる。

 医療関係については、最近は、南淵明宏氏の発言に注目している(このサイトで彼の講演内容を読むことができる)。
 最近、医療事故の報告制度が出来て、国立系の大学病院病院の事故事例の報告が厚生労働省の担当部局に届けられるようになったらしい。医学部と厚生労働省のこれまでの密着振りからすると、画期的な制度ができたものだが、実際には数千はある大手の医療機関の中の百数十あまりの大学病院の事故事例の報告が上がるだけだ。
 また、事故の被害者(の家族)も含め、一般の人が報告書(やカルテ)を読むことは出来ない。かりに閲覧を申請しても、氏名などの最低の情報を除いては、すべて黒塗りの状態の紙面を提供されるだけである。
 秘密を厳守するのはプライバシー保護のためというが、これでは、一体、何のためにこんな報告制度ができたものやら、理解に苦しむ。あるいは事故が事件にならないよう、医学部と厚生労働省が事前の打ち合わせをするために情報を集めているのだろうか、などと詮索したくなってしまう。
 とにかく、大学医学部には期待するところが大きいだけに、こと、治療・臨床の面での研究至上主義的な傾向は、惜しまれるのである。医者余りの時代が近づいているという(少なくとも都会では過剰気味になっていく傾向が見られつつある)。われわれは医者を、病院を選びたいのだ。せめてそれくらいは自由にさせてもらいたいものだ。

 最後にヒポクラテスの誓いだけは目を通して欲しい:
 
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  医の実践を許された私は、全生涯を人道に捧げる。

  恩師に尊敬と感謝を捧げる。
  良心と威厳をもって医を実践する。
  患者の秘密を厳守する。
  医業の名誉と尊い伝統を保持する。
  同僚は兄弟とみなし、人種、国家、社会的地位の何故によって、 患者を差別しない。
  人間の生命の受胎のはじまりを至上のものとして尊ぶ。
  いかなる弾圧にあうとも人道に反した目的のために、我が知識を悪用しない。

  以上は自由意志により、また名誉にかけて、厳粛に誓うものである。
(あるサイトより)

 この立派な文言で、まず恩師への尊敬と感謝が先にあるのは学問の道からして仕方ないのだろうか。同僚を兄弟と見なすのは、構わないのだけれど、患者を差別しないというのが付け足しに書かれているんじゃないかと疑念を抱くのは、小生の根性が曲がっているからだろうか。
(それとも、仲間内しか読まないだろいうという前提があるのか)。
 恩師への尊敬や感謝、そして同僚を兄弟と思うのは、構わないけれど、それは内内(業界内部)の縛りであって、そんなことを仰々しく誓いの文言に入れて欲しくないように思う。
 改めて、誓いを誰か、書き直してもらいたいものだ。

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