カーソン著『センス・オブ・ワンダー』
小生が「センス・オブ・ワンダー…神秘さや不思議さに目を見はる感性」という言葉に出会ったのは、高校時代のことだったと思う。
但し、レイチェル・カーソンの言葉としてではなかった。確か、記憶では「驚異の念」といった訳が宛がわれていたような気がする。もっと、単純に「驚き」の一言だったか。
何処で遭遇したかというと、悲しいかな本の題名も内容も覚えていないのだが、いずれにしろ哲学の入門書か解説書の中でのことではなかったか。
もしかしたら、「スピリット オブ ワンダー」という言葉だったかもしれない(同名の鶴田謙二によるSF漫画があるらしい)。
小生は推理小説よりSFモノに傾倒したくちだが、それは人間が推理しえる範囲はタカが知れているという尊大な思いもあるが、それ以上に、感じ、思い、想像し、空想し、妄想し、推理し、思惟する人間が土壇場に追い詰められたなら、最早、思惟も推理も通用せず、それどころか逞しく膨らんだ妄想さえも凋んでしまうような現実がある。
というより、そもそも現実がある、存在がある、否定しても否定しきれない何かがあるというそのこと自体の不可思議の念こそが、究極の驚異なのだと、早々と決め付けてしまったのである。
まさにせっかちで短絡的な性分がよく出ている。
科学や技術、文学や思想、人間という存在。その心理(真理)や機構のメカニズムも興味津々だが、夜明けの海の光景、夕日の沈みゆく山の光景など、その荘厳さに息を呑む思いに駆られた人は多いだろう。
けれど、そんな大仰な風景でなくても、レイチェルではないが、身近な何気ない光景、風に揺れる木の葉、水道の蛇口に今にも垂れ零れそうな水滴のその雫一滴の世界の豊かさ、そばにいる人(ペット)の産毛なのか知れない毛の得も言えぬ柔らかさと愛おしさ、ふと歩き出した一歩の足の裏に感じる大地の感覚、その一つ一つ、あるいはその一切があるということ自体の切ないほどの不可思議さの素晴らしさはどうだろう!
プラトンやアリストテレスは、哲学…それとも学問は素朴な驚きの念に始まると言ったとか。もしかしたら、その説明の一端でセンス・オブ・ワンダーという言葉を知ったのだろうか。
小生が密かに大事にするセンスは、端的には違和感に尽きる。ちょっとした違和感から想像力の翼が羽ばたき始めるのである。蝋燭の焔よりもあやうくか細い感覚。そのセンスで、水面を決して飛沫を上げることなく、軌跡さえ残すことなく、まして波紋など生じさせるはずもなく、どこまでもなぞっていく。指先が濡れているようないないような。花を愛でる…けれど、決して触れない、まして手折るなど論外…花や草を路傍にあるそのままに愛惜する…接したい…けれど溜め息一つ洩らすことのないままに何処までもなぞりつづける気の遠くなる程のオレンジ色の営み。
それこそがセンス・オブ・ワンダーの醍醐味なのだろうと、決め付けたところから小生の人生の間違いが始まったのだろう。
レイチェル・L. カーソン著『センス・オブ・ワンダー』(Rachel L. Carson原著、上遠 恵子訳、新潮社1996/07刊)を読了。
「Amazon.co.jp」のレビュー(清水英孝氏)によると、「化学薬品による環境汚染にいち早く警鐘を鳴らした書として、いまも多くの人々に読み継がれている名著がある。『沈黙の春』だ。その著者レイチェル・カーソンの遺作として、彼女の友人たちによって出版されたのが本書である」という。
さらにレビューを転記すると、「本書で描かれているのは、レイチェルが毎年、夏の数か月を過ごしたメーン州の海岸と森である。その美しい海岸と森を、彼女は彼女の姪の息子である幼いロジャーと探索し、雨を吸い込んだ地衣類の感触を楽しみ、星空を眺め、鳥の声や風の音に耳をすませた。その情景とそれら自然にふれたロジャーの反応を、詩情豊かな筆致でつづっている。鳥の渡りや潮の満ち干、春を待つ固いつぼみが持つ美と神秘、そして、自然が繰り返すリフレインが、いかに私たちを癒してくれるのかを、レイチェルは静かにやさしく語りかけている」
「センス・オブ・ワンダーについて」の中に、本書からレイチェルの言葉が引用されている:
子どもたちの世界は、いつも生き生きとして新鮮で美しく、驚きと感激にみちあふれています。残念なことに、わたしたちの多くは大人になる前に澄みきった洞察力や、美しいもの、畏敬すべきものへの直感力をにぶらせ、あるときはまったく失ってしまいます。
もしもわたしが、すべての子どもの成長を見守る善良な妖精に話しかける力をもっているとしたら、世界中の子どもに、生涯消えることのない<センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目をみはる感性>を授けてほしいとたのむでしょう。
この感性は、やがて大人になるとやってくる怠慢と幻滅、わたしたちが自然という力の源泉から遠ざかること、つまらない人工的なものに夢中になることなどに対する、かわらぬ解毒剤になるのです
(転記終わり)
このサイトには本書からの引用が他にも載っている。例えば、「人間を超えた存在を意識し、おそれ、驚嘆する感性をはぐくみ強めていくことは、どのような意義があるのでしょうか。自然界を探検することは、貴重な子ども時代をすごす愉快で楽しい方法にひとつにすぎないのでしょうか。それとも、もっと深いなにかがあるのでしょうか」という言葉。「わたしはそのなかに、永続的で意義深いなにかがあると信じています」とレイチェルは言う。
「人間を超えた存在を意識し、おそれ、驚嘆する感性をはぐくみ強めていくこと」。その意義を確かめるということなのだろう、「カーソンの世界を追体験する朗読ドキュメンタリー」といった内容の「センス・オブ・ワンダー ~レイチェル・カーソンの贈り物~」という長編記録映画があり、上映会も続けられてきたとか。既にDVD、Video版も販売されているようである。
内容を更に見ると、「映画は、この作品の舞台となった米国東部メイン州に現存するカーソンの別荘周辺の森や海辺に四季を訪ね、日本語版の翻訳者である上遠恵子さんが原作を朗読し、カーソンとロジャーの世界を追体験します。あわせて、カーソンの人生の足跡をたどることで、より根源から彼女のメッセージを伝える「朗読ドキュメンタリー」です」という。
本書『センス・オブ・ワンダー(The Sense Of Wonder)』中の文章は、美しく且つ読みやすく、しかも詩情豊かだからだろうか、ネットで相当程度に読むことができる。上掲以外にも、「「センス・オブ・ワンダー」について(園長 樫村文夫)」で、何箇所かが引用されている。下記は、まさしく本書の冒頭の一文である:
ある秋の嵐の夜、わたしは1歳8か月になったばかりの甥のロジャーを毛布にくるんで、雨の降る暗闇のなかを海岸へおりていきました。
海辺には大きな波の音がとどろきわたり、白い波頭がさけび声をあげてはくずれ、波しぶきを投げつけてきます。わたしたちは、まっ暗な嵐の夜に、広大な海と陸との境界に立ちすくんでいたのです。
そのとき、不思議なことにわたしたちは、心の底からわきあがるよろこびに満たされて、いっしょに笑い声をあげていました。
幼いロジャーにとっては、それがオケアノス(大洋の神)の感情のほとばしりにふれる最初の機会でしたが、わたしはといえば、生涯の大半を愛する海とともにすごしてきていました。にもかかわらず、広漠とした海がうなり声をあげている荒々しい夜、わたしたちは、背中がぞくぞくするような興奮をともにあじわったのです。
(転記終わり)
「量子論と複雑系のパラダイム」の中の「センス・オブ・ワンダー」でも、やや断片的にだが、印象深いアフォリズムかのような文章が随所から引用されている。
実際、引用したくなるのだ。載せられている写真も印象的である。
が、この詩情溢れる文章、決して単に自然の美に感応しての想像力だけで表現されたものではなく、学者にはなり切れなかったが、研究者として海辺などの自然の風物に慣れ親しみ、各所の研究機関の専門家でなければ入手できないような文献を渉猟し、緻密で繊細な観察に裏打ちされているのである。
だからこそ、初学者や子供たちだけではなく、専門家も安心して読めるし学ぶこともできるわけである。
レイチェル・L. カーソンのことについては、「先週からリンダ・リア (Linda Lear)著『レイチェル―レイチェル・カーソン『沈黙の春』の生涯』(上遠 恵子訳、2002/08東京書籍刊)を読んでいる」ということで、この季語随筆の「沈黙の春」で、若干のことは書いている。
実を言うと、本書『レイチェル』はまだ半分も読んでいない。合間にいろいろ読んでしまうこともあるが、読書は睡眠薬代わりという悲しい現実もあったりする。
季語随筆では、黒田 玲子著『科学を育む』(中公新書刊)の中に示されている、「幅広い分野で求められる科学研究の経験者――科学のインタープリター」が必要という考え方に照らし合わせ、レイチェル(の諸著や活動)こそが、まさにその典型であり、原型ともなっていると書いた。
『レイチェル』の中に引用されているレイチェル自身の言葉を使うなら、「私は、科学的発見に対する自分なりの解釈を、科学に縁のない読者にも現実味や意味をもって伝わるように解説する作家を目指しています」という、まさに目指した通りの作家になったわけである。
この本文は50頁もない本書『センス・オブ・ワンダー』は、例によって松岡正剛も千夜千冊で採り上げている。
以前も紹介したが、「POP MUSIC」というサイトの「レイチェル・カーソン」という頁は、あれこれ読む暇がないという方には、せめてここだけでも覗いて欲しいという頁である。
レイチェル・カーソン日本協会理事長である上遠 恵子さんに負けず劣らずのレイチェルへの傾倒ぶりが伝わってくる。<「沈黙の春」の由来>も、ちゃんと書いてくれている。
[ 本稿は、季語随筆の「センス・オブ・ワンダー…驚き」(2005.06.04)から書評部分を抜粋したものです。尤も、今回は、全文の転記の形になっているけれど。
この四月末に、hirononさんサイトで「センス・オブ・ワンダー」の話題が出ていて、小生、思わずコメントを寄せていたという経緯がある。
後日、図書館で本を物色していて(大概、これという本を目当てに探すわけではない)、伝記のコーナーで「レイチェル」の伝記本に目が向いたのも、hirononさんサイトでのこの遣り取りが背景にあったればこそだろう(多分)。内心、「沈黙の春」を読まないで来たという忸怩たる思いが改めて燃え上がっていたのかも。
この伝記本、まだ半分しか読んでいない。別に慌てる必要もないので、じっくりレイチェル・L. カーソンという人物と付き合っているようでもある。一方では、島尾敏雄著の『死の棘』も細々と読みつづけているので、なんだかカーソンとミホとの二人の女性と割りない仲になっているような。 (05/06/11 追記)]
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