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2005/06/29

レビー著『暗号化』

[ 本稿は季語随筆「暗号・季語」(2005.04.30)より、書評感想文部分を抜粋したものである。 (05/06/28 追記)]

 スティーブン・レビー著『暗号化  プライバシーを救った反乱者たち』(斉藤 隆央訳、紀伊國屋書店刊)を過日、読了した。スティーブン・レビーというと、同じく彼の手になる『ハッカーズ』(松田 信子/古橋 芳恵訳、工学社刊)を思い起こされる方も多いかもしれない。後者はレビューによると、「本書では、’50年代のMITに端を発するマニアックなコンピュータ狂の天才少年たちが『ウォー・ゲーム』のモデルになるような無軌道ぶりを発揮しながらも妥協を拒み、官僚主義と戦いながら理想を追い求めていった姿を描く」というもので、なかなか大部の本である。
 前者『暗号化』は、後者ほど大部ではないが、それでも500頁もある。筆者は人間像、人間関係、そうコンピュータやパソコンのソフト制作という、一般人からすると(小生からすると尚のこと)常識からは懸け離れているかのような世界の人間味、体臭をこれでもかと描いていく。
 登場人物の多い、多すぎる小説のようで、同じ人物だけれど、百頁以上も先になってから不意に再度、現れてくるものだから(二度目以降の登場となると、人物紹介は繰り返してくれないし)読んでいるうちに、この人って誰だっけ、と、文章の流れに乗り切れなかったりする。
 実際、本書のレビューにさえも、「巻末に短い用語集をつけて専門用語を解説しようと試みているが、これは中途半端なものにとどまり、あまり役に立たない。本文は、アメリカ人に見られるやや冗長な書き方をしている。行きつ戻りつしないで読み進めることができるように書いた、こうしたスタイルを読みやすいと思うかどうかは、読者によって個人差があるだろう。小さい文字で長々と書いたものよりも、もっとすっきり簡潔に要点をしぼった書き方を好む読者も多いのではないか」などと書いてある。

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2005/06/27

山田風太郎著『戦中派不戦日記』

原題:山田風太郎『戦中派不戦日記』あれこれ(03/08/25)

 山田風太郎氏というと、自由奔放な想像力を駆使して、時代を自由に飛び、フリークス的存在が闊歩し、暴力などは当たり前(なんてたって、多くは時代活劇として殺し合いをするんだから)、抱腹絶倒(?)の忍術やセックスがふんだんに盛り込まれた、そんな時代活劇作家として知られている。
 とは言いながら、小生が山田風太郎氏の本を初めて読んだのは、一昨年の秋で、『風来忍法帖』(講談社文庫刊)だった。その年の夏、氏は、肺炎のため東京都多摩市の病院で死去された。79歳だった。
 高名な作家だったし気になる作家だったのに、一冊も読んでいないという忸怩たる思いから、慌てて読んだのである。確か、メルマガで、「風蕭蕭として易水寒し 壮士ひとたび去ってまた還らず」などという言葉を紹介している。
 上掲の小説に出てきたので、史記・刺客列伝の中の物語に由来する言葉として紹介したのだった。
 この話そのものは、下記のサイトを参照のこと。
 『戦中派不戦日記』(講談社文庫)は、山田氏の本としては小生にとって二冊目なのである。この8月15日にちなむ本ということで読んでみることにしたのだ。

 本書のタイトルは変わっている。戦中派というのは、読んで字の如しだ。本書は、昭和20年の冒頭から末日までの日記なのだが、彼は、当時23歳の医学生として戦火の東京、そして疎開の地の信州で生きしのいだのである。
 彼の下にも召集令状は来たのだが、肺湿潤のため徴兵検査不合格。そして即日、帰郷している。

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2005/06/25

藤村『千曲川のスケッチ』

原題:藤村『千曲川のスケッチ』その周辺(03/08/24)

 島崎藤村の『千曲川のスケッチ』(新潮文庫)を9年ぶりに読み直した。これで、本書を手にするのは、少なくとも三度目ということになる。
 今回は、小生が年齢を重ねたこともあり、多少は読む気持ちも違っていた。つまらないことかもしれないが、例えば、東京在住の小生はオートバイやスクーターで富山へ帰省するのだが、数年前から上信越自動車道を使うようになった(二度目に読んだ9年前の頃の帰省は、ルートが違っていた)。
 すると、一度か二度は、高速道路が千曲川の上を通過する。渡っている橋の名前は忘失したが、橋の近辺に表示されている千曲川という名前だけは最初の時から脳裏に刻まれた。石ころの多い河原の上を通過しているに過ぎないのだが、素養も何もない小生は、千曲川というと、五木ひろしか島崎藤村を思い浮かべる。
 今年の夏、帰省し、持参した松本清張の『文豪』を読み終えた小生は、寝床でゴロゴロしながら、次に何を読もうかと書棚を物色してみた。田舎で過ごす部屋には、学生時代の本の一部が書棚に並べられてあるのである。ほとんどが古典。当時は、ちゃんとしたものを中心に読んでいたのだなと、その書棚を見るたび、今の読書傾向に忸怩たる思いにさせられる。

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岡本太郎著『今日の芸術』

「原題:岡本太郎著『今日の芸術』あれこれ(03/07/28)」

 縄文文化を探る一環として宗左近著『日本美・縄文の系譜』 小山修三著『縄文学への道』などを読んできた。今度、その延長で、岡本太郎著『今日の芸術』を再読した。
 前回、読んでから未だ5年も経ったかどうかで読むのも、そういう意図があったればこそかもしれない。
「芸術は爆発だ!」という一斉を風靡したというか、時にその眼を剥いた生真面目さ、真剣みに辟易して、揶揄がちに見られたりもした。その彼が今、見直されている。

 岡本太郎は、自分の目と感性を何よりも大事にする。芸術家として当たり前のようでいて、実に勇気の要ることだと思う。どうしたって、同時代的には、その時代に常識として通用している価値観がのさばっている。優秀な美術評論家が海外の動向を勉強して、薀蓄を傾けてくれる。その高邁な眼がどうしても気に掛かるものだ。その枠組みから食み出して独自の世界観、価値観を打ち出すというのは、想像を絶する己の目への自信がなければ、ただの一歩さえ踏み出せない。
 いや、己の目への自信という言い方自体が、岡本太郎の生き方からしたら愚かしいのかもしれない。自分に自信があるかどうかではなく、そのように感じるから、そのように主張し、そのように行動するだけの話なのだろう。

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谷川 渥著『鏡と皮膚』

[ 本稿は季語随筆「鏡と皮膚…思弁」(June 21, 2005)より、書評エッセイ部分を抜粋したもの。が、今回は、書評的な要素は皆無に近い。むしろ、感覚的思弁もどきの試みと言うべきか。 (05/06/25 補記)]

 谷川 渥著『鏡と皮膚―芸術のミュトロギア』(ちくま学芸文庫2001/04刊)を読了した。筆者自らが芸術を巡る思弁だと性格付けている書。雑誌などの論文などはともかく、書物の形で谷川 渥(あつし)氏(以下、敬称を略させていただきます)の論考を読むのは初めて。美学などの分野で高名な方だけに、一度は、著作に触れたいと思っていたが、ようやくその機会が巡ってきた。

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→ 谷川 渥著『鏡と皮膚―芸術のミュトロギア』(ちくま学芸文庫2001/04刊) 「深みに「真実」を求めてはならない。なぜなら「生はいかなる深さも要求しない。その逆である」(ヴァレリー)からである

 図書館で車中で読むに相応しいような内容の本をと物色していたら、このやや奇異なタイトルに目が向いた。注目してみると、著者は谷川 渥ではないか。名前だけは知っているが、さて、どんな仕事をする方なのか、ざっとでも眺めておこうか…。

 例によって勝手な印象文、感想文を綴ることになりそうなので、公平を期するため(?)、出版社側の謳い文句を示しておく:

深みに「真実」を求めてはならない。なぜなら「生はいかなる深さも要求しない。その逆である」(ヴァレリー)からである。オルフェウスがエウリディケーと見つめ合った瞳に、アテナの盾を飾ったメドゥーサの首に、マルシュアスの剥がされた皮に、キリストの血と汗を拭ったヴェロニカの布に―神話の根拠を古今の画家たちの作品からたどり、鏡と皮膚の織りなす華麗かつ官能的な物語を読み解く。美と醜、表層と深層、外面と内面、仮象と現実という二元論を失効させるまったく新しい芸術論。鷲田清一との対談「表層のエロス」収録

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2005/06/19

都出 比呂志著『王陵の考古学』

[ 本稿は、季語随筆「山焼く」(2005.02.22)から、書評エッセイ部分を抜粋したものである。この度、文中にて引用している、デイヴィッド・キーズ(David Keys)著『西暦535年の大噴火―人類滅亡の危機をどう切り抜けたか』(畔上 司訳、文芸春秋刊)を読む機会に恵まれたので、この書評サイトにアップさせるものである。 とはいいながら、表題は、都出 比呂志著『王陵の考古学』となっている。それは、この記事を書いた時点では、『西暦535年の大噴火』が未読だからである。せっかくなので、アップに際し、若干のデータの補足を施してある。『西暦535年の大噴火』の読後に感想文を書くかどうかは未定。気持ち次第である。(05/06/19 アップ時記す)]

 さて、この「山焼く」を選んだのは、昨日、タクシーの中でラジオを聴いていたら、「古代の興亡舞台か 葛城氏「王宮」」というニュースが飛び込んできたからである(「asahi.com MYTOWN 奈良」より)。
 こうした記事は、短時日のうちに削除されてしまうので、一部だけでも急いで引用させてもらう。
「極楽寺ヒビキ遺跡は、日本書紀に描かれた古代ドラマの舞台だったのか。「葛城国王」説がある大豪族葛城氏の「王宮」とみられる建物跡が、奈良県御所市で見つかった。下界を見下ろす丘陵に立ち、堀をめぐらせた堅固なつくりは、大王(おおきみ)(天皇)家を支えながらそれに匹敵する力を蓄えた葛城氏の姿をいまに伝える」と冒頭にあるが、その「建物跡」が問題なのである。
「一方で激しい焼け跡は、雄略天皇の怒りに触れて火を放たれ、衰亡した事件の「証拠」となる可能性もある。5世紀の興亡が垣間見える」とあり、まさに史書の記述を裏書するかのような焼け跡なのだ。

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モーパッサン『短篇選』

モーパッサン『短篇選』の周辺散策(03/07/24)

 最初から断っておくが、モーパッサンの短篇や文学について書評を試みようという気は全くない。あくまでモーパッサンを巡るあれこれを書き連ねるだけである。ま、当てもなく散歩するようなものだ。
 今回、読んだのは、モーパッサン『短篇選』(高山鉄男編訳、岩波文庫刊)である。
 せっかくなので裏表紙にある謳い文句を引用しておこう:

鋭い観察力に支えられた,的確で抑制のきいた描写,結末の何とも言えない余韻. 師フローベールの教えを受け,モーパッサン(1850-1893)は19世紀フランス文 学を代表する短編小説の名手となった.その300篇以上にも及ぶ短篇作品の中から, 「ジュール伯父さん」「首飾り」など,厳選に厳選を重ねた15篇を収録した.新訳.

 ギイ・ド・モーパッサン(Guy de Maupassant/1850-1893)は小生が学生時代に魅了され、『女の一生』は勿論だが、特に彼の短篇集は繰り替えし読んだものだった。『脂肪の塊』など、幾度読んだことだろう。短篇の至上の傑作というと、小生はこの作品をすぐ思い浮かべてしまう。『脂肪の塊』についての書評はネットでも数多く目にすることができる。たまたま目に付いたので、一つだけ挙げておく。

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2005/06/18

稲岡耕二著『人麻呂の表現世界』

[ 一昨年の拙稿である。稲岡耕二著『人麻呂の表現世界』(岩波書店1991/07刊)を扱っている。出版社のレビューによると、「日本の歌が初めて文字と出会い,書き留められようとするその瞬間に,歌人人麻呂は立っていた.日本の歌を漢字で表現するという課題に人麻呂はどう立ち向かったか.日本文学黎明期のドラマを万葉研究の第一人者が再現」だとか。
 本稿を書いた後、比較的最近、随分と遅まきながらではあるが、折口信夫に僅かながら触れるようになって、人麻呂については多少、評価の異なってきている面もある。が、書いた文章を手直しするつもりはない。一部でも手を加えると、そのうち全体を弄くりたくなるのが常だし、それくらいなら全く別の稿を立てたほうがましだと思うのだ。 (05/06/18 アップ時追記)]

稲岡耕二著『人麻呂の表現世界』の周辺(03/07/13)

 稲岡耕二氏は、万葉研究の第一人者である故・犬養孝氏の後輩に当たる方だという。柿本人麻呂研究の第一人者と目されている。
 小生は、万葉集、その中でも特に柿本人麻呂に関心があり、犬養孝氏の本はもとより、中西進氏の諸著、岸俊男氏著の『古代史からみた万葉歌』(学生社刊)、北山茂夫氏著『万葉の時代』(岩波新書)、梅原猛氏著『水底の歌 柿本人麻呂論(上・下)』(新潮文庫)や『聖徳太子 1-4』(集英社文庫)、そして同氏著の『隠された十字架(法隆寺)』(新潮文庫)、神野志隆光氏著『古事記』(NHKブックス)、井沢元彦氏著『逆説の日本史 2古代怨霊編』(小学館)、故・黒岩重吾著『古代史への旅』(講談社)や『茜に燃ゆ』(中央公論社)、古田武彦氏著『人麻呂の運命』(原書房)、李 寧煕氏著『蘇える万葉集』や『もう一つの万葉集』(ともに文芸春秋社)、などと読んできた。

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2005/06/11

松本隆対談集『KAZEMACHI CAFE』

 過日、図書館から借り出してきた『KAZEMACHI CAFE』(ぴあ 2005/03/19刊)を読んでいる…それとも楽しんでいる…あるいは懐かしんでいる。
 本書は松本隆対談集で、16人の対談相手がおり、「谷川俊太郎 桜井淑敏 林 静一 太田裕美 細野晴臣 佐野史郎 大瀧詠一 筒美京平 薬師丸ひろ子 藤井 隆 松 たか子 萩尾望都 松任谷由実 町田 康 妹島和世 是枝裕和」といった面々である。
 小生は、作詞という時の詩と、所謂「詩」との区別や異同がよく分からない。作詞される方は、初めから曲となることを想定して作詞される(場合もあろうけれど)とは限らない。むしろ、作詞というより、あくまで作詩なのではないか。
 この辺りの創作の心理は、分からない。
 詩にも疎い小生、そんなに詩に親しんできたわけではない。むしろ詩を作詞の詞に広げていいなら、圧倒的に詞の世界に影響されてきたと思う。
 詩を創造する方は尊敬する…というより、尊敬の念を以って見てしまう。が、小生、作曲される方のほうが遥かに強い、そう、もう、畏敬の念といっていいような感覚を抱いてしまう。
 だから、むしろ、だからこそ、作詞の詞の世界に戸惑ってしまう。

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カーソン著『センス・オブ・ワンダー』

 小生が「センス・オブ・ワンダー…神秘さや不思議さに目を見はる感性」という言葉に出会ったのは、高校時代のことだったと思う。
 但し、レイチェル・カーソンの言葉としてではなかった。確か、記憶では「驚異の念」といった訳が宛がわれていたような気がする。もっと、単純に「驚き」の一言だったか。
 何処で遭遇したかというと、悲しいかな本の題名も内容も覚えていないのだが、いずれにしろ哲学の入門書か解説書の中でのことではなかったか。
 もしかしたら、「スピリット オブ ワンダー」という言葉だったかもしれない(同名の鶴田謙二によるSF漫画があるらしい)。
 小生は推理小説よりSFモノに傾倒したくちだが、それは人間が推理しえる範囲はタカが知れているという尊大な思いもあるが、それ以上に、感じ、思い、想像し、空想し、妄想し、推理し、思惟する人間が土壇場に追い詰められたなら、最早、思惟も推理も通用せず、それどころか逞しく膨らんだ妄想さえも凋んでしまうような現実がある。
 というより、そもそも現実がある、存在がある、否定しても否定しきれない何かがあるというそのこと自体の不可思議の念こそが、究極の驚異なのだと、早々と決め付けてしまったのである。
 まさにせっかちで短絡的な性分がよく出ている。
 科学や技術、文学や思想、人間という存在。その心理(真理)や機構のメカニズムも興味津々だが、夜明けの海の光景、夕日の沈みゆく山の光景など、その荘厳さに息を呑む思いに駆られた人は多いだろう。
 けれど、そんな大仰な風景でなくても、レイチェルではないが、身近な何気ない光景、風に揺れる木の葉、水道の蛇口に今にも垂れ零れそうな水滴のその雫一滴の世界の豊かさ、そばにいる人(ペット)の産毛なのか知れない毛の得も言えぬ柔らかさと愛おしさ、ふと歩き出した一歩の足の裏に感じる大地の感覚、その一つ一つ、あるいはその一切があるということ自体の切ないほどの不可思議さの素晴らしさはどうだろう!
 プラトンやアリストテレスは、哲学…それとも学問は素朴な驚きの念に始まると言ったとか。もしかしたら、その説明の一端でセンス・オブ・ワンダーという言葉を知ったのだろうか。
 小生が密かに大事にするセンスは、端的には違和感に尽きる。ちょっとした違和感から想像力の翼が羽ばたき始めるのである。蝋燭の焔よりもあやうくか細い感覚。そのセンスで、水面を決して飛沫を上げることなく、軌跡さえ残すことなく、まして波紋など生じさせるはずもなく、どこまでもなぞっていく。指先が濡れているようないないような。花を愛でる…けれど、決して触れない、まして手折るなど論外…花や草を路傍にあるそのままに愛惜する…接したい…けれど溜め息一つ洩らすことのないままに何処までもなぞりつづける気の遠くなる程のオレンジ色の営み。
 それこそがセンス・オブ・ワンダーの醍醐味なのだろうと、決め付けたところから小生の人生の間違いが始まったのだろう。

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2005/06/06

杉浦 日向子著『一日江戸人』

[本稿は、季語随筆「季語随筆日記拾遺…タクシー篇」(2005.05.21)より、書評エッセイ部分を抜粋したものです。]

 今週は車中に杉浦 日向子著『一日江戸人』(新潮文庫刊)を持ち込んでいる。
 杉浦 日向子さんというと、「NHK総合の『コメディー・お江戸でござる』を見ている人ならご存じの、江戸風俗研究家、杉浦日向子先生」である。
「なかなか天然ぼけでかわいらしいですよね」とあるが、素直に正直に、そうですね、と相槌を打っていいものか。
「過去には、漫画も描いていらっしゃいます」というが、どうやら、本書『一日江戸人』中の挿絵は、杉浦日向子さんご本人が描かれているようなのだ。
 ようなのだ、とは、無責任な表現だが、本を幾ら引っくり返しても、挿絵は誰と銘記していないので(銘記してある箇所を発見できないので)、杉浦日向子さん本人の手になるものと推測するしかないのだ。他の方の絵なら、分かりやすい場所に誰々と銘記するはずだろうし。
 で、文章も軽妙なタッチで、また、歴史の素人たる小生にも分かりやすいし、絵もコミカルで、時に艶っぽかったりして、しかも、絵に添えられる科白(ト書き?)も手書きで細かい文字で老眼の気のある小生には読みづらいが、なんとか頑張って読んで楽しんでいる。

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ワトソン/ベリー著『DNA』

 別頁に掲げる小文は、季語随筆「遺伝子という蛍?」(2005.06.03)の中から書評エッセイに関わる部分を抜粋したものです。
 扱っているのは、ジェームス D.ワトソン著 アンドリュー・ベリー著『DNA』(青木 薫 訳、講談社刊)。
「DNA」とある。そこから、かのマーロン・ブランド主演、ジョン・フランケンハイマー監督映画『D.N.A.』を連想してはいけない。小生と同じ轍を踏むことになる。こちらの映画は、H・G・ウェルズの『モロー博士の島』という立派な原作がある。
 映画の内容については、「D.N.A(96米)」を参照。ネタバレもあるから(といって、原作だってあるわけだし、今更、関係ないが)、気をつけて覗いてみて。
 いっそのこと、「D.N.A.(みんなのレビュー)」などを覗いた上で、映画の『D.N.A.』を鑑賞し、そこから原作の『モロー博士の島』を創造し直してみるのも一興かも。

 さて、気を取り直して、本書『DNA』は読み応えがあった。書き手が論争の的となることを厭わない率直な書き手なので、時に微妙な問題でも、何が問題点なのかを真正面から語ってくれて、とても参考になった。遺伝子研究などの問題は、実に複雑多岐に渡ると実感する。複雑…けれど、専門家であろうが素人であろうが、誰彼にお構いなしにどうすると選択を迫られる場面が遅かれ早かれやってくるのかも。他人事でも、学問的な好奇心で収まる話でもないのである。

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2005/06/05

保阪正康著『大学医学部の危機』

保阪正康著『大学医学部の危機』(03/07/09)

 保阪正康氏の本を読むのは、『天皇が十九人いた―さまざまなる戦後』(角川文庫刊)以来である(この本については既に感想文を書き公表している)。
 『危機』は、たまたま書店で見つけた本で、医学部というより医療そしてそもそも医学、そしてもっと広く身体と心に関心のある小生は、目に付いたら手放せなくなった。毎年、解剖学の本、ウイルスの本、疫病関連、外科の話など、何かしら医学関連の本を読書の献立に入れている小生なのである。
 念のため、「出版社/著者からの内容紹介」を引用しておこう:

「その姿はまさにこの国の縮図だ! いまなお「白い巨塔」なのか?それとももはや「バベルの塔」か。世界に冠たる日本の医療環境。平均余命は高く、薬は豊富。しかしその一方で……。倫理からかけ離れて暴走しかねない先端治療は国民の不信を買い、際限なく膨張する医療費は国家財政を揺るがす。構造改革の時代に、大学医学部は新しい秀れた人材を社会に送り出せるのか?豊富な取材で実像をえぐり出す。」

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モーム『雨』

[梅雨の時期だからというわけでもないが、「雨」繋がりでモームの名品を思い出してみようか。]

モーム『雨』(03/07/06)

 掌編を書こうかな、ちょうど雨が降ってきたし、創作意欲も湧く……などと思ったが、土曜日に読み終えたサマセット・モーム『雨・赤毛』(中野好夫訳、新潮文庫刊)を読了した余韻が冷めないうちに、簡単にでも感想文を書いておきたいと思われてきた。
 本作は、有名だし、小説を読まれた方も多いだろう。結末に意外な(?)展開が待っているが、見方に依れば、物語の結末として予想される類いのものとも感じる。むしろ、ストーリー展開より、途中の叙述そのものが楽しめるから、名作として今日まで生きているのだと思う。
 よって、小生は、ネタバレの配慮はしない。その必要も感じない。
[8歳で母を10歳で父を失ったモームの年譜をどうぞ。]

 雨。はるか南海の島に降る雨季の雨は、東京に降る梅雨の雨とはまるで違う雨なのだろう。シトシトと降る、やるせない雨、それでも雨脚が弱まる時がないわけではないし、合間には日差しに恵まれないこともない。
 それに、なんといっても、日本に居る。物心付いてから心に深く馴染んできた雨なのだ。

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