谷川 渥著『鏡と皮膚』
[ 本稿は季語随筆「鏡と皮膚…思弁」(June 21, 2005)より、書評エッセイ部分を抜粋したもの。が、今回は、書評的な要素は皆無に近い。むしろ、感覚的思弁もどきの試みと言うべきか。 (05/06/25 補記)]
谷川 渥著『鏡と皮膚―芸術のミュトロギア』(ちくま学芸文庫2001/04刊)を読了した。筆者自らが芸術を巡る思弁だと性格付けている書。雑誌などの論文などはともかく、書物の形で谷川 渥(あつし)氏(以下、敬称を略させていただきます)の論考を読むのは初めて。美学などの分野で高名な方だけに、一度は、著作に触れたいと思っていたが、ようやくその機会が巡ってきた。
→ 谷川 渥著『鏡と皮膚―芸術のミュトロギア』(ちくま学芸文庫2001/04刊) 「深みに「真実」を求めてはならない。なぜなら「生はいかなる深さも要求しない。その逆である」(ヴァレリー)からである」
図書館で車中で読むに相応しいような内容の本をと物色していたら、このやや奇異なタイトルに目が向いた。注目してみると、著者は谷川 渥ではないか。名前だけは知っているが、さて、どんな仕事をする方なのか、ざっとでも眺めておこうか…。
例によって勝手な印象文、感想文を綴ることになりそうなので、公平を期するため(?)、出版社側の謳い文句を示しておく:
深みに「真実」を求めてはならない。なぜなら「生はいかなる深さも要求しない。その逆である」(ヴァレリー)からである。オルフェウスがエウリディケーと見つめ合った瞳に、アテナの盾を飾ったメドゥーサの首に、マルシュアスの剥がされた皮に、キリストの血と汗を拭ったヴェロニカの布に―神話の根拠を古今の画家たちの作品からたどり、鏡と皮膚の織りなす華麗かつ官能的な物語を読み解く。美と醜、表層と深層、外面と内面、仮象と現実という二元論を失効させるまったく新しい芸術論。鷲田清一との対談「表層のエロス」収録
正直なところ、谷川 渥という人物の仕事を知りたいということもあったが、実のところは、所収されている絵画が豊富で、それらの絵画を眺めているだけでも、決して飽きないという読みがあった。
実際、本書を読んで、また、挿入される絵画を見て、クラナッハやミケランジェロ、ベルリーニについて、蒙を啓かれる思いをした(ミケランジェロの友に宛てた手紙など興味津々)。そのうち、機会があったら、それら巨匠たちの作品を鑑賞してみたい。
それと、なんといっても、謳い文句にあるように、「鷲田清一との対談「表層のエロス」収録」ということで、最終的に選んだと言って過言ではない。
申し訳ないが、冒頭の数行を読んで、これなら、バシュラールを再読した方がましかなと感じてしまった。生意気? バシュラールが肌に合うのだ(と自分では思っている)。
著者略歴は、リンク先に書いてあるが、一部(?)転記しておくと、「谷川 渥
1948年、東京生まれ。東京大学大学院博士課程修了。専攻は美学。現在、国学院大学文学部教授。E・H・ゴンブリッチ『棒馬考』、バルトルシャイティス『鏡』などの翻訳のほか、著書に『形象と時間』(講談社学術文庫)、『美学の逆説』(勁草書房)、『幻想の地誌学』(ちくま学芸文庫)、『文学の皮膚』(白水社)、『イコノクリティック』(北宋社)、『芸術をめぐる言葉』(美術出版社)、『三島由紀夫の美学講座』(編著、ちくま文庫)などがある」とのことである。
ついでながら、「深みに「真実」を求めてはならない」という一文で、ニーチェを想った人は、さすがである。あるいは中には、三島由紀夫の『仮面の告白』を即座に連想した方も居るに違いない。
小生はこれでも何十年も読書を重ねてきたから、どんなに優れた著作、独創的な論考の展開が華麗な仕事であっても、自分が読んで納得できるか、理解できるか、その前に、肌合いとして合うかどうかは、パラパラと捲るだけで即座に判断が付く。自分の手(能)に余るものも。
別に自慢する訳ではなく、自分の能力も分かっているし、冒頭の一節、あるいは中途の断片を斜め読みするだけで、自分という人間の中での価値判断、相対的位置付けが定まるのである。
アートについて思弁的な論考を展開する。奇矯? そんなことはない。小生、その論旨や思弁の質次第だが、大好きなのである。芸術作品というものは、現物を観て、鑑賞する。絵画でも陶器でも、ガラス器などの工芸品でも。
そんなことは当然だと思う。
が、さて、鑑賞するとは、一体、どういうことか。眺めていること? 離れて、それとも間近から? 手にとってその手触りを確かめること? 陶芸作品や彫刻作品などなら、そんなこともありえようが(実際には、触って楽しむことを許してくれるような展覧会など極めて稀。目の不自由な方向けとか、子供向けにたまにそんな機会があったりする。思うに、大人だって、触りたい!)、まずは一定の距離を保って眺めることになる。無論、その作品と眺める我々との距離感の問題、作品が要求する距離感といったものはある。
絵画作品を間近でマジマジと細部を観察するのも時には大事だったりするが、画家は、描きながら、画架の上の作成途上の作品を、時折、距離を置いて全体像や構図の具合などを眺めて確かめる。
ほとんど常に、乃至は圧倒的な時間、作品の間近にあるのは、画家(とコレクター)の特権なのである。
鑑賞するとは、一体、どういうことか。作品を眺めることか、作品と一体になることか、作品に触発される想像の世界に没入することか。
けれど、我々、否、少なくとも小生は、眺めるだけで飽き足りることなど、ありえないような気がする。うら若き美しい女性を見て、ただ眺めて楽しめ、などと言われても、ヌード撮影や鑑賞会をやっているのならともかく、大概は、手に取り足に取り、ためつすがめつし、そのうち、わけの分からぬ衝動に駆られたり、駆られさせてやろうなどと不遜な、止めどない思いに駆られ、距離感をどう、などという品のいい姿勢などそっちのけ、くんずほぐれつになったりする(らしい)。
絵画など、芸術作品だけは、鑑賞の対象であるべき、というのも、不思議といえば不思議である。絵画作品が額に収められてこそ、作品として完結する(ほぼ全ての作品がそうだ)というのも、馬子にも衣装という知恵もあるのだろうが、同時に、絵画作品に特権的な地位を与えたいという画家(それとも画商なのか)の知恵と戦略があるのだろう。
美女(美男でもいい)を目の前にして、額の中の美女(美男)で我慢しろ、というのは酷な話である。額縁ショーではないのだ。
距離感の錯綜。距離感の喪失。距離感への嫌悪。距離を置くことへの忌避の念。
さて、絵画(に限定しなくてもいいのだが)作品において、その距離感への嫌悪や忌避の念そのものがテーマとなったら、どうか。
小生の勝手な理解なのだが、本書の表題「鏡と皮膚」というのも、まさにその現実との接触感、あるいは現実との接して漏らしえない微妙な不全感と不能感、絶望感を示しているような気がする。
メデューサ。眺めるものを石に変えてしまう、髪が数知れない蛇の蠢く美神。
鑑賞などといった、やわな言葉が美術や絵画の世界に使われるようになったのは、いつのことなのか。きっと、絵画作品が美術館に収められ一般大衆に、これみよがしに展覧させるようになってからではないか。見てもいい、しかし、触れては成らない。触れていいのは選ばれた者のみ。
選ばれたものは、美女(美男)と一夜を共にする特権を得たものは、鑑賞に止まるはずがない。美を手中にした(かのような幻想に囚われた)者は、美を眺める。眺める、観るとは、触ること。絡むこと。一体にならんとすること。我が意志のもとに睥睨しさること。美に奉仕すること。美の、せめてその肌に、いやもっと生々しく皮膚に触れること。撫でること、嘗めること、弄ること、弄ぶこと、弄ばれること、その一切なのだ。
やがて、眺める特権を享受したものは、見ることは死を意味することを知る。観るとは眼差しで触れること、観るとは、肉体で、皮膚で触れ合うこと、観るとは、一体になることの不可能性の自覚。絶望という名の無力感という悦楽の園に迷い込むことと思い知る。
観るを見る、触る、いじる、思う、想像する、思惟する(本書は思弁の書なのだから、思弁も含めたっていい)、疑念の渦に飲み込まれること、その一切なのだとして、見ることは、アリ地獄のような、砂地獄のような境を彷徨うことを示す。
砂地獄では、絶えず砂の微粒子と接している。接することを望まなくても、微粒子は、それとも美粒子我が身に、そう、耳の穴に、鼻の穴に、口の中に、目の中に、臍の穴に、局部の穴に、やがては、皮膚という皮膚の毛根や汗腺にまで浸入してくる。浸透する。
美の海に窒息してしまうのだ。
窒息による絶命をほんの束の間でも先延ばしするには、どうするか。そう、中には性懲りもなく皮膚の底に潜り込もうとする奴がいる。ドアの向こうに何かが隠れているに違いない。皮膚を引き剥がしたなら、腹を引き裂いたなら、裂いた腹の中に手を突っ込んだなら、腸(はらわた)の捩れた肺腑に塗れたなら、そこに得も言えぬ至悦の園があるかのように、ドアをどこまでも開きつづける。決して終わることのない不毛な営為。
何ゆえ、決して終わることのない不毛な営為なのか。なぜなら、ドアを開けた其処に目にするのは、鏡張りの部屋なのだ。何故、鏡張りなのか。壁ではないのか。
それは、どんなに見ることを欲し、得ることに執心し、美と一体になる恍惚感を渇望しても、最後の最後に現れるのは、われわれの行く手を遮るものがあるからだ。何が遮るのか。言うまでもなく、自分である。観る事(上記したような意味合いで)に執したとしても、結局は、自分という人間の精神それとも肉体のちっぽけさという現実を決して逃れ得ないことに気づかされてしまう。
焦がれる思いで眺め触り一体化を計っても、そこには自分が居る。自分の顔がある。自分の感性が立ち憚る。観るとは、自分の限界を思い知らされることなのだ。
つまりは、観るとは、鏡を覗き込んでいることに他ならない、そのことに気づかされてしまうのである。
だからこそ、美を見るものは石に成り果てる。魂の喉がカラカラになるほどに美に餓える。やがてオアシスとてない砂漠に倒れ付す。血も心も、情も肉も、涸れ果て、渇き切り、ミイラになり、砂か埃となってしまう。
辛うじて石の像に止まっていられるのは、美への渇望という執念の名残が砂や埃となって風に散じてしまうことをギリギリのところで踏み止まっているからに他ならないのである。
…というわけで、本日は、『鏡と皮膚』を書評する力量は悲しいかなないので、小生も、美を巡る感覚的思弁を楽しむのが好きなのだということを示すことで、お茶を濁してみた。如何でしたでしょう。
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