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2005/05/01

吉本隆明『超「戦争論」』(続)

原題:「吉本隆明『超「戦争論」』雑感(4)」(02/12/04)

 一部の方から「人間の『存在の倫理』」を持ち出しているが、今一つ、その言葉の意味合いがハッキリしないという指摘がされた。
 全く、ご指摘の通りである。
 実は、小生もよく理解できていないのだ。
 吉本氏がこの「人間の『存在の倫理』」という論理ないし観点を持ち出すのは、「岡本公三らの日本赤軍が、かつてテルアビブのロッド空港で乱射事件をやって、空港にいた多数の無関係な一般市民を殺害したテロ事件」は、「戦闘を行った結果、たまたまそこに居合わせた一般市民が巻き添えを食って犠牲になったわけであり、それは、国民国家がやる従来型の戦争の場合と同じ」である。「国民国家がやる従来型の戦争でも、空爆などの結果、たまたまそこに居合わせた一般市民が巻き添えを食って犠牲になるということが」ある。
 つまり、こうしたテロや戦闘は従来型だというのだ。
 それに対し、繰り返しになるが、「当面の目的とは全然無関係であることが最初からわかっている旅客機の乗客たちを降ろさずに、そのまま道連れにして、世界貿易センタービルなどに突っ込んじゃったということは、それとまるで違う行為です。その行為は人間が存在していること自体に倫理があるとすれば――つまり、人間は存在しているってこと自体によって倫理を負っていると考えるとするならば、そうした「人間の『存在の倫理』」に反する、ということなんですよ」(上 p.74)

 さて、いよいよ本題、つまり吉本氏が言う「人間の『存在の倫理』」とは何か、に入る。
 その前に、吉本氏が言う、従来型のテロや国民国家が行う戦闘と、乗客たちを降ろさずに世貿ビルに突っ込んだというのとは、まるで違うという吉本氏の指摘を小生は依然として全く納得できないでいることは明確にしておきたい。

 例えば、アメリカ軍が日本各地で行った空襲やベトナムで行った無差別の空爆では、犠牲になったのは、圧倒的大多数が当面の目的とは無縁ないし、多くはわけも分からず右往左往するしかない一般大衆だったのではないか。たまたま国土に国民がいたに過ぎないわけではないはずだ。その日本人民が、あるいはベトナム人民が犠牲になったのは、単に戦闘(空襲や空爆)の際、たまたまそこに居合わせたわけではなく、そこいることがアメリカ軍当局は重々承知の上だったはずだ。
 つまり、旅客機の乗客と同じで、旅客機なら乗客がいるように、国土には国民人民がいるわけで、たまたま居合わせたわけでは毛頭ない。
 最初から乗客(民間人である国民、人民)がいることは、旅客機の場合もアメリカ軍による世界各地での空襲・空爆の場合も、世界で頻発するテロの場合も、分かりきったことで、たまたまも、「最初から乗客を降ろさずに」も、区別できるはずなどないのだ。
 その最たるものが広島・長崎への原爆の投下ではないか。
 テロや戦争での犠牲者に、たまたまも最初からも何もない。すくなくとも、「たまたまという場合と、事前に現場に居合わせ、ターゲットになることがハッキリしている場合との境目が画然としているわけではない。
 小生は、陳腐な言い草かもしれないが、むしろ、戦争やテロの形で現実の事態の変容(改革、革命、侵略、国家転覆)を狙うこと自体が、「人間の『存在の倫理』」に反することだと思うのだ。
 こうした小生の見解というのは、実に平凡なのだろう。しかし、この小生の素朴な見解というか疑問をきちんと覆してもらわない限り、納得できるはずがない。
 この素朴な疑問を抱えた上で、吉本氏が語る、「人間の『存在の倫理』」を見ていきたい。
 吉本氏が語る、「人間は存在しているってこと自体によって倫理を負っている」とは、一体どういうことなのか。

原題:「吉本隆明『超「戦争論」』雑感(4)に戴いたコメントへのレス」(02/12/06)

 Sさん、こんにちは。
 湾岸戦争の時もそうでしたが、アフガニスタン(タリバンやアルカイダ)での攻撃の時も、新しい武器のオンパレードでしたね。
 殺傷力も高まれば、今度は「殺戮率」も高まっているとか。
 でも、云われることですが、「殺戮率」を百パーセントにするのは、ある意味で簡単です。 それは狙った相手を仕留めたかどうかではなく、殺した相手を狙った相手と決め付けることです。殺されるのはアルカイダのメンバーや支援者であろうと、そうでなかろうと、殺傷した相手は全てアメリカの敵だったのだということにすれば、殺戮率は常に百パーセントです。
 なんといっても、殺される対象のほとんどはイスラム教徒であるか、いずれにしろ西側諸国の人々には馴染みのない方々なわけです。誰が殺されても誰も問題にしません。また、問題にしようがありません。
 仮に良心的なマスコミが採り上げても、採り上げようと思っても誰が関心を持つでしょうか。ああ、アメリカはさすがに高度な戦闘・情報収集技術で敵方を圧倒しているな、その圧倒的な軍事力に対し、反発したり、反発しつつも同調するしかないなとまでは考えても、殺されゆく人々がどういう人物たちであるかの検証など誰もしないか、いずれにしろ問題にしないのです。
 アメリカは正義の国です。神の国であるわけです。従って正義の国が為す行為や下す判断は正しいのです。従って(敵を殺したのではなく)殺した相手は敵なのです。よって殺戮率は百パーセント以外にないのです。
 
 北朝鮮問題については、もう、マスコミも論調を変えるべきだと思います。今のままでは全く拉致問題の解決どころか、国交交渉開始の糸口さえ見出せません。
 拉致被害者の問題でしきいを高くすればするほど、それは日本が為した従軍慰安婦や強制連行の問題の賠償(ツケ)も高まっていくことに繋がるでしょう。
 交渉が暗礁に乗り上げることが、アメリカの国益に適っていることをもっと理解すべきではないかと思います。
 アメリカは、どんな形にしろ朝鮮半島にアメリカ軍を配置・配備するための合理的根拠が要ります。何しろ朝鮮半島が不穏であるかぎり、ロシアと中国の咽元にアメリカの軍事力を堂々と置けるわけですから。
 だから、日本の外交の稚拙さをアメリカは高みの見物しつつ嘲笑っていることでしょう。世論に迎合するばかりで何らの成果も上がらない日本外交。拉致被害者のうち5人の方の帰国が為りましたが、これは外務省の田中均氏の長い交渉の結果であって(恐らくは一時的な帰国という約束のもとでの)、小泉首相の手柄でも「毅然とした」交渉姿勢の結果でも何でもないのです。
 小泉首相が「毅然とした」姿勢をとればとるほど、交渉は暗礁に乗り上げていくばかりです。5人の家族をバラバラに引き裂いておいて、見通しも立たず、挙げ句の果ては、一旦は弱腰だとか非難してパイプを政府内の強硬派に断ち切られてしまった田中均氏を再度交渉の窓口に持ってきたり、小泉首相や安部官房副長官(当時)らの強硬路線は成果ゼロで見苦しいばかりです。言葉だけ勇ましいのです。


原題:「吉本隆明『超「戦争論」』雑感(5)」(02/12/07)

 今回は、「人間の『存在の倫理』」を扱うのだが、必ずしも小生は吉本氏の説明を理解できたとは云えない。それゆえ、小生なりの説明に終始し、可能な限り吉本氏の説明を引用する形で行うことにする。
 人間は誰も自分の意志で生まれてきたわけではない。気が付いたらこの世に自分がこのようにして生まれていたのだ。
 平穏無事な生活を送っている限りは何も問題はないが、人生の煩悶などに類する障害にぶつかると、何ゆえ自分がここに在るのか。ここに在る事は誰のせいなのか。親のせいなのか。親に反抗すると、親はお前(子供)が生活できるのは親の御蔭ではないか、一方、子供は子供で、自分が生きていることは自分が望んだことではない、お前が(親が)勝手な思惑なり勢いで作ってしまったんじゃないか、という抜き差しならない堂々巡りの理屈のぶつかり合いに至ってしまう。
 が、親にしても人の子である。そこには一人一人の思惑を超えた、とにかく生きている、生きている中での柵(しがらみ)や思惑や期待や失望がある。昨日があって今日があり、今日を凌げば明日が待っている。気が付けば自分が周囲によって、あるいは自らの意思で背負った荷物(期待)の重みが肩に食い込んでいる。
 とにもかくにもあるということ。その現実は重い。勝手に人生から降りるのも(不可能ではないが)難しい。逃げるのも(不可能ではないが)、逃げ込んだ先にも自分がいることに変わりはない。
 人は生きている以上、この世の何処かしらに場所を占めて、他者や社会や自然に影響を与えないではいられない。生きている、ただそれだけのことで他者(社会や自然を含む)に対して責任があるのだ。生きている以上、空気を吸い、何かしらの生物を食べるしかない。何処かの洞窟に篭ろうと、閑雅な寺で修行三昧に耽ろうと、生きていれば他者(他の生物など)の犠牲の上に生きていくしかないのだ。
「要するに、この世に自分が存在してしまったってこと、それ自体によって、自己と他の存在に必ず影響を与えてしまっている」のである。その現実からは逃れようもなく、人間が生きていることそれ自体から派生する責任は、相手が親であろうと転嫁しようのないものなのである。その責任は自分で引き受けるしかない。
 つまり、存在すること自体によって倫理を負う、それが「人間の『存在の倫理』」なのである。
 吉本氏はこの思想を仏教、特に親鸞に学んだという。吉本氏によれば、「親鸞の宗教は倫理とほぼ同じになってしまうというくらい、宗教を徹底的に解体し」たという。

 吉本氏が、「人間の『存在の倫理』」を持ち出すのは、9・11テロの問題が現在における「新しい倫理」とは何かを問い直させたからである、という。何が「善」で何が「悪」なのかを判断するための「根源的な倫理とは何か?」を問い直させたからだというのだ。
 そこで、先述したように吉本氏は、かのテロで旅客機の乗客を降ろさなかったのは「人間の『存在の倫理』」に反する云々という論議へ至るわけである。
 そして、この点に小生は全く納得が行かないでいることも先述した。
 
 人間が生きており、多様な伝統と歴史と柵(しがらみ)を背負った民族なり宗教集団なりがあり、人間はそうした背景と経緯を抜きに生きることは出来ない。キリスト教であれば神と我との対話こそが基本であるはずなのに、実際にはこの世的にはイデオロギーや資源戦略や情報合戦、金融の自由化の流れなどの奔流に世界が掻き回され、その荒波の中で生きていくしかない。たとえ太平洋の真っ只中で漂流していても、大陸上の嵐の余波から逃れられない。
 イスラエルとアラブ諸国との軋轢。アメリカとイラクなどとの対立。アメリカの思惑。そうした圧倒的な荒波の中で、それぞれが怨念と愛憎と執念とを抱え持ってしまう。
 不穏な情勢下にある地域に住む人の多くは、現実の中で殺された親や恋人の恨みを晴らさないではいられない。
 生きている限り、何かしらの生き物を食べなくてはならない(殺生)だけではなく、其の上に、他者を排除したり殺傷したりしないではいられない、そのことの余波そのものが現実となっている人々がいるのだ。
 そこには宗教的対立もあるが、利害の対立もあり政治的な対立もあれば、もっと個人的なものもあるだろう。
 そうした、宗教的観点からしたら、相対的な対立に過ぎないものに人間は突き動かされて生きている。そうした怨念しか見えなかったりする。それを相対的なものに過ぎないと云っても、誰も聞く耳を持たないだろう。
 「人間の『存在の倫理』」というのは、高邁な論理だし、高踏的な立場からすると愚劣な執着に凝り固まっているに過ぎないのだろうが、しかし、そうした情念と怨念とに色染められた次元から人は抜け出せるのだろうか。
 確かに、「人間の『存在の倫理』」というような高邁な観点に立ちうるなら、それは素晴らしいことだが、神の前に立っても、神の声は誰にも聞えないように、永遠の相のもとに立ちたくても、それは現実には不可能なのではないか。
 というより、吉本氏が長年、情況にコミットし情況に対し発言してきたように、相対的な意見や拘りに過ぎないかもしれないが、人間は情況の只中で意見を主張し議論を試み、時には戦うしかないのではないか。吉本氏が、情況の只中に敢えて踏み込み、異を唱えてきたから吉本氏は尊敬されるのではないか。
 抹香臭くては、誰も相手にしないのではないか。
「人間の『存在の倫理』」は素晴らしい。
 が、そもそも、「人間の『存在の倫理』」は可能なのだろうか。それは悟りを開くことに似ているのではないか。それは西欧で言う神の立場に立つことではないのか。それができなくて、相対的な見地から逃れることはできなくて、だからこそ、それぞれが己の信念と思想に基づいて思うところを述べ合うしかないのではないか。
「人間の『存在の倫理』」は、あって欲しいと思う。あればいいのかもしれないとも思う。
 しかし、現実には人間はあくまで情況の中にあるしかなく、相対的立場にあるしかなく、「人間の『存在の倫理』」の立場から語る人もいるだろうが、爆弾を抱えて突っ込む人間も、第三者の目からは狂気の沙汰以外の何物でもないが、当人はこれしかない、こうすることによってアラーの神に祝福されると思っているのはないか。
 その当人は彼なりの見地から、神の目の前に立っていると思っているのではないか。それを、仏教の見地、キリスト教の見地から見たら、イスラム過激派の思想は段階的に低い倫理思想でしかないというのは、不遜極まることなのではないか。

 ちょっと、「人間の『存在の倫理』」に関し、辛口なコメントになった。もう少し、この「倫理」という観点については考える余地がありそうだ。
 アメリカは自由を犠牲にしても、人権を多少は犠牲にしても国内のテロ監視活動を強めることに賛同だという世論が高まっているという。
 何か不穏な感がしないでもない。「人間の『存在の倫理』」とテロの問題に絡めて、機会を見て、もう少し考えてみたい。


原題:「吉本隆明『超「戦争論」』雑感(6)」(03/01/12)

 今回は、表題の『超「戦争論」』を若干離れてみる。
 土曜日の夜だったか、テレビ東京で、ある新製品の紹介をやっていた。それはオルゴールで国内はもとより世界的にも有名なメーカーが売り出している商品だった。
 ちなみに、そのメーカーは、一時はオルゴールでは世界でのシェアが圧倒的だったのが、近年、中国製などの安いものが出回って、相当に落ち込んでいるという。それでも、依然としてオルゴールでは、かなりのシェアを誇っている。
 その精密機械のメーカーが売り出した新製品とは何か。実はオルゴールなのだ。
 但し、一台が数百万円もするもの。テレビでは試しにということで幾度も音を聞かせてくれた。十分にその魅力が感じられたのかどうかは分からない。でも、いわゆる楽器から出る音でも、CDなどからプレーヤーを使って流れ出る音でもない。不思議な柔らか味と深みとに溢れた、まさにオルゴールでなければ叶えられない音だとは、感じることが出来た。
 オルゴールの魅力とは何か。無粋な小生が説明するのは、オルゴールの音を汚しかねないので、専門の方に伝えてもらおう
 説明の中に、インドネシアに"ガムラン"という打楽器による音楽が出てきたり、日本における梵鐘が出てくるのが興味深い。
 オルゴールというのは、太鼓でもなく木琴でもなく、あくまで機械である。なのに、機械的ではない暖かみのある、癒しの音を奏でてくれるのである。不思議といえば、不思議だ。
 そのオルゴールをそのメーカーは売り出す。それも数百万円という価格で。いくら音に魅力があるからといって、そんな価格ではと思ったら、どうやらリースを考えているらしい。いずれにしろ、和む雰囲気を醸し出す、音の世界をどこかの会館やホテルのホールとかで聞くことが出来たら、確かに素晴らしいだろう。
 無論、従前のような単価で、誰もがオルゴールといえば思い浮かべるタイプのオルゴールも売りつづけるらしい。

 さて、こんな話題を出したのは、日本の産業の将来、ひいては大袈裟だが、世界の資本主義の将来を考えてのことだ。
 表題の書、吉本隆明『超「戦争論」下』の中に(p.266以降)、「「これ以上は要らない」というときが資本主義の行き詰まりだ」という節がある。
 その中で、時計にしても安くても正確なものは溢れている。靴だって10足もあれば十分で、それ以上は無用で、たくさんの靴を持って居たって金持ちの証明にはなっても裕福の印とはならない、云々という議論がある。
 資本主義の終焉の予感というのは、何もかの同時多発テロだけが与えるのではなく、実は、「これ以上、要らない」とか「これ以上つくってもムダだ」という分野が増えることに示されるという。
 消費が過剰になり、商品が満たされると、消費の上での満腹感が漂うということだ。必要なものは、既にあるし、あるいはいつでも買える。だったら、既にあるもので間に合わせるか、必要な時に必要なものを買えば十分。
 消費者は、消費に賢くなり、宣伝に踊らされる面もあるが、自分が選択するという意識を持っている。自分が何を本当に欲しているかを考えて消費する時代になりつつある。
 そんな時代だからこそ、メーカーは消費者が何を欲するかを見極める必要があるのだ。廉価なオルゴールのニーズもあるだろう。けれど、もしかしたら誰にも簡単には聞けない高級なオルゴールの市場もあるのではないか(あるいはメーカーが売り込むことで、そうした市場が創出されるのではないか)、ということだ。
 本書には、必ずしも触れられていないが、消費者の環境意識も厳しくなっている。買った商品が、いつかゴミに成った時、ちゃんとリサイクルできるのか、という点も大きい。あるいは商品に有害な物質が使われていないか、環境を阻害する物質を排出しないか、云々。
 車も、今、排気ガスの問題で、いよいよ燃料電池車が現実味を帯びだしている。排出されるのは水だけ(でも熱エネルギーも出るんじゃないのか?)という車しか走行できない時代が来るのだ。
 しかし、それでも消費者の意識を納得させることはできない。過日も新聞に載っていたが、実は特に新車などでは、車内に使われる塗料・塗装などから有害な物質が排出されている可能性が指摘されているのだ。ハウスダストならぬ、カーダストだ。
 車の外への有害物質退治に追われていると、気が付いたら肝心の車内にも問題があったというわけである。この問題への対応・対策は、ほとんど手付かずのようだ。そのうち、新車は半年を経てから買うようにというアドバイスが現れるかもしれない。
 特にアレルギー体質の人はそうだろう。
 いずれにしろ、消費者の要求は様々な形で高まるばかりなのだ。
 そして、その行き着く先は、要するに消費っていうのは、どんな形を取るにしろ、所詮は環境に負荷を与えるものという意識だ。それだったら、究極の環境対策っていうのは、結局のところ、消費しない、というわけにはいかないので、最小限の消費を心掛けるしかない、ということになりかねない。
 つまり、まさに「これ以上は要らない、ムダ」というわけである。この意識が徹底してしまったらな、さて、高度消費社会はどんな対策を打ち出せばいいのだろうか。当分は、アメリカや日本は飽食の社会を志向するし、中国などは一層の資本主義化・高度消費社会化を目指すのは明らかなので、こうした問題が表面化するのは、半世紀先の話だろうけれど、しかし、時間の問題であることは明らかなような気がする。

 さて、本書の同節には、更に、資本主義の終焉を予感させる問題を吉本氏は指摘している。例えば、病気の問題である。数多くの病気は、結核を初め克服されてきた。が、周知のように新しい病気が次々に登場している。エイズはもとより、特に精神の病である。
 吉本氏も指摘しているように、精神の病には、正常と異常の境目が曖昧である。まさに、ここに現代の病気の危うさがある。
 そもそも、一体、心の病とは何か、そうした心の病を持っていることは異常なのか。あるいは、多少なりとも精神の病を抱えるのは自然なことであって、その程度(社会への適応度から見た)が問題であるに過ぎないのか。
 あるいは、日本や欧米を中心に顕著な高齢化社会の問題。数多くの病気に対する治療法が課確立されたとして、では、当然予想され現に進行しつつある高齢化の問題にどう立ち向かうのか。高齢化というのは自然なことなのか。病の一種で、将来は「治療可能」なのか。老後をどう生きるべきか。あるいは、老後は不可避なのか。
 その先には、死が待っている。死をどう迎えるか。そして死は不可避なのか。医学が発達した段階では死亡するのは運が悪いからに過ぎないのか。
 ここには、古くて新しい問題が現れている。古の誰かが喝破した、生・老・病・死の問題が、誰にも不可避の形で突きつけられるのだ。ここまで来ると、資本主義とかという経済体制を越えた問題のように思われる。
 技術とか消費とかは、つまりは問題の先延ばしの方便に他ならないような気がする。とりあえずは快適な生活を望む。冬は暖房がしっかり施され、夏は冷房、そして空気が清浄化され、街は美化され、病気はたちどころに治してもらえる。
 心の病は、何か即効薬を処方してもらうか、全く新しいタイプの副作用のない覚醒剤の服用で克服する。人との接触は、軋轢のない形を心掛け、交通は快適で速くて楽しい手段をその都度に選ぶ。方々の観光地を訪れ、名物を楽しみ、美食に我を忘れる。
 そうして、人生を過ごすことは可能かのようだ。が、結局は老後が待っている。死への門出が待っている。それも、何か巧妙な安楽死で乗り切って、いつ老いたのか、いつ死んだのか分からない形でスムーズにあの世へ移行する。ってことが望ましいのだろうか。単なる問題の先延ばしに過ぎないのではないか。
 問われるのは、その人が、つまりは自分がどんな人生を生きんとするかに尽きるのだろう。
 

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