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2005/05/28

リンダ・リア著『レイチェル』

[本稿は、季語随筆の無精庵徒然草「沈黙の春」(May 23, 2005)からの転記です。]

 有名に過ぎて、なかなか読めない本があるものだ。その本や本の著者についての話、あるいは関連する話題をさんざん聞かされたり読まされたりして、もう、分かってしまったような気になる本、書き手。
 その筆頭に挙げられる本の一つが、レイチェル・カーソン著『沈黙の春』なのではなかろうか。小生には、少なくとも長らくそうだった。環境問題に関心がないわけではなく、殊更、彼女に事寄せてということでなくても、環境問題関連の本は少しは読んできた。
 当然、高校時代には既にこの本や著者の存在は既知のものとなって久しかった。久しいような気がしていた。著者が亡くなって(小生が十歳の時に亡くなられていた)僅か数年にして、『沈黙の春』は伝説の書となり、内容は少しは本を読むものなら誰でも(大袈裟とは思うが、それほどに)とっくのとうに読み終えていて当たり前の本となっていた。
 けれど、何かエキセントリックな感じを著者や著書に意味もなく抱いていて、それはまさしく環境問題を事挙げする人々への反発する斜に構えた知識人に共通する偏見に過ぎないのだが、悲しいから小生もその陥穽にはまり込んでいた。
 小生が環境問題に関心を持ったのは、他でも書いたが、我が富山についてはイタイイタイ病、新潟や熊本の水俣病、四日市公害ぜんそく問題などがまさに裁判での判決が続々と出つつある時代に思春期を迎えていたからだった。
 折りしも1970年には所謂、公害国会が世情を騒がせていた。富山にあっても、テレビや新聞で公害問題が採り上げられない日はなかったような。

 が、小生は根が単純なもので、公害や環境問題から一気に人間や自然の根源への関心に移り、ついには存在自体への疑問や、在ること自体の驚異の念に突っ走ってしまった。哲学少年になってしまったのである。
 それでも、故・田尻宗昭著の『四日市・死の海 と闘う』(1972年4月20日岩波新書刊)などは大学入学直後に出た本でもあり、大学の生協の店頭に並んだ直後に購入し読んだ記憶がある。
 が、環境というと、現実の生々しい公害問題よりも、ヤーコプ・フォン・ユクスキュル著の『生物から見た世界』(日高 敏隆, 野田 保之訳、新思索社刊)のほうがビビッドに感じられるという風だったのである(本書については、例によって松岡正剛の千夜千冊を参照)。
 今更、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』なんて、中途半端に感じられて、読む前からうんざりしてしまう、書店でたまに見かけても、今更、読めないな、という感じだった…。
 食わず嫌いってのはあるが、読まず嫌いってのも、あったのである。まさに『沈黙の春』は、沈黙の海に沈みこんで、久しく振り返ってみることもなかったのである。

『沈黙の春』については、機会を設けてセンス・オブ・ワンダーの念と絡め、改めて採り上げることにして、ここでは、以下で紹介するリンダ・リア著『レイチェル―レイチェル・カーソン『沈黙の春』の生涯』の翻訳をされた、レイチェル・カーソン日本協会理事長でもある上遠 恵子氏によりレイチェル・カーソン『沈黙の春』を紹介してもらおう:


 環境の破壊と荒廃にブレーキをかける書
   レイチェル・カーソン『沈黙の春』 上遠恵子(新潮社の「波」より):

 先週からリンダ・リア (Linda Lear)著『レイチェル―レイチェル・カーソン『沈黙の春』の生涯』(上遠 恵子訳、2002/08東京書籍刊)を読んでいる。
 レビューには、「「センス・オブ・ワンダー」のやわらかな感性と「沈黙の春」の使命感は、どう育まれ、世に実現されたのか。200人以上への調査から浮き彫りになる真実の姿。10年にわたる調査を元に生き生きと描く決定版伝記」とある。
 レイチェル(1907-1964)は、名前のわりには本人の著作は少ない。「Topaz Garden」の「レイチェル・カーソン」を覗いても、4冊がリストアップされているだけ。しかも、そのうちの一冊、有名な「「センス・オブ・ワンダー」 上遠恵子訳 (新潮社) 」は遺稿集のようなもの。
 彼女についての本は、数知れずあるようだ。
 伝記に限っても、「レイチェル・カーソン」ジンジャー・ワズワース著、上遠恵子訳(偕成社) などがある。これは、「小学校高学年くらいを対象に書かれた本で、内容がとてもコンパクトにまとまっていて分かりやすく、あっという間に読み終えました」というもの。
 その点、本書『レイチェル』は、本文だけでも細かな活字で700頁の大部の本。
 他に伝記では、ポール・ブルックス著『レイチェル・カーソン』(上遠 恵子訳、1992/06新潮社刊)があるようだ。

 翻訳を担当されている上遠恵子さんは、「Amazon.co.jp: レビュー 本 レイチェル―レイチェル・カーソン『沈黙の春』の生涯」によると、「東京都出身。東京薬科大学卒業。大学研究室勤務。現在、レイチェル・カーソン日本協会(NPO)理事長、エッセイスト。1970年『サイレントスプリングのゆくえ』(同文書院)を共訳した際、レイチェル・カーソンの生き方に触発される。長編記録映画「センス・オブ・ワンダー」(制作=グループ現代)に朗読者として出演」とある。
 レイチェルの著作のうち、「「海辺~生命のふるさと」 上遠恵子訳(平凡社) 」、「「潮風の下で」 上遠恵子訳(宝島社文庫) 」「「センス・オブ・ワンダー」 上遠恵子訳 (新潮社)」などを訳されている。
 そんな彼女だからこそ、『レイチェル―レイチェル・カーソン『沈黙の春』の生涯』の翻訳者ともなったのだろう。

 ところで、「潮風の下で」は、「海洋生物学者であるカーソンさんのデビュー作で、海に暮らす生き物の姿を綴った物語」なのだが、専門家筋の評判はかなりのものだったのだが、売れ行きは悲惨なものだったという。ついには売れ残った本をレイチェル自身が買い取り、プレゼントなどに使ったとか。彼女に著作家としての道を断念させた。雑誌などのライターが現実的なのだとレイチェルに認識させたという苦いエピソードのある本でもある。
 
 ところで、小生は先週前半、車中で黒田 玲子著『科学を育む』(中公新書刊)を読んでいた。
 これは、レビューによると、「人類の歴史の上で、二〇世紀ほど科学が急速に発達し、その多様な成果が私たちの生活に浸透した時代はなかった。今日、私たちはさまざまなその恩恵に浴しているが、一方で、過去数十年の科学技術の進歩はあまりにも早く、人間社会との間にさまざまな軋轢を生じてきてもいる。本書は、科学を、その特質と育む土壌、社会との関わりなど多様な角度から論じながら、二一世紀の科学のゆくえを考察するものである」というもの。
 本書の中で、様々な問題提起をされている中、細分化されブラックボックス化された科学技術という現代にあって、しかも、たとえば、医療現場でも治療方針の判断と決定が自己責任の形で本人に求められていくなどの厳しい現実がある中、「幅広い分野で求められる科学研究の経験者――科学のインタープリター」が必要だと、強調されている。
 科学のインタープリターとは、「専門用語の単なる直訳者ではなく、問題を指摘し、進むべき方向を示唆する、科学と実生活の橋渡しをする解説・評論者である」という。インタープリターには科学者がふだん忘れがちな社会への波及効果、倫理的問題、他の科学技術や学問分野との連繋の可能性なども鋭く指摘してほしい」し、「一般の人の科学に対する素朴な疑問の中からインタープリターが斬新な考えを吸い上げ、科学者に伝えることで、科学者が思いもよらぬ発想転換のヒントを得られるかもしれない」という。
「科学のインタープリターには、研究現場の経験のある人の活躍が期待される。研究とはどんなものか、ひとつの成果を出すのに、どれだけの努力や試行錯誤、失敗があるか、実験誤差とはどんなものか、結論として白黒をいいきれないことがあることなどを、経験したうえで、咀嚼して市民に伝えていただきたい」とも、黒田氏は書いている。
 レイチェル・カーソンは、まさに、その一人ではないか。しかも、その範となった人ではないか。

 レイチェルは、感性豊かな人で、早くから物語に親しみ、自然に親しみ、しかも、自然を観察するという形で自然への愛情を示す人だった。文才は早くから周囲に認められ、いずれは文学の道にと期待されていた…本人もそのつもりだった。が、次第に生き物に接すること、観察し分析し資料を集め読み込み、持ち前の感性と表現力で論文に仕立てる方が性分に合っていることに気づく。文学表現より、生物学者としての科学的観察や分析の道を我が道として選んだのである。
 時代は彼女にとって微妙だった。男性があらゆる社会で専横している中にあって、学問の世界も同じだったが、それでも、徐々に女性に進出が目立ち始めてもいた。経済的な困窮を奨学金やアルバイトで補って、理解者も少しは得られ、それなりに研究者として自立しえるかに見えたときもあったが、やはり女性という事で偏見と闘う必要があった。成功しつつあるかのような時期もあったが、ちょうどそんな時、1929年の世界大不況の嵐に見舞われて、就職口も研究者としての働き口も閉ざされてしまったりもした。

 彼女が研究者として成功への道を塞がれた理由の一つにパールハーバーがある。つまり、日本軍による真珠湾攻撃である。太平洋戦争が始まったのだ。
 となると、生物研究のような、平時ならともかく、戦時には悠長すぎる研究(機関、部署)は次第に研究所(部署)の閉鎖や立ち退き、縮小を迫られる。戦争そのものは数年で終わったけれど、戦争が終わったら終わったで、戦地から帰国する兵士たちの就職が男社会にあっては優先され、研究者であっても、やはり道は狭く険しかったのである。
 それでも、彼女は次第に文才を発揮する。方々の政府の研究機関などで広報的な文章を書く機会に恵まれるのである。それは、多くの科学者が味気ない論文を書く中にあって、彼女には多くの人に感銘を与えられるような表現力豊かな文章を書ける才能が発揮されたからである。
 文学プロパーではなく、まさに研究者として専門家でなければ得られない情報・論文を収拾し読み込み分析し、現地での観察や研究者への直接の問い合わせなども試み、詩情豊かでありつつ科学的裏づけはキッチリ取れている文章を彼女は書くようになった。そんな文章を書くことを周囲は期待するようになったのである。
 ある意味、回り道をしたけれど、彼女なりの文学の世界が科学的観察という武器を研ぎ澄まされた形で花開いたというわけである。
 そうして彼女は、専門家でなければ警鐘を鳴らしえない問題に直面していく。それが環境問題であり、DDTの問題なのだった。一番の問題は彼女には放射能の問題だったようだ。

 さてしかし、ある意味、彼女の中の一番、肝心な点には触れていない。彼女ならではの感覚、センスという言い方しかできないもの、それが、「センス・オブ・ワンダー」なのであり、それこそが彼女を彼女たらしめているのだ。
 この点については、機会があったら触れてみたい。
 とりあえずは、「レイチェル・カーソン」の中の「「センス・オブ・ワンダー」 上遠恵子訳 (新潮社) 」の項の中から、「ふと見上げた空の色、庭の草木、土の中の生き物・・・そういった身近な自然の営みや美しさを不思議と感じ、目をみはる感性の大切さをこの本は教えてくれます。世界には本当にワクワクする不思議がいっぱい・・・。そして自然に対する畏敬の念を、いつまでも失わないでいたい・・・・と、強く思います」という点を引用するに留めておく。

 尚、レイチェルについては、レイチェル・カーソン日本協会なるサイトの他に、「POP MUSIC」の中の、「素晴らしき探求者たち」という項にある「世界を変えた海を愛する詩人 レイチェル・カーソン」という頁がとても参考になる。
 さすがに700頁の本は、いくら興味深いとはいえ、ちょっと手が出ないという方は、せめて上掲のサイトの頁だけは覗いてみて欲しい。

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コメント

わたしもこの本についてブログ書きました。
なんだかうれしいです。

投稿: ナナ | 2008/12/17 19:58

ナナさん

古い日記へのコメント、ありがとう!
旧稿を改めて読む機会って、なかなか作れないだけに、こうして読み返すことも出来て、嬉しいものです。

>わたしもこの本についてブログ書きました。

どんな記事なんだろう、読んでみたいな。


このリンダ・リア著『レイチェル』は、評伝としての出来はもとより、一つの本として、読みやすく、人間ドラマをじっくり読ませてくれました。
本文にも書きましたが、本書の中にレイチェル・カーソンの著作などからの引用が多く、ある意味(誤解を怖れつつ書くけど)、レイチェル・カーソンの本を読むより、レイチェル・カーソンを理解できるかなって思ったほどです。


投稿: やいっち | 2008/12/18 09:54

すみません。まちがえました。この本じゃなくて、サマセット・モームの「雨」でした。この本は読んでみたいです。ナナ’ログのサイドバーにあるカテゴリの<BOOKS>をクリックしてみてください。この記事が見つかるはずです。

投稿: ナナ | 2008/12/18 22:13

ナナさん

サマセット・モームも好きな作家です。「人間の絆」は、わざわざ原書で読んだほど。

ところで、ラグタイムを時々弾くって、演奏するんですね。
凄いなー!

投稿: やいっち | 2008/12/19 03:19

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