福永/五木『混沌からの出発』
五木寛之/福永光司著の『混沌からの出発』(中公文庫刊)を紹介する。 この文庫本が出たのが99年で、その前に単行本として到知出版社より97年にでているようである。
最初に読んでから既に4年近くなる。車中での休憩時に読もうと買ったものだ。二度目に読んだのは2年前だっただろうか。
扱う題材は道教で、常識人たる小生が理解するなど論外の世界なのだが、案内者が五木寛之氏と福永光司氏なので、彼等に導かれるまま、ぶらりと旅にでも出たつもりで気軽に読んでみた。
読みやすい。分かりやすい。でも、きっととてつもなく奥深い世界だと感じられる。ちょうど、透明度の高い湖を覗き込むと、湖の底がすぐそこにあり、手を差し出せば届くかのような、そんな気になってしまうのだが、いざ、手を突っ込むと、底どころか湖の波打ち際をウロウロしているだけに終わる、そんなふうな世界なのだろうと感じる。
飛び込むには覚悟がいるのである。
本書の内容を、文庫本の裏表紙の宣伝文句でとりあえず紹介してみよう:
未来が見えなくなった日本人を蘇らせるもの、それは混沌のエネルギーだ―。生命なき秩序ではなく生命ある無秩序を愛し、ひたすら生きて「いのち」を保つことを欲する道教。そのおおらかな肯定の人間学が、現代人を救う。熱いメッセージを送り続ける作家がいま"面授"で得る東洋の知恵。文庫版のために新たに三篇を付す。
(転記終わり)
目次を見ると:
第1章 漂流する現代日本人の心
第2章 アジアの混沌を象徴する道教思想
第3章 日本史の深層に秘められたタブー
第4章 道、無為自然、絶対無の世界
第5章 混沌の思想が日本を再生させる
あとがき 東洋文化の神髄は混沌にある
日本の文化に道教がいかに深く影響し、また浸透しているか、想像を超えるものがあるようだ。卑弥呼にしてからが、道教に深く影響されていたと考えられているし、我々に今も馴染み深い七夕にしても、道教文化の要素が見られる。
七夕の話の背景に北極星の存在がある。北斗七星の中心となっている星である。中国では古来より北極星を中心に宇宙が動いていると考えられてきた。それは紀元前より天文観測の発達していた中国ならではの宇宙観だろう。
その北極星を神格化したものが、「天皇大帝」であり、「天皇」が日本に導入されたわけである。日本における「天皇」の概念には、道教の要素がそのままに近い形で生きているという。この説は今ではかなり知られているのではないか。
日本に古来、星信仰や星を愛でる文化があったのかどうかは分からない。ただ、今に至るも影響を持つ星信仰は、中国由来のものだと福永氏は述べる。
海を航海するのに星の位置を知る必要がある、だから、大陸や朝鮮と往来してきた日本への渡来人も星への関心は深かったはずだという意見がある(柳田国男氏など)。しかし、船の文化と関係が深そうな星信仰だが、実際は、騎馬民族が大草原を移動する際に、星の位置を手掛かりにしたというのである。つまり、馬の文化の象徴だというのだ。
『万葉集』もそうだが(柿本人麻呂など)、『古事記』にしても、道教の理解がないと本当の理解が出来ないと福永氏は書いている。
小生の大好きな言葉が『古事記』の冒頭にある。方々で幾度も紹介してきたが、改めて引用すると、
国稚(わか)くして浮かべる脂(あぶら)の如くして、くらげなすただよえる時
この描写は、道教の錬金術の経典『周易参同契(しゅうえきさんどうけい)』にある表現とそっくりであるという。
このように、福永氏は、多くの人が日本古来の文化だと思いたい言葉や観念に道教の文化の色濃いことを指摘する。そもそも道教は(今は分からないが)マイナーな学問だったようだ。そのために福永氏は肩身の狭い思いをしたらしい(末尾に示したサイトを是非、参照願いたい)。
しかも、天皇制など、日本特有のものだと思いたい向きには耳の痛いことを指摘する福永氏は、なおさら日陰の身になるばかりだったのだろう。中国の哲学者からは、「道教なんて思想でも哲学でもない、学問の研究対象にならない民間の迷信だ」と批判されたともいう。
福永氏は、「少なくとも七世紀の後半、斉明・天智・天武・持統の時代の日本は道教の時代だったといえる」のではないかと考えている。
本書の中で五木氏は、浄土真宗は道教的だと語っている。
それに対し、福永氏は、「浄土真宗と広義の道教は同じもの」と断じている。
(p.241)
浄土真宗の最高経典は『仏説無量寿経』だが、それは三世紀の中ごろ中国に入ってきて、漢語に訳された。そのベースになったのが道教の言葉だと福永氏は述べる。『仏説無量寿経』の中では阿弥陀様の教えをずばり「道教」と言っていると福永氏は書いている(小生には、この主張を経典で確かめることをしていない)。
短い『仏説無量寿経』の中で、「道之自然」あるいは「自然虚無」「無為自然」というかたちで、「自然」という言葉が五十六回も出てくるのだと言う。
そもそも「浄土」という言葉自体、道教の文献である『淮南子(えなんじ)』の中に現れる「清浄国土」を縮めて「浄土」としたものであり、真宗の「真」はまさに老荘思想、道教そのものだと述べる。
道教では、「真か偽か、浄か不浄かがすべてで、正しいか間違っているか、善いか悪いかなどは二義的な問題だと言う。後者に拘るのが儒教であり、政治倫理や社会規範としては優れる。が、人間理解や哲学的思索としては、道教には敵わないと福永氏は考える。
親鸞らが妻帯や肉食などの問題に真正面からぶつかれたのも、土壌に道教があったからだと説く。汚れてもいい、泥にまみれてもいい、自分がそれを引き受けて踏み込んでいく決意、それを支えることができたのは、混沌をそのまま呑み込んでいく道教のしなやかさだ、と福永氏は語る。
さて、やっと本書の、そして道教思想の根幹である「混沌」に到った。
ただ、『荘子』に描かれる混沌(真実在)というのは、「人間の心知の分別を超え、概念的把握を絶した非合理きわまる混沌」であり、「この混沌は身をもって体験するよりほか仕方のないもの、人間の合理的思惟では捉え尽くすことのできないもの」なのである。
小生が説明に窮するのも無理からぬものと思う。
小生が昔から敬愛するノーベル賞科学者の湯川秀樹氏も、老荘思想の影響を受けていることを、自ら認めていることは有名だろう。その湯川秀樹氏が、当時、まだ日陰者の存在だった福永氏に混沌を主題に講演を依頼したこともあったのである。
なお、周知のように「西暦2001年12月20日未明、福永光司先生が亡くなった」
福永光司氏についての思いを、福岡気功の会の山部嘉彦氏が語っておられる。その一文を是非、読んでもらいたい:
「悲しき学問の孤塔」
(03/06/09)
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コメント
時々、読ませてください。
投稿: Sarigenaku | 2010/10/15 12:10
Sarigenaku さん
時々といわず、折々、読んでください。
投稿: やいっち | 2010/10/15 21:25