有島武郎著『生まれ出づる悩み』
今、小生は松本清張のマイブームで、彼の本、彼についての本を読んでいるが、彼についての大部の本を読了したので、何か次の本を探そうと近所の小さな書店に立ち寄った。けれど、めぼしい本がない。ほとんどが読んだものばかりなのだ。
仕方なく、昔、清張全集の中で読んだ古代史関連の本(「清張通史 邪馬台国」)があったので、それを一冊、選んだが、ちょっと物足りない。
けれど、一層、漫画の本や雑誌や実用書に占領されつつある書店では、小生の嗜好に合う本などあるはずもない。こういう時は古典乃至は昔読んだ本を再読するに限ると、その時は、有島武郎の「生まれ出づる悩み」が目に飛び込んできた。もう、三十年ほど前に読んだものだ。
昔、読んだ「生まれ出づる悩み」は、同じく文庫本だったが、もっと薄っぺらだったと思っていたら、小生が買った角川文庫版は、短篇集だった。
有島武郎というと、なんといっても「或る女」である。これは彼の最高の作品というにとどまらず、明治以降の文学作品の中でもトップクラスの作品だという評価が自分の中で定着している。モーパッサンの「女の一生」も良かったが、女の一生を男性作家が描いた中では、秀逸な作品なのだ。
けれど、それは見当たらなかった。「生まれ出づる悩み」は読んだことがあるはずだが、印象が薄い。もしかしたら白樺派という枠組みを踏み外すような作品ではなかったのかもしれない。
なんとなくタイトルからして、内容が予想できるようでもある。誰かのお腹の中にいる子供に仮託して、すさむ世相を嘆くような、人生を理想通り生きられないだろうと分かっているのに敢えて生まれてくるに値するのかという問いかけをするような作品だ、という思い込みが出来上がっていた。
ある意味では予想通りだった。が、違うといえば全く違う。それは作家たる語り手が、ある市井の無名の若者との出会いから始まる。絵の才能を有するし、作家もその才能を認める。作家からすると世にうずもれていくのを惜しいとは思うが、さりとて作家が自ら彼の後押しをするほどではない。
[この作品については、若者のモデルや作品の舞台も含め、簡潔なエッセイをネットで見つけたので、小生の感想文に付き合いきれない方は、どうぞ、そちらを御覧なってください。
また、モデルの木田金次郎の全貌を示す美術館もあります。 ]
それは若者にしてもそうなのである。才能を自覚しているが、苦しい生活を余儀なくされる漁師の家を犠牲にしてまで、絵の世界に飛び込むような自信はない。
彼の周りでは、誰も彼の<趣味>を理解するものなどいない。漁師という生活の厳しさを思えば、そんなのものは所詮、ただの我が侭、ただの遊びに過ぎないのだ。
ある日、作家の目の前から消え去った若者から新しい作品が届く。やはり素晴らしい。作家は、じっとしていることが出来ず、若者に会いに北の町へ出向く。久しぶりに会った若者は、見違えるほどに逞しく成長している。漁師の生活を送る中で、筋骨逞しい男になっていたのだ。
しかし、若者は依然として絵への情熱を失ってはいない。
作家は、若者から届けられた絵を基に、作家としての空想を織り上げる。冬の漁の厳しさ、冬の嵐の中での漁で遭難しかけたこともあったに違いない、絵を描きたいと思うけれど、生活が傾く中では、それも侭ならず、年の大半を漁や生活を守ることに費やし、どうしようもない嵐などで漁に出られないとき、わずかに絵を描くことで自分を慰める。絵の具は誰かに譲って、若者は持っていない。新たに絵の具を手に入れるなど論外である。淡彩の絵を描くのがやっとなのである。
そんな若者は、やがてついに自殺を思う。絵を描きたい、絵に生きたいという願いは叶いそうにない、けれど、夢を捨てることもできない、その苦しみの故に、自殺以外に道はないところにまで追い詰められるのだ……。
この若者の自殺ギリギリの場面までの一切が、作家の空想なのである。若者と出会い、彼から絵を見せてもらったという事実以外は。
さて、小説の中の作家は、ほぼ有島武郎である。彼は裕福な家庭に育つ。白樺派は概して恵まれた家庭環境にあるという印象がある。が、内省的で人生探求的な傾向を持つ彼らは、恵まれない人々に同情はするが、結局のところ、視線をどれほど低くしたところで、それは空想の中で平民と同レベルにあると思っているだけで、つまりは思っていたいように思っているだけなのである。空想的なのだ。同情的なのだ。同情は、所詮は、高みから垂れる恵みであり、自分は綺麗で安全な場所にしっかりと足場を踏み固めていて、そうして溺れつつあるある人に、着
物の袂を掻き揚げて、日焼けのしていない罅割れや皸には無縁の華奢な手を差し出して、助け上げようとする、そんな振りをする。自分では助けているつもりになっている。
自分では溝の中に飛び込んでいるつもりになっている。財産だって投げ打っているほどに同情しているつもりでいる。
それでも、視線の高さはどうしようもない。作家の空想的人道主義の限界をどうしても脱皮などできないのである。
しかし、この白樺派は、確かに明治などの世では空想的だったかもしれないが、現代に置き換えてみると、評価は変わってくる可能性はあるかもしれない。
なぜなら、現代においては(特に若い世代を中心に)裕福な生活が当たり前の中で育っているからだ。つまりは、現代(の日本)では、誰もが空想的人道主義の宿命を背負っているからだ。安全圏に留まったまま、イラクが不幸だ、アフリカが不幸だ、恵まれない人々に愛の手を差し出さねばならない、環境問題が深刻だ、云々と、それでも真面目に真剣に憂えている。
現実に悲惨な状況にある人に対する我々現代の日本人は、明治の文学世界では、差別されている人々や搾取に苦しむ人々、政治の犠牲になっている人々が実際にいた、そうした人々に接して苦悩した白樺派の人々の位置にある、そのように連想することが可能と思われるのである。
不況が深刻で、不良債権処理も進まない、構造改革など手が付いたかどうかさえ分からないが、その実、危機感のない現代の(特に若者を中心とする)恵まれた人々は、悲惨な現実、危機にある現実、まさに沈み行くギリギリの人々に対し、空想的同情、空想的人道主義の念で立ち向かうしかないのではないか。
阿部和重の作品をめぐる感想文を書いた中で、若者と物語性とは切っても切れない関係にあると書いたが、それは生まれながらに物語や童話やファミコンやコンピューターゲームやアニメ漬けの中で空想を育み、あるいは空想の中で傷つくことを恐れる自己を育んでしまった若者の宿命なのだとも書いた。
世界の中に物語の欠片もない、丸裸の自分が置き去りにされているなど、想像だにできない。どんな悲惨な状況にあっても、白馬に乗った王子様か王女様か、優れた知恵の持ち主が登場して助けてくれるに違いないという思い込みが骨の髄まで浸透している。それは豊かさの恵みそのものなのだが、そうした白樺派的空想的人道主義と物語り主義の現代日本人が、世界の中でどう生きるかはなかなかに難しい。遅かれ早かれ白樺派が迎えた限界と同じような壁にぶつかるに違いないと思う。
しかし、ぬるま湯に育った我々(少なくとも小生)には、その繭に包まれた発想から出発するしか他に道はないのかもしれない。となると、早晩、訪れるに違いない限界にぶち当たるまでは白樺派的能天気主義でやっていくしかないのだろう。やれやれ、である。
さて、ここまで来て、実は皮肉なことに気が付く。作家、有島武郎はモデルである若者の郷里での苦難の生活をあれこれ想像する。やがて画業と生活の板ばさみの挙げ句、自殺さえも思ってしまう若者として描いている。
が、しかし、実際に自殺を遂げるのは、作家のほうなのである。
モデルの若者は、木田金次郎美術館のコピーにもあるように、「北海道、岩内の自然と共に生きた画家」であり、付け足すなら、岩内の自然と共に死んだ画家でもあるのだ。画業を全うしたのである。
一方、有島武郎は早々と芸術的行き詰まりを覚え、若き女性・波多野秋子と45歳で情死して果てる。当時、新聞は「情死作家第一号」などとセンセーショナルに報道したという。
つまり、芸術(絵画)に生きるには厳しい環境にある若者に同情しているように見えて、実は、若者の情熱に圧倒され、若者の生き方を愛惜し、ことによったら、若者から芸術へのエネルギーを吸収しようとしたとも理解できなくもない作品なのである。
例によって、「青空」にて有島武郎の作品を読むことが出来る。
(03/05/14)
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