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2005/05/01

吉本隆明『超「戦争論」』

原題:「吉本隆明『超「戦争論」 上』雑感(序)」(02/11/03)

 表題の本は、『私の「戦争論」』(ぶんか社刊、今年ちくま文庫に入っている)や『超「20世紀論」 上・下』(アスキー刊)に続く田近伸和氏によるインタビューを纏めたものである。
 内容的には、『私の「戦争論」』に続くもので、昨年の9・11テロの発生を契機に、再度、田近氏が吉本隆明の考えを伺ったものである。
 「戦争論」というと、多少は学識のある方ならクラウゼヴィッツの著書『戦争論』を即座に思い浮かべることだろう。
 しかし、本書は全く違う。
 相手は、小林よしのりの『戦争論』であり、福田和也であり、石原慎太郎である。つまり、一部の一般大衆やマスコミ受けしている連中を相手に、吉本隆明が大真面目に批判の矢を射ているのだ。
 吉本隆明氏は、今の若い人には今一つピンと来ないものがあるかもしれないが、現代日本には数少ない貴重な思想家であり、評論家であり詩人である。
 その彼が、ちょっと相手にとって不足のある連中を相手に真剣に語っている。インタビューされる田近氏の力量と関心もあるのだろうが、吉本隆明が語るに相応しい論題が他にあるのではと思ったりして、若干古い世代に属する小生は感無量である。
 念のため、吉本隆明氏の年譜などを。

 垣間見るだけでも分かるだろうが、吉本隆明の人生は論争の歴史そのものである。論争や交流の相手は、花田清輝であり、平野謙であり、磯田光一であり、埴谷雄高であり、谷川雁であり…、と錚錚たる名前が蜿蜒と続く。
 これは小生の下衆の勘ぐりなのだろうが、吉本隆明氏は、夏に長年の恒例で家族全員で赴く伊豆半島西岸の温泉地(土肥温泉)で溺れ意識不明となる事故を起こして以来、幾分の心境の変化があったのではなかろうか。
 後遺症に苦しめられたりして、事故の二年後、『遺書』(角川春樹事務所)を上梓したりもしている。
 吉本隆明は、もともと単に大思想のみを扱う思想家・評論家ではない。ポルノを論じれば、テレビの芸能番組も好んで視聴し語ったりもする。
 が、例の事故のあと、更に視点を低くして、ややもすると晦渋とも思えた文章も、小生のような学識のない人間にも近づけるようになっている。語る対象を選ばず、平易に語るその語り口は、誰にも分かるを従前以上に心掛けているように感じる…のだが。
 さて、前振りはこれだけにして、いよいよ本題に入ろう。

原題:「吉本隆明『超「戦争論」』雑感(1)」(02/11/09)


 (序)では『超「戦争論」上』としていたが、上・下巻ともに読了したので、今後は表題では『超「戦争論」』とさせていただく。その上で、必要に応じて、上・下巻の別を示すつもりである。
 今回から(1)ということで内容に多少は踏み込むつもりなのだが、その前に総括的な感想というか印象を述べてみたい。
 前回、「相手は、小林よしのりの『戦争論』であり、福田和也であり、石原慎太郎である。つまり、一部の一般大衆やマスコミ受けしている連中を相手に、吉本隆明が大真面目に批判の矢を射ているのだ」と述べた。
 特に下巻に入って作家の曽野綾子、『文明の衝突』のハンチントン、立花隆、文明史家のトインビー、デリダらが、その発言も田近氏が提示し、それに吉本氏が答える形ではあるが登場している。
 無論、ヘーゲルやマルクス、レーニンなどへの言及が及ぶのは云うまでもない。
 とはいっても、それぞれの思想家や作家、評論家への踏み込んだ論及がされているとは必ずしも云えない。あくまでマスコミで話題になった事件に関わる言動について論評されているだけである。
 きっと、それぞれの思想家らに思い入れのある方には、そんなに簡単に料理されてたまるかよ、という気持ちになるだろうし、このことは、当然、吉本氏へも妥当する。
 例えば、昔から吉本氏の著作に親しんでいたり、もっときっちりした形で踏み込むことを望む向きには喰い足りない思いのすること一方(ひとかた)ではないだろう。
 では、一体、田近氏のスタンスや戦略は何処にあるのか。 
 敢えて田近氏に沿う形で好意的に捉えるなら、彼はジャーナリストとして一般大衆を常に意識している。彼なりに吉本氏の思想世界に直截に踏み込みたい欲求はあるのだろうが、それを抑えて、小林よしのりや福田和也や石原慎太郎や西部邁や田中康夫、山崎正和各氏らの勇ましい言動を善しとする(しかも、実際には福田氏や石原氏の書を読んでいるかどうかあやしい)連中を意識して、一連の吉本氏へのインタビュー本を編集し上梓しているのだ、と云えるのかもしれない。
 つまり、彼は現代の日本では、ついつい一見すると勇ましい、しかしどうにも短絡的と思われる話題の連中への批判を糸口として、マスコミには必ずしも表に出にくい少数派の意見を吉本氏の意見を伺う形で広範な読者層に聞いてもらいたいという考えがあるのだ、と云えるのかもしれない。
 その先には、できるならば、吉本氏に関心を持たれ、単に吉本ばななの父親ではなく、思想家・評論家・詩人たる吉本氏の著作に直接、本書などを契機に親炙されることを狙っているのだ、と。
 その徴候らしきものは、特に下巻を読んでいて感じるものがあった。同時多発テロを、そしてテロや戦争を心底から考える上でもマスコミで通例目に触れられるようなレベルの議論では到底済まないのだと段々と読者を誘っていく気味が感じられるのである。
 その糸口は親鸞にある。
 吉本氏が従来よりマルクスやヘーゲルやレーニンらと共に親鸞を評価してきたことは知られている。
 近年、吉本氏の親鸞への傾倒ぶりは、並並ならぬものがある。
 82年の『親鸞 思想読本』や84年の『親鸞 不知火よりのことづて』から、95年の『親鸞復興』、99年の『決定版・親鸞』(本書には、『最後の親鸞』「『最後の親鸞』以後」などが含まれる)など、親鸞関連の著作を列挙するだけでもは彼の思想上の根幹にあると推察しても間違いではなかろうと思われる。
 本書、『超「戦争論」』(特に下巻)でも随所で親鸞への言及が見られる。
 例えば、以下のようだ:

「仏教についていうと、僕が好きな親鸞というのは、仏教の破壊者なんです。親鸞は、善悪の問題を深く追求して、仏教という宗教を、倫理と変わらないくらいにまで思想的に解体しちゃった(途中略)親鸞が唱えた浄土真宗というのは、仏教では一番新しい、一番発展した段階にある」(p.172)
「親鸞がやったことは一種の思想運動です。親鸞は、キリスト教において新教のプロテスタンティズムがやった以上の宗教の解体を、仏教でやっちゃったわけです」(p.172)
 実は、この親鸞理解と評価は、本書の一番の焦点である吉本氏の同時多発テロへの理解の上で非常に重要な背景となっているのだ。


原題:「吉本隆明『超「戦争論」』雑感(2)」( 02/11/13)

 本書、『超「戦争論」』の上巻の冒頭から、小生には理解しがたい主張を吉本隆明氏はされている。
 なかなか理解できないで困るという当惑した印象は、インタビューアーの田近伸和氏も持っておられるように推察する。
 吉本氏は、911の世界同時多発テロで、ニューヨークの世界貿易センタービル(以下、世貿ビルと略記する)に旅客機が突っ込む映像を見て、即座に思ったことは、「あれは特攻だ」という思いだったという。
 つまり、「太平洋戦争のとき、日本の神風特別攻撃隊がアメリカの軍艦に突っ込んでいきましたが、あの特攻と同じだな」と思ったというのだ。
 そこまでは同じ感懐を持たれた方もいるかもしれない。
 が、本書冒頭において吉本氏は、同時にすぐに、日本のやった特攻とは違うとも思ったという。
 どこが違うのか。
 それは、「日本の特攻隊だったら、旅客機の乗客たちを降ろして、それから突っ込むだろうと思う」というのである。
 日本の特攻の場合は、そんな倫理観ないし、筋道を付けてから突っ込むだろうと思ったというのである。
 実は、この点に小生は(そして恐らくは田近氏も)引っ掛かってしまったのだ。
 正直言って小生には、日本の特攻にそんな倫理観があったとは到底、思えない。儒教的というか仏教的というか神道的というのか、捉え方は何にしろ(吉本氏もこれらを挙げつつも必ずしも明確な認識を持っているとはいえないようだ)、そんな常識など持っていたとは全く思えない。
 戦争末期の日本(軍当局など)は、盲目的なまでに倫理も道徳も抹殺した極めて狭苦しい、風通しの全くないような切羽詰った状況の中で特攻を行った。
 そもそも、その特攻という行為の何処に倫理や道徳の要素があるだろうか。
 あるとしたら、天皇崇拝を利用した形での軍当局の失敗を決して認めない無責任さであり(軍当局らが無責任だったことは、戦後も敗戦の責任を認めていないことに如実に現れている)、また、こうした無謀さを可能ならしめる、保守・右翼思想の偏頗さである。
 人の命の軽視であり、八百万の神々、自然万物全てに命が宿り神の似姿ないしは化身と考える縄文時代以来の自然観を封殺した、神道とは名ばかりの国家神道の、そして狂信的な国家主義・民族主義の狭隘さであろう。
 もし仮に、乗客を降ろすという倫理や道徳の欠片が少しでもあれば、究極の乗客である特攻兵だって降ろすようギリギリの算段を図ったに違いないのだ。そんな工夫を凝らしたという証拠が少しでもあっただろうか。
 
 さて、吉本氏は続ける。「今回のテロ事件でテロリストたちが、もし旅客機の乗客たちを降ろしていたなら、たとえ目的を達することができずに失敗したとしても、(略)世界からのシンパシィはもっと集まったはずである(略)、世界の世論は彼らにとって今よりもっとよくなったはずである」ことは「僕には明白のことのように思えました」と語るのだ。
 なるほど、「失敗したっていいから、無関係な乗客たちだけは降ろして、それから実行する」ほうが「真っ当なやり方」だし、「世界の人々にシンパシィや親近感を抱かせる上で効果的なやり方」だろうとは、いかにも日本人的微温さがあって分からなくもない。
 しかし、繰り返すけれど、だからといって日本の特攻だったら乗客を降ろした上で突っ込んだだろうというのは、吉本氏の自らが戦争中軍国主義少年だったこと、そして日本の特攻兵に少しは同情を買いたい(自身が彼らに同情を持っておられるのは確かだし、勝手だけど)という気持ちが、このような強弁を吉本氏になさしめていると小生は考える。
 つまり、何処かに日本の特攻と、今回のテロとは違うよ、と言いたい気持ちがあるのだろう。
 
 インタビューアーは小生とは違った意味で理解が行かないということで、このことでは相当にしつこく質問しただろうと思われる。
 国防総省(ペンタゴン)は軍事施設だからテロリストが狙ったのは分かるが、世貿ビルを狙ったのは何故かと、田近氏は吉本氏に問うている。
 吉本氏は答える。世貿ビルは金融機関の中心施設だからだと。世貿ビルは貧乏人にとっては、軍事施設以上の象徴的な意味があるのだ、と。
 しかし、世貿ビルは民間施設なのではないかと田近氏は問う。民間人が巻き添えになったのではないか、旅客機の乗客たちと同様、一般民間人なのではないか、と。
 この問いに対する吉本氏の答えは、やや苦しい。戦争状態になった時、非戦闘員であっても、巻き添えになることがある。世貿ビルの犠牲はは、そうしたケースに当たる。
 が、旅客機の乗客たちは、テロリストの意図にとっては全く無関係である(非戦闘員でさえないということ?)、そして、小生には苦し紛れに思えてならないのだが、吉本氏は、ついには、旅客機の乗客を巻き添えにするのは(世貿ビルの中で働く民間人を巻き添えにするのとは違って)「人間の『存在の倫理』」に反することなのだと主張するに至るのだ。

 これは小生の感懐だが、世貿ビルで働く民間人は、民間人であるにも関わらず金融拠点というテロのターゲットたりうる場所で働いていたから、狙われうる、しかし、旅客機の乗客は、全くテロとはそもそも無関係だった、だから世貿ビルに突っ込む前に降ろすべきだったという理屈は、どうしても釈然としない。 
 小生の理解では、確かに世貿ビルは世界の金融の拠点だが、旅客機だって、世界の金融の担い手の足であり、あるいは裕福なる人々の足であり、つまりは貧乏人の羨望ないしは嫉視の対象ではないか。
 捻くれた見方をすれば、貧乏人の上前(うわまえ)を掠め取って成功したからこそ、これからも掠め取っていくからこそ、旅客機の中で優越感に浸り地上世界を睥睨しつつ世界を飛びまわれるのだ、とも理解しうる。
 旅客機、特にアメリカ上空を飛ぶ旅客機は世貿ビルと同等にテロの恰好の対象として、「立派な資格」を有することになるわけである。
 世貿ビルの中の民間人と旅客機の乗員・乗客と、一体、何処が違うだろう。
 
 この、素朴な疑問にうまく答えられないからこそ、吉本氏は、高邁なる)「人間の『存在の倫理』」を持ち出さざるを得なかったのだと、愚昧なる小生は理解する。

 さて、次回は、このやや厄介な「人間の『存在の倫理』」について触れる番だ。ちょっと難物だ。いかに扱うか難しい。溜め息。
 では、また。


原題:「吉本隆明『超「戦争論」』雑感(3)」( 02/11/28)

 吉本氏が「人間の『存在の倫理』」を持ち出す際、小生は、特攻兵が突っ込む際には、乗客を降ろすに違いないなどと言うのは、吉本氏に日本の特攻兵への同情心が背景にあるからではないかと書いた。
 戦時下において、もし自分がそういう役回りになっていたら、特攻兵になり命令に従っていたかもと吉本氏も語っておられる。
 実は、この辺りで、若干の御批判を戴いた。
 小生は、以下のように書いた:

 戦争末期の日本(軍当局など)は、盲目的なまでに倫理も道徳も抹殺した極めて狭苦しい、風通しの全くないような切羽詰った状況の中で特攻を行った。
 そもそも、その特攻という行為の何処に倫理や道徳の要素があるだろうか。
 あるとしたら、天皇崇拝を利用した形での軍当局の失敗を決して認めない無責任さであり(軍当局らが無責任だったことは、戦後も敗戦の責任を認めていないことに如実に現れている)、また、こうした無謀さを可能ならしめる、保守・右翼思想の偏頗さである。
 人の命の軽視であり、八百万の神々、自然万物全てに命が宿り神の似姿ないしは化身と考える縄文時代以来の自然観を封殺した、神道とは名ばかりの国家神道の、そして狂信的な国家主義・民族主義の狭隘さであろう。
 もし仮に、乗客を降ろすという倫理や道徳の欠片が少しでもあれば、究極の乗客である特攻兵だって降ろすようギリギリの算段を図ったに違いないのだ。そんな工夫を凝らしたという証拠が少しでもあっただろうか。
(前回よりの引用)

 ご批判の要旨は、小生の誤解でなければ、小生は戦前・戦中の軍国主義下の蒙昧な当局の姿勢や風潮に力点を置き過ぎている。
 もっと、自ら志願して特攻兵となった当人の心情を汲み取るべきではないか。軍国主義の間違いを指摘するのはいいのだけれど、それはそれとして、どういう環境下にあったにしろ、志願兵の心情には重いものがあり、吉本氏はその思いに心を寄せ、共感・同情をしているのだと。
 確かに、小生は志願兵の心情に必ずしも十分に思いを至らせていなかった気味がないではない。
 ただ、では、小生などが安易に特攻兵を志願する者たちの心情を代弁するようなことを語れるはずもない。
 また、十歩譲って、多少は内面に与する言葉なり手記なりを持ち出して小生なりに共感の余地を探したところで、さて、では特攻兵たちが旅客機を乗っ取って、その旅客機で何処かのターゲットに突っ込む際、乗客を降ろしたかというと、まさにその点こそが疑問なのである。
 恐らくは彼らの心情はともかく、命令に従って乗員・乗客を乗せたまま突っ込んだのではないのか。当局の連中に、乗客等の事情などに構う発想などありえただろうか。
 また、特攻兵は、乗員・乗客を降ろさないと突っ込みません、などと主張しただろうか。上官の命令だから反論などしなかっただろうし、そもそもどんなに異常な命令でも国のためと従ったのではないか。
 何が一番、異常かというと、兵の命を粗末にする発想である。特攻兵自身が自分の命を犠牲にすることを善しとしている。他人の命に思いを寄せるゆとりなどなかったのに違いない。
 
 さて、まさにここからが問題なのだろう。
 つまり、小生が思うには、「人間の『存在の倫理』」に反するのは、乗員・乗客を降ろさないままに世貿ビルなどに突っ込んだことにあるのではなく、むしろ、そもそも兵の命を粗末にする国家主義者・軍国主義者の発想であり、また、そのギリギリの状況下にあって、国のため、愛する人のためと己の命を捨てることを善しと決断しなければならなかった、その当人達の心情の不条理さにこそあるのではないか。
 敗色濃厚となった頃、特攻兵が敵の軍艦などに戦闘機などに乗って飛び込んで戦死することを、「散華」と称した。
「散華」とは、もともと仏教用語であり、仏に供養のために花を散布すること、ないしは、散華の際に歌唱する声明を指す言葉である。
 それが、戦時下において意図的に捻じ曲げられて華と散ると解され、戦死を美化した形で呼称するに際して使われるようになったものだ。
 人を使嗾して、無茶な戦死をさせ、それを散華などと表現して、さも、特攻兵の心中を慮ったような振りをする。その愚かしさと欺瞞。「英霊」という呼称も美名であり、全くの偽善だと考える。犠牲になられた方々の命を本当に大切に思うなら、間違いは繰り返さないよう、美名の下に現実を覆い隠さないようにすべきだと思う。
 そうでないと、将来、同じ過ちを繰り返してしまうではないか。過ちを繰り返さないようすにするのが、犠牲になられた方々への最高の報いとなるのではなかろうか。

 だが、不条理はその欺瞞にあるのではない。それはただの愚劣さだ。
 そうではなく、突っ込まされた当人の心中におけるドラマだ。自らを無理矢理にも言い聞かせなければならなかったそのギリギリの倫理的煩悶にあるのだ。
 特攻兵でなくても、人間が存在し、人間の宗教的・民族的その他に由来する集団(国家)がある限り、そこに経済的利害関係などが錯綜して、戦争に至る。それは今までも避けられなかったし、今後も当分は(アメリカは新しい戦争と称して、これからも長々とテロ活動を続ける覚悟らしい)戦争は続く。地域的な紛争の形では、世界各地で戦いが頻発している。
 その諍いの狭間にあっては、誰かが武器を持って闘う。それなりの事情はある。
 だが、事情や理由や経緯は何であれ、人が人と殺しあう悲惨さと不条理は、厳然としてあったし、あるし、あり続けるのだ。
 つまり、繰り返しになるが。小生は、吉本氏が、世貿ビルに突っ込んだ連中が乗客を降ろさなかったのは「人間の『存在の倫理』」に反する、日本の特攻兵だったら降ろしていただろうという理屈には与しない。
 しかし、そもそも憎しみの連鎖、復讐の連鎖がある限り、そこに当事者としての万感の思いがあり、第三者の目には理不尽に見えても、テロ(それが「テロ」集団によるものであれ、アメリカやイスラエルのような国家が行うものであれ)は起きるし、起き続けるだろうし、その際、テロリスト(多くは十代の若者!)の自死という悲惨も生じ、巻き添えになる一般市民の死という悲惨も生じる、生じざるを得ない、まさにそこにこそ「人間の『存在の倫理』」の根幹に関わる問題があるのだと思うのである。
 その論理の果てに、「人間の『存在の倫理』」が持ち出されるなら、それなりに納得が、無理無理にでも出来ないものではないのだ。
 さて、そうした理解の上で、「人間の『存在の倫理』」に立ち向かうべき時が来た。

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