リンダ・リア著『レイチェル』
[本稿は、季語随筆の無精庵徒然草「沈黙の春」(May 23, 2005)からの転記です。]
有名に過ぎて、なかなか読めない本があるものだ。その本や本の著者についての話、あるいは関連する話題をさんざん聞かされたり読まされたりして、もう、分かってしまったような気になる本、書き手。
その筆頭に挙げられる本の一つが、レイチェル・カーソン著『沈黙の春』なのではなかろうか。小生には、少なくとも長らくそうだった。環境問題に関心がないわけではなく、殊更、彼女に事寄せてということでなくても、環境問題関連の本は少しは読んできた。
当然、高校時代には既にこの本や著者の存在は既知のものとなって久しかった。久しいような気がしていた。著者が亡くなって(小生が十歳の時に亡くなられていた)僅か数年にして、『沈黙の春』は伝説の書となり、内容は少しは本を読むものなら誰でも(大袈裟とは思うが、それほどに)とっくのとうに読み終えていて当たり前の本となっていた。
けれど、何かエキセントリックな感じを著者や著書に意味もなく抱いていて、それはまさしく環境問題を事挙げする人々への反発する斜に構えた知識人に共通する偏見に過ぎないのだが、悲しいから小生もその陥穽にはまり込んでいた。
小生が環境問題に関心を持ったのは、他でも書いたが、我が富山についてはイタイイタイ病、新潟や熊本の水俣病、四日市公害ぜんそく問題などがまさに裁判での判決が続々と出つつある時代に思春期を迎えていたからだった。
折りしも1970年には所謂、公害国会が世情を騒がせていた。富山にあっても、テレビや新聞で公害問題が採り上げられない日はなかったような。
が、小生は根が単純なもので、公害や環境問題から一気に人間や自然の根源への関心に移り、ついには存在自体への疑問や、在ること自体の驚異の念に突っ走ってしまった。哲学少年になってしまったのである。
それでも、故・田尻宗昭著の『四日市・死の海 と闘う』(1972年4月20日岩波新書刊)などは大学入学直後に出た本でもあり、大学の生協の店頭に並んだ直後に購入し読んだ記憶がある。
が、環境というと、現実の生々しい公害問題よりも、ヤーコプ・フォン・ユクスキュル著の『生物から見た世界』(日高 敏隆, 野田 保之訳、新思索社刊)のほうがビビッドに感じられるという風だったのである(本書については、例によって松岡正剛の千夜千冊を参照)。
今更、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』なんて、中途半端に感じられて、読む前からうんざりしてしまう、書店でたまに見かけても、今更、読めないな、という感じだった…。
食わず嫌いってのはあるが、読まず嫌いってのも、あったのである。まさに『沈黙の春』は、沈黙の海に沈みこんで、久しく振り返ってみることもなかったのである。
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