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2005/05/28

リンダ・リア著『レイチェル』

[本稿は、季語随筆の無精庵徒然草「沈黙の春」(May 23, 2005)からの転記です。]

 有名に過ぎて、なかなか読めない本があるものだ。その本や本の著者についての話、あるいは関連する話題をさんざん聞かされたり読まされたりして、もう、分かってしまったような気になる本、書き手。
 その筆頭に挙げられる本の一つが、レイチェル・カーソン著『沈黙の春』なのではなかろうか。小生には、少なくとも長らくそうだった。環境問題に関心がないわけではなく、殊更、彼女に事寄せてということでなくても、環境問題関連の本は少しは読んできた。
 当然、高校時代には既にこの本や著者の存在は既知のものとなって久しかった。久しいような気がしていた。著者が亡くなって(小生が十歳の時に亡くなられていた)僅か数年にして、『沈黙の春』は伝説の書となり、内容は少しは本を読むものなら誰でも(大袈裟とは思うが、それほどに)とっくのとうに読み終えていて当たり前の本となっていた。
 けれど、何かエキセントリックな感じを著者や著書に意味もなく抱いていて、それはまさしく環境問題を事挙げする人々への反発する斜に構えた知識人に共通する偏見に過ぎないのだが、悲しいから小生もその陥穽にはまり込んでいた。
 小生が環境問題に関心を持ったのは、他でも書いたが、我が富山についてはイタイイタイ病、新潟や熊本の水俣病、四日市公害ぜんそく問題などがまさに裁判での判決が続々と出つつある時代に思春期を迎えていたからだった。
 折りしも1970年には所謂、公害国会が世情を騒がせていた。富山にあっても、テレビや新聞で公害問題が採り上げられない日はなかったような。

 が、小生は根が単純なもので、公害や環境問題から一気に人間や自然の根源への関心に移り、ついには存在自体への疑問や、在ること自体の驚異の念に突っ走ってしまった。哲学少年になってしまったのである。
 それでも、故・田尻宗昭著の『四日市・死の海 と闘う』(1972年4月20日岩波新書刊)などは大学入学直後に出た本でもあり、大学の生協の店頭に並んだ直後に購入し読んだ記憶がある。
 が、環境というと、現実の生々しい公害問題よりも、ヤーコプ・フォン・ユクスキュル著の『生物から見た世界』(日高 敏隆, 野田 保之訳、新思索社刊)のほうがビビッドに感じられるという風だったのである(本書については、例によって松岡正剛の千夜千冊を参照)。
 今更、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』なんて、中途半端に感じられて、読む前からうんざりしてしまう、書店でたまに見かけても、今更、読めないな、という感じだった…。
 食わず嫌いってのはあるが、読まず嫌いってのも、あったのである。まさに『沈黙の春』は、沈黙の海に沈みこんで、久しく振り返ってみることもなかったのである。

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『日本語の起源を探る』の周辺

 今回は、河出書房新社編集部編の『日本語の起源を探る』(河出文庫刊)(の周辺)を扱う。
 本書のサブタイトルとして「美しい日本語を究める」とあるのは、愛敬だろう。一九八九年に『ことば読本――日本語の起源』として刊行されたものを再編集し、本年の五月に本書(文庫版)が出されている。
 この数年、日本語ブームで様々な日本語に関わる本が出されているので、その流れに乗るため、こうしたサブタイトルが安易に選ばれたのだろう。
 但し、本書の中身は表題に関わるものとして、データ的に今から14年前のものとして最新の論説ではないことを鑑みても、日本語の起源をどう考えられているかについて大雑把な展望を入門的な立場でするには、初学者には気軽な読本として読んでみていいと思う。

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2005/05/22

岡村直樹著『寅さん 人生の伝言』

[本稿は無精庵徒然草の「風天居士…寅さん」(May 14, 2005)からの転載です。]

 先の五月の連休中、帰省して久しぶりに家事などやっていたのだが、合間を縫って、読書にも勤しんでいた。読んでいたのは、図書館の新刊書コーナーに並んでいた(この一角には何故か映画関連の本が多い。それとも、映画関係の本が借りられることなく残っている…、ってことはないと思うが)、岡村直樹著『寅さん 人生の伝言』(生活人新書 112、日本放送出版協会)である。
 連休前、あるサイトで寅さんのことが話題になっていたこともあり、寅さんの本がこれ見よがしに並んでいるとなると、小生、借りるしかないわけである。
 まあ、寅さん(の映画やイメージなど)は、小生、身につまされるものがあり、感情移入せずに彼の映画を見ないわけには行かない。
 今、彼の映画と書いたが、山田洋次監督なのか、映画上の寅さんなのか、渥美清さんなのか、渥美清さんなのだとしても、役者としての渥美清さんなのか病気と闘いつづけた私人の渥美清さんなのか、曖昧である。が、曖昧なままに先に進む。
 ともかく、別に映画嫌いというわけではないが、映画館に足を運んで映画を見ることのめったにない、腰の重い小生を幾度となく動かすのだから、思い入れぶりが知れようというもの。最後に映画館で映画を観たのも(ポルノ映画を覗くと…馴染みのポルノ映画館が十年程前、潰れてしまった。行く場所がなくなった!)、寅さんの映画である。確か、映画が回想シーンで始まるのが寅さん映画の定番だが、その時はアンタッチャブルで、寅さんがネスか誰かの役になりきっていたような。

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福永/五木『混沌からの出発』

 五木寛之/福永光司著の『混沌からの出発』(中公文庫刊)を紹介する。 この文庫本が出たのが99年で、その前に単行本として到知出版社より97年にでているようである。
 最初に読んでから既に4年近くなる。車中での休憩時に読もうと買ったものだ。二度目に読んだのは2年前だっただろうか。
 扱う題材は道教で、常識人たる小生が理解するなど論外の世界なのだが、案内者が五木寛之氏と福永光司氏なので、彼等に導かれるまま、ぶらりと旅にでも出たつもりで気軽に読んでみた。
 読みやすい。分かりやすい。でも、きっととてつもなく奥深い世界だと感じられる。ちょうど、透明度の高い湖を覗き込むと、湖の底がすぐそこにあり、手を差し出せば届くかのような、そんな気になってしまうのだが、いざ、手を突っ込むと、底どころか湖の波打ち際をウロウロしているだけに終わる、そんなふうな世界なのだろうと感じる。
 飛び込むには覚悟がいるのである。

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2005/05/17

海部陽介著『人類がたどってきた道』(続)

 海部陽介著『人類がたどってきた道 “文化の多様化”の起源を探る』(NHKブックス No.1028)を先週末、読了した。
 本書については、読みかけの段階で、触発されるあれこれがあり、既に書評風エッセイを書いている。

 その中で、邪馬台国の所在候補地の謎と絡め、「もう一度、「日本人はるかな旅展」の新人(ホモ・サピエンス)が太平洋を北と南のルートを経て世界へ雄飛した様子を眺めほしい。」と書いている。
 南のルートについて、ポリネシアに焦点を合わせてみる。「楽園マニア」の「ポリネシア・マイクロネシア・メラネシア」なるサイトを覗いてみる。
 ポリネシアとは、「ハワイイ諸島、ニュージーランド、イースター島を結ぶ、一辺約8,000kmの巨大な三角形(ポリネシアン・トライアングル)の内側に位置する島々の総称。上記3諸島のほかに、サモア、トンガ、ウォリス、ツバル、フェニックス、トケラウ、クック、ライン、ソシエテ、オーストラル、トゥアモトゥ、マルキーズ等の各諸島が含まれる。「ポリネシア」は、元来ギリシャ語で「多くの島々」を意味する」という。
 ちなみに、「マイクロネシア」は「小さい島々」であり、「メラネシア」は「黒い島々」である。
 6~1万年前に、「オーストラリアのアボリジニやニューギニア人、そしてメラネシア人の祖先が、アジアからオセアニアへの第一歩を記した」が(彼らは「農耕は行われておらず、狩猟採集によりその日の糧を得ていた」という)、この頃は、「ポリネシアの島々は、人跡未踏で、動物は鳥とコウモリそして昆虫程度、植物も自ら流れ着いたか、動物に運ばれてきた種子が繁殖しているにすぎなかった」という。

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海部陽介著『人類がたどってきた道』

[本稿は、季語随筆日記「無精庵徒然草」の「朱夏…夏の海」(2005.05.13)より、書評エッセイ部分を抜粋したものです。若干、加筆してあります。]

 海部陽介著『人類がたどってきた道 “文化の多様化”の起源を探る』(NHKブックス No.1028)を車中でボチボチ読んでいる。発売年月日が「2005年4月23日」と、図書館で見つけた本としては、今までで一番、出版ホヤホヤの本で、それだけで小生は嬉しかったりする。
 が、人類学の分野も日進月歩というのか、新しい研究成果がドンドン生まれてきている。本書を読んでいても、執筆している最中の情報がメモとして何箇所かで言及されていた。昨夜は、「第6章 人類拡散史のミッシング・リンク――東ユーラシア」の「日本列島の重要性」「沿岸移住仮説」「大陸南方の文化」などの項を読んでいたものだが、そんな中、今朝、会社に戻って読売新聞を読んだ「現生人類、6万数千年前にアジアで急速に拡散」というニュースが結構、大きく載っているではないか。タイムリーだ!
 本書の「はじめに」にもあるが、「最近の研究が示すところでは、ホモ・サピエンスはいくつかの地域で並行的に進化したのでなく、およそ二〇万年前ごろのアフリカにいた一つの人類集団に由来するものであ」り、この「時点では、この種の分布域は限られており、地域文化の多様化はもちろん生じていなかった。やがて、おそらく五万年前ごろから、この種、つまり我々の祖先たちは、全世界へと広がりはじめた」のだった。

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2005/05/15

三浦 佑之著『古事記講義』

 三浦 佑之著『古事記講義』(文藝春秋刊)を読了した。『古事記』(の現代語訳)そのものは別として、「古事記」について解説・解明する本としては、秀逸の書だった。
Amazon.co.jp: 本 古事記講義」などに依り、本書の性格を紹介しておこうと、レビューを見ると、「ヤマタノヲロチは河、人の起源は草だった、出雲神話はなぜ語られるか、稗田阿礼は男か女か。「古事記」に語られている神話や伝承は何を意味するのか? その深みに迫る刺激的講座。『文学界』連載をまとめる」とある。なんだか、ピントが合っているようには思えない。
 確かにそういった記述が、あることはあるのだけれど。
 それより、講義内容を目次(の大見出し)で示しておいた方がいいかもしれない:

 第1回 神話はなぜ語られるか(人間の起源―人である草、ほか)
 第2回 英雄叙事詩は存在したか
 第3回 英雄たちの物語
 第4回 出雲神話と出雲世界(出雲神話とは何か、ほか)
 最終回 古事記の古層性

 さて、この先、何を書くか分からないので、「神話と昔話-三浦佑之宣伝板-」なるサイトを示しておく。
 その表紙には、「 「いま、よみがえる古事記」 第2回公演の日程が決まりました。こちらで、チケットの購入も可能です」という情報も載っている。
「語り手は、俳優の鈴木瑞穂氏」ということで、「現在、下記の予定で、三浦佑之 『口語訳 古事記 』 (文藝春秋) を語る会 第2回が企画されています」とのこと。日程は、「2005年 6月24日 (金曜日) 午後と夜の2回公演の予定」だから、今のうちなら申し込みも間に合うのかも。
「古事記を旅する」という本文は三浦 佑之(みうら すけゆき)氏で写真は大海 秀典氏(文藝春秋 写真部)という「月刊 『 文藝春秋 』 連載」の情報も載っている。

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2005/05/13

富岡 多恵子著『西鶴の感情』

[ 本稿は、季語随筆日記「無精庵徒然草」の「風薫る…西鶴…近松」(2005.05.11)から、書評風エッセイ部分を抜粋したものです。 (05/05/13 記)]

 富岡 多恵子著『西鶴の感情』(講談社刊)を読んでいたら、知る人は知っているのだろうが、興味深い本の存在を知った。
 先に進む前に、『西鶴の感情』は、どのような本なのか、若干、触れておきたいが、紙面の都合もあるので、下記サイトを参照願いたい:
富岡多恵子さん 5年がかりの労作「西鶴の感情」 出版トピック 本よみうり堂 Yomiuri On-Line (読売新聞)

 冒頭に、「大阪生まれの富岡さんは、上方で活躍した近松門左衛門については早くから論考を重ねてきたが、井原西鶴をまとめて読むのは20年ほど前に『好色五人女』『好色一代女』の現代語訳(集英社文庫)を手がけて以来。独白体で女の好色を描ききる『一代女』の現代性に魅せられ、「この大天才の全体像をつかみたい」との思いを温めてきたという」とあるが、富岡氏はひょうんなことから早くから井原西鶴に因縁めいたものを感じていたと本書の冒頭にある。
「井原西鶴の『好色一代男』の板下を書いた水田西吟は、「吾すむ里は津国櫻塚」と跋文に記している」のだが、富岡さんは、まさにその今となっては旧となった地名の冠せられた櫻(桜)塚高等学校に通っていたのである。
 板下を書いた水田西吟は櫻塚に縁があるのは当然として、富岡さんが調べてみると、「やはり西鶴は西吟の落月庵での万句俳諧に出座するために訪れてい」たというのである。

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2005/05/10

カール・セーガン著『百億の星と千億の生命』

[以下の一文は、季語随筆日記「無精庵徒然草」の「立夏…幻想の未来」(2005.05.06)から書評エッセイ部分を抜粋したものです。 (05/05/10 up時注記)]

 連休中、家事などの合間にカール・セーガン著『百億の星と千億の生命』(滋賀 陽子・松田 良一翻訳、新潮社)と岡村直樹著『寅さん 人生の伝言』(NHK生活人新書)を読んでいた。後者は役者としての渥美清と同時に、それ以上に映画の中の寅さんに焦点を合わせた人生読本。
 寅さんには、無理を承知の上で、まだまだ活躍して欲しかったと思っている(寅さんの本は、後日、扱うかもしれない)。
 前者も、ご存知のように、物理学者カール・セーガン(1934‐1996)は、96年にまだ研究者として活躍中、62歳でなくなられている。
 小生は、彼のファンという意識はなかったものの、彼の本は結構、読んできた。『Cosmos 上・下 』(木村 繁訳、朝日新聞社出版局)、『人はなぜエセ科学に騙されるのか 上・下』(青木 薫訳、新潮文庫)、『はるかな記憶―人間に刻まれた進化の歩み 上・下』(妻であるアン・ドルーヤンとの共著、柏原 精一・三浦 賢一・佐々木 敏裕訳、朝日新聞、文庫本版あり)、『エデンの恐竜―知能の源流をたずねて』(長野 敬訳、秀潤社)など。
 特に、最後の『エデンの恐竜』は、1978年刊行と古いにも関わらず、当然、後発の研究書・啓蒙書のほうがデータ的に豊富であり訂正された知見もあるにも関わらず、今もって「恐竜モノ」ではピカイチではないかと思っている。
 何故、今も四半世紀以前の恐竜本が今も恐竜モノ、というか、科学啓蒙書として秀逸なのか、いつか、再読する機会を得て、自分なりに再吟味してみたい。
 科学者として脂の乗り切っている最中での夭折(敢えて、そう呼ばせてもらう)は、一人の読者としても、実に惜しい。

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2005/05/09

西野 瑠美子著『なぜ「従軍慰安婦」を記憶にきざむのか』

 西野 瑠美子著『なぜ「従軍慰安婦」を記憶にきざむのか―十代のあなたへのメッセージ』(明石書院1997刊)を先週末、読了した。図書館の棚を物色していて目に付いた本。「従軍慰安婦」問題については、本を見つけた一角にも何十冊と並んでいた。棚には見当たらなかったが、小生自身、学生時代から折に触れ、この関連の文献を読んできた。

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→ 西野 瑠美子著『なぜ「従軍慰安婦」を記憶にきざむのか―十代のあなたへのメッセージ』(明石書院1997刊)

 今も、というか、むしろ今こそ、敏感な問題であり続けているのだろう。特に戦後五十年を節目に改めてこの問題に焦点が合わせられてきたように思われる。
 節目。やはり犠牲者の方々が高齢化し、敢えて証言しようと思われた方々も次々と亡くなられているか、証言できなくなりつつある、そんなギリギリの時が迫ってきたからなのだろう。従軍慰安婦問題に限らず、先の太平洋戦争を含む十五年戦争の証言も、その五十年目の節目からさえも十年が過ぎ去り、徐々に途絶えつつある印象を受ける。
 若い人、特に戦争体験者の子供の世代ではなく、その後の世代となると、学校では近代の歴史を流して授業を行うことが多いこともあり(小生が高校生の時も、明治の途中からは一時限で日本史の教科書を数十頁、それこそ目次と写真を眺めるだけで済まされてしまった。ま、富山という保守王国の体質もあるのだろうが)、日本が中国や朝鮮、東南アジアなどでどんな所業に及んでしまったかは、知らされないまま育ってしまう。
 で、一部の偏向的な新聞・雑誌などの一方的な報道というか情報の垂れ流しを鵜呑みにしてしまう。
 靖国問題は国内問題であり、他国の干渉すべき問題ではないなどと読売新聞などに書かれると、当たり前じゃないかと思わされてしまう。

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2005/05/01

小山修三著『縄文学への道』再読

 マスコミなどで広く報じられたので、弥生時代の始まりの時期が、場合によっては数百年も繰り上がるかもしれないという最近唱えられた説は、知っておられる方も多いだろう。
 大陸(朝鮮半島を含む)の影響が強く、且つ、影響を即座に受ける列島(日本)としては、大陸や半島の変化(金属器や土器、稲作文化など)が数百年もずれて日本(北九州)にやってきたと考えるほうが、不自然だと感じていた。
 紀元前も含め、列島も半島も国の体(てい)を未だ為していなかったから、まさに人々の交流や行き来は、国の制約を受けず、ただ、国(中国)の内乱などの影響や中国で発達した先進文化の影響をモロに受けつつ半島を通じて、あるいは大陸から直接、列島に伝わったと思われる。
 そもそも、人々の交流や交易は、縄文の昔から列島内部は勿論、海を越えて大陸などとも幅広くダイナミックに行われていたという。
 その点などを改めて確認するため、96年頃に購入し読んだ小山修三氏の『縄文学への道』(NHKブックス刊)を再読することとにした。
 この本は、90年代の前半から公表された論文(一部は80年代)を集めたものだが、96年の論文も掲載されている。95年に三内丸山遺跡が大々的に報じられた(直径1メートルの柱の発見が報じられたのは、94年)ことを受けての論文であり、本書も三内丸山遺跡ブームに乗る形で刊行されたのではないかと感じる。
 少なくとも小生自身は、縄文時代への関心を改めて掻き立てられる中で本書を読んだのだった。

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金 達寿著『日本古代史と朝鮮』

 既にご存知のように、「弥生時代、定説より500年古く」という情報が新聞・テレビ・ラジオで流れた。
 まだ、その説が確定したわけではないが、小生自身は、相当程度に確信している。弥生時代に限らず、縄文時代より日本列島の人々は大陸や朝鮮半島などと広く交流してきた。
 三内丸山遺跡では、青森のかの地を中心に北海道の北の外れから北陸、関東などとも交流していたことがハッキリと示されたことは記憶に新しい。
 新しい土器や器具を使っての稲作文化が朝鮮半島で定着していたのが、北九州へ伝わるのに、数百年を要したと考えるほうが不自然だったわけだ。大陸や半島との交流は想像以上に活発に行われていたのだろう。

 さて今回は、以前、紹介した金達寿著『古代朝鮮と日本文化』に続く、金達寿氏著の本の紹介である。いずれも、92年に購入し読んだものの再読だ。同様に、講談社学術文庫刊であり、70年代から80年代にかけて書かれたエッセイ集である点も同じである。
 ただ、今回の本は一層、様々なところで書かれたエッセイの寄せ集めの感が強い。著者自身によっても断り書きがされているように、記述に重複が多いのである。けれど、その分、飲み込みの悪い小生には、助かった面もあったが。

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有島武郎著『生まれ出づる悩み』

 今、小生は松本清張のマイブームで、彼の本、彼についての本を読んでいるが、彼についての大部の本を読了したので、何か次の本を探そうと近所の小さな書店に立ち寄った。けれど、めぼしい本がない。ほとんどが読んだものばかりなのだ。
 仕方なく、昔、清張全集の中で読んだ古代史関連の本(「清張通史 邪馬台国」)があったので、それを一冊、選んだが、ちょっと物足りない。
 けれど、一層、漫画の本や雑誌や実用書に占領されつつある書店では、小生の嗜好に合う本などあるはずもない。こういう時は古典乃至は昔読んだ本を再読するに限ると、その時は、有島武郎の「生まれ出づる悩み」が目に飛び込んできた。もう、三十年ほど前に読んだものだ。
 昔、読んだ「生まれ出づる悩み」は、同じく文庫本だったが、もっと薄っぺらだったと思っていたら、小生が買った角川文庫版は、短篇集だった。

 有島武郎というと、なんといっても「或る女」である。これは彼の最高の作品というにとどまらず、明治以降の文学作品の中でもトップクラスの作品だという評価が自分の中で定着している。モーパッサンの「女の一生」も良かったが、女の一生を男性作家が描いた中では、秀逸な作品なのだ。

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スコールズ『記号論のたのしみ』

 ロバート・スコールズ(Robert Scholes)著『記号論のたのしみ ―― 文学・映画・女 ――』 (富山 太佳夫訳、岩波モダンクラシックス、岩波書店刊)を読んだ…というより、読み流した。
 図書館へ行ったら、まずは新刊本のコーナーを覗く。大抵、そこで一冊か二冊、読んでもいいかなという本を見つける。そのときは、迷わず、まず手に取り、借り出す本の候補にする。
 で、次は新聞・雑誌のコーナーへ。そこで新聞を読んだり、借りる候補の本を改めて頁を捲って、検討する。 
 その時、初めて本書が新刊本ではないことに気づく。

 考えてみると、新刊本のコーナーと書いたのは、小生の表現(理解)が不正確なのである。新入荷本のコーナーなのである。で、大概は新刊乃至はそれに近いが、時にはそんなに新しくもない本が飾られてあったりする。
 小生には目新しいし、関心を引く本なので、つい、ふらふらと手に取ってしまったというわけだ。
 が、本書については、もう少し話が入り組んでいる。刊行は2000年7月7日(品切重版未定)だから、そんなに古くはないが、新刊というには苦しいものがある…が、よくよく確かめてみると、85年刊の再刊なのである!
 85年の頃は未だ、本書で扱うようなテクスト、ミメーシス、エクリチュール、ディエゲーシスなどの概念が目新しかった時代だったのだ。差異化。ディコンストラクション。今もこういった概念は使われているのだろうか。

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吉本隆明『超「戦争論」』(続)

原題:「吉本隆明『超「戦争論」』雑感(4)」(02/12/04)

 一部の方から「人間の『存在の倫理』」を持ち出しているが、今一つ、その言葉の意味合いがハッキリしないという指摘がされた。
 全く、ご指摘の通りである。
 実は、小生もよく理解できていないのだ。
 吉本氏がこの「人間の『存在の倫理』」という論理ないし観点を持ち出すのは、「岡本公三らの日本赤軍が、かつてテルアビブのロッド空港で乱射事件をやって、空港にいた多数の無関係な一般市民を殺害したテロ事件」は、「戦闘を行った結果、たまたまそこに居合わせた一般市民が巻き添えを食って犠牲になったわけであり、それは、国民国家がやる従来型の戦争の場合と同じ」である。「国民国家がやる従来型の戦争でも、空爆などの結果、たまたまそこに居合わせた一般市民が巻き添えを食って犠牲になるということが」ある。
 つまり、こうしたテロや戦闘は従来型だというのだ。
 それに対し、繰り返しになるが、「当面の目的とは全然無関係であることが最初からわかっている旅客機の乗客たちを降ろさずに、そのまま道連れにして、世界貿易センタービルなどに突っ込んじゃったということは、それとまるで違う行為です。その行為は人間が存在していること自体に倫理があるとすれば――つまり、人間は存在しているってこと自体によって倫理を負っていると考えるとするならば、そうした「人間の『存在の倫理』」に反する、ということなんですよ」(上 p.74)

 さて、いよいよ本題、つまり吉本氏が言う「人間の『存在の倫理』」とは何か、に入る。
 その前に、吉本氏が言う、従来型のテロや国民国家が行う戦闘と、乗客たちを降ろさずに世貿ビルに突っ込んだというのとは、まるで違うという吉本氏の指摘を小生は依然として全く納得できないでいることは明確にしておきたい。

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吉本隆明『超「戦争論」』

原題:「吉本隆明『超「戦争論」 上』雑感(序)」(02/11/03)

 表題の本は、『私の「戦争論」』(ぶんか社刊、今年ちくま文庫に入っている)や『超「20世紀論」 上・下』(アスキー刊)に続く田近伸和氏によるインタビューを纏めたものである。
 内容的には、『私の「戦争論」』に続くもので、昨年の9・11テロの発生を契機に、再度、田近氏が吉本隆明の考えを伺ったものである。
 「戦争論」というと、多少は学識のある方ならクラウゼヴィッツの著書『戦争論』を即座に思い浮かべることだろう。
 しかし、本書は全く違う。
 相手は、小林よしのりの『戦争論』であり、福田和也であり、石原慎太郎である。つまり、一部の一般大衆やマスコミ受けしている連中を相手に、吉本隆明が大真面目に批判の矢を射ているのだ。
 吉本隆明氏は、今の若い人には今一つピンと来ないものがあるかもしれないが、現代日本には数少ない貴重な思想家であり、評論家であり詩人である。
 その彼が、ちょっと相手にとって不足のある連中を相手に真剣に語っている。インタビューされる田近氏の力量と関心もあるのだろうが、吉本隆明が語るに相応しい論題が他にあるのではと思ったりして、若干古い世代に属する小生は感無量である。
 念のため、吉本隆明氏の年譜などを。

 垣間見るだけでも分かるだろうが、吉本隆明の人生は論争の歴史そのものである。論争や交流の相手は、花田清輝であり、平野謙であり、磯田光一であり、埴谷雄高であり、谷川雁であり…、と錚錚たる名前が蜿蜒と続く。
 これは小生の下衆の勘ぐりなのだろうが、吉本隆明氏は、夏に長年の恒例で家族全員で赴く伊豆半島西岸の温泉地(土肥温泉)で溺れ意識不明となる事故を起こして以来、幾分の心境の変化があったのではなかろうか。
 後遺症に苦しめられたりして、事故の二年後、『遺書』(角川春樹事務所)を上梓したりもしている。
 吉本隆明は、もともと単に大思想のみを扱う思想家・評論家ではない。ポルノを論じれば、テレビの芸能番組も好んで視聴し語ったりもする。
 が、例の事故のあと、更に視点を低くして、ややもすると晦渋とも思えた文章も、小生のような学識のない人間にも近づけるようになっている。語る対象を選ばず、平易に語るその語り口は、誰にも分かるを従前以上に心掛けているように感じる…のだが。
 さて、前振りはこれだけにして、いよいよ本題に入ろう。

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