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2005/05/09

西野 瑠美子著『なぜ「従軍慰安婦」を記憶にきざむのか』

 西野 瑠美子著『なぜ「従軍慰安婦」を記憶にきざむのか―十代のあなたへのメッセージ』(明石書院1997刊)を先週末、読了した。図書館の棚を物色していて目に付いた本。「従軍慰安婦」問題については、本を見つけた一角にも何十冊と並んでいた。棚には見当たらなかったが、小生自身、学生時代から折に触れ、この関連の文献を読んできた。

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→ 西野 瑠美子著『なぜ「従軍慰安婦」を記憶にきざむのか―十代のあなたへのメッセージ』(明石書院1997刊)

 今も、というか、むしろ今こそ、敏感な問題であり続けているのだろう。特に戦後五十年を節目に改めてこの問題に焦点が合わせられてきたように思われる。
 節目。やはり犠牲者の方々が高齢化し、敢えて証言しようと思われた方々も次々と亡くなられているか、証言できなくなりつつある、そんなギリギリの時が迫ってきたからなのだろう。従軍慰安婦問題に限らず、先の太平洋戦争を含む十五年戦争の証言も、その五十年目の節目からさえも十年が過ぎ去り、徐々に途絶えつつある印象を受ける。
 若い人、特に戦争体験者の子供の世代ではなく、その後の世代となると、学校では近代の歴史を流して授業を行うことが多いこともあり(小生が高校生の時も、明治の途中からは一時限で日本史の教科書を数十頁、それこそ目次と写真を眺めるだけで済まされてしまった。ま、富山という保守王国の体質もあるのだろうが)、日本が中国や朝鮮、東南アジアなどでどんな所業に及んでしまったかは、知らされないまま育ってしまう。
 で、一部の偏向的な新聞・雑誌などの一方的な報道というか情報の垂れ流しを鵜呑みにしてしまう。
 靖国問題は国内問題であり、他国の干渉すべき問題ではないなどと読売新聞などに書かれると、当たり前じゃないかと思わされてしまう。

 とんでもないことで、靖国問題は、国内の問題であると同時に迷惑を掛けてしまったアジアの問題でもある、つまり戦争の犠牲者を祀るというが、悲しいかな一部の方たちは中国や朝鮮、あるいは日本国内で(日本軍として企業人として、あるいは軍などの統制を乱した形で)強制連行や従軍慰安婦問題を引き起こしてしまったのである。
 戦争の犠牲者であると同時に、一部の方とはいえ、加害者でもあるということ。しかも、多くは他国の領土を侵略し、あるいは併合して悲惨な目に合わせてしまった。
 靖国神社に参拝される方には、まさに犠牲となられた方たちの冥福を祈るなど、純粋な気持ちでおられる方も多いのだろう。
 従軍慰安婦問題については、小生は、たとえば、「旧日本軍の性的暴力被害訴訟」と題したコラムなどで扱っている。

 上で、従軍慰安婦問題などが顕在化してきたのは、関係者の高齢化があると書いたが、それだけではない。もっと広くは、女性の人権意識が高まってきたことが大きいようである。
 この点につき、著者である西野 瑠美子さんご自身の言葉を下記サイトから引用させてもらう: 
「女性国際戦犯法廷」は何を裁き、何を目指したのかめざしたのか
                4・14女性国際戦犯法廷報告集会より
                             西野瑠美子さん

 こ「の法廷はもちろん50年前の戦争犯罪を裁く、日本軍「慰安婦」制度を裁くということで行われたもの」だとか。
 つまり、「今までだったら戦争のもとで強かんというのはもう「つき物」なんだと、戦争とはそういうものだ、というような考え方が支配的だった中で、これは「慰安婦」制度もそうですけども、レイプが、あるいは性奴隷が、戦争犯罪だということが認識されないままにきていて、言い換えればレイプや性奴隷の責任というものが問われることもなく、処罰されることもなくきていたわけです。
 処罰されないし、責任も問われない、それが戦争なんだ、戦争に強かんがあるのは当たり前なんだ、というような中で、繰り返されてきた。つまり不処罰が戦時性暴力を繰り返させてきたんだ、ということが指摘されるようになってきたわけです」という。
 それが、「1993年のウィーン世界人権会議でこれ(国際的に「女性の権利が人権である」と、"women`s right are human`s right")がスローガン化」され、「年に「女性に対する暴力撤廃宣言」というのが出され、そしてここで初めて女性の人権、女性に対する暴力というのの、カテゴリー化が明確にされた」のが大きかったようである。
 戦争には犠牲がつきもの。戦争下では虐殺も戦時性暴力も当たり前。その一つである強姦もそのひとつに過ぎない…。この発想が戦争で戦う男性の無言の(時には声高な)常識だったという。
 が、女性の人権意識の高まりが、そんな男性の勝手な論理を許さなくなったというわけである。

 よって、「女性に対する暴力のまず一つ目は、家庭内における暴力。これはドメスティックバイオレンス、夫が妻に、あるいは同居している男性が女性にというケースなども入りますが、家庭内暴力。そして二つ目が社会のもとにおける暴力。これはセクハラとかアカハラとかそういったものが含まれます。そして三つ目がカテゴリーとして、国家による暴力というのが、明確にされたんですね。
 この国家による暴力というのが戦時下の、たとえば強制妊娠とか、強制移住のもとの性奴隷とか、そうした国家が組織的あるいは制度的に女性達に対して暴力を行う、これも一つの暴力として認定されてくるということになりました。つまり戦時下の性暴力を、明確に女性に対する暴力だと、ジェンダーバイオレンスだということをはっきり位置づけたのがこのときでした」という認識にいたるわけである。
 
 詳しくは上掲のサイトを読んで欲しい。ただ、一点、表題の西野 瑠美子著『なぜ「従軍慰安婦」を記憶にきざむのか』にもあるが、「「慰安婦」制度というものの強制の図式というのは、まさに暴力による奴隷化であったという事、さらには「「慰安婦」とは明らかに性奴隷であったという事」の理解が重要だと思われる。
 嘗てより、小生は、従軍慰安婦という呼称に違和感を感じてきた。下手すると、この呼称では、一部の女性が自分の意志で従軍される兵隊さんに慰安を与えんがため、辛い営為に携わったのでは、といったイメージさえ喚起されかねないではないか。
 一部の男性の勝手な言い分で、中にはプロの娼婦もいたとか、商売でやっていたんだと言い張る奴もいる。が、「従軍慰安婦」と呼称される状態下にあった女性達は、性奴隷だったのだと、明確に認識されるべきなのである。
 本書『なぜ「従軍慰安婦」を記憶にきざむのか』などを読むと、改めて感じることは、日本や、さらに厳しい貞節意識や風土のある朝鮮や中国では尚更、そうした犠牲者への偏見の強さである。彼女らは汚れた存在なのだと周りから言われ思われ、また当人達でさえ思っている、そのことの哀れさと悲惨さである。

 西野 瑠美子さんの上掲の講演でも、「ジェンダーと沈黙の関係を明らかにしていくとはどういうことかというと、これは判決文のサマリーの中にも書かれましたけれども、女性達の苦痛が、自らの地域社会にかえったときから、人々に拒否されることで一層ひどくなったと。つまり慰安所にいたときはもちろんですけども、戦後女性達被害女性が地域にかえったその途端に、さらにその被害が一層ひどくなった、ということをこの判決が明確に指摘したんですね」とある。
 そして、「これはなぜかというと、性暴力被害女性に「汚い女」あるいは恥の烙印を押し、女性達を周縁に追いやってきたものはいったい何だったのか、そうした家父長制下の、女性の価値を貞淑、あるいは純血、あるいは貞操と、そういったところでとらえていく貞操イデオロギー、あるいは男性中心主義の仕組みと秩序、家父長制パラダイムと、そういったものを再定義していくということが、この法廷の中でも行われたわけです」というのである。

 さて、本書の内容に若干は触れておきたいが、既に長くなりすぎた。せめて、目次だけ示しておこう:

 序 チマ・チョゴリ事件はセクハラ?
  1 教科書に書かれた「従軍慰安婦」
  2 性暴力はなぜ黙殺されるのか
  3 「恨」を解く
  4 証言―元軍人・軍属が語る「慰安婦」

 チマ・チョゴリ事件などを鑑みると、日本の一部の男性(に限らないかもしれない)は、何故に朝鮮や中国への反発心・対抗心を剥き出しにするのだろう、話が中国や朝鮮となると、商売ベース・経済的な事柄は別として(ここがまたエコノミックアニマルたる日本らしいが)、変に感情的になってしまうのは何故だろうか、考えてみたくなる。
 よほど、朝鮮や中国の人々へのコンプレックスが根深くあるのだと感じられる。戦前の偏向した教育の成果・悪影響が未だに濃厚にあるということか。なりあがり国家としてアジアの盟主たらんと、無理し過ぎたということか。
 さらに大きくは、日本は長く(千年以上も!)朝鮮や中国を範とし先進国家とし文化の由来の地として見なしてきた。中国は紀元前数千年の昔から様々な国家が存亡を繰り返しながらも法整備も含め国家の態(てい)をなしてきた。朝鮮も分裂や併合、共存などを繰り返しつつも早くから国家の形がなってきた。それに比べ、日本が律令制度を導入し、国家となったのは八世紀初頭、無理に遡っても、七世紀の末のようである(小さなクニなら数世紀、遡りえるかもしれないが)。
 その時も、中国そして朝鮮を見習い先生として、ようやく成立しえたのだった。
 それと、近親憎悪の感情が根底にあるものと思う。遠い国や文化のあまりに違う人々とは、違いを敢えて意識せずとも、明らかに外見や風習からして違うと分かるが、中国や朝鮮となると、独自性を殊更に自覚し主張しないと分からなくなってしまう。
 欧米やアフリカ、南米からしたら、日本と朝鮮、一部の中国は似たような文化圏として、どこが違うの、経済力だけ、ということになるかもしれないが、当事者としては違いを針小棒大的にでも誇張するしかないし、オレは違うんだと威張りたいということかもしれない。
 もっと、大らかに自分の国の文化や伝統や培われてきたものに自信を持てばいいのに、朝鮮や中国を毛嫌いする人たちには、余裕がまるで感じられない。本当は自信がないんじゃないって思えたりする。

 さて、本書『なぜ「従軍慰安婦」を記憶にきざむのか』の中でも言及されているが、西野 瑠美子さんの上掲の講演の中でも、「漫画家の小林よしのりさんの意見」が採り上げられている。
「日本の女性にだって悲惨な過去はあるのだ。満州にソ連軍が攻めてきたとき日本の女性はソ連兵に夫や家族の前で犯され阿鼻叫喚の地獄絵図。この時身ごもった女性は博多の引き揚げ者収容所で中絶したりしたらしい。しかしこれらの女性はその後貝のように固く口を閉じ、決して語らず胸に秘め事実すらなかったかのようになっている。日本の女はすごい。ワシはこのような日本の女を誇りに思う。」という小林よしのりさんの発想。
 この発想の根底には、「この小林さんのいわゆる男のメンツをつぶさない-妻が、家族が、あるいは同胞の女達がレイプされたということは、夫あるいは家族の男たちの、あるいは同胞の男のメンツをつぶすことであると。ですから日本の女性がレイプされたことを黙っているのが誇らしいというのは、日本人の男性である小林よしのりの男としてのメンツ、つまり「身内の女がレイプされたことは男として不名誉だ」という捉え方」があるのだろう。

「天皇ヒロヒトが裁かれなかったということが、戦後、日本の戦争責任に向き合う、無責任体制を作り出してきたその発端にあるということです。そして、その根源があるために、日本は戦争責任というものの意識を、民衆が自ら問う事もなく、また日本の戦後がそのことを忘却していくということに、非常に大きなたすけになっていったという事が、反省がある」とも、西野 瑠美子さんの上掲の講演の中にある。
 この点は、日本の(日本に限らないかもしれないが)官僚(役人)の責任意識の薄さとも強く相関している。あれだけの責任を担っていてさえ、責任が問われなかったのなら、大概の罪は見逃されて当たり前ということになってしまうのも無理からぬことか…、とさえ思わされそうになる。

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← 宮城 晴美=著『新版 母の遺したもの』(高文研) 「沖縄戦の開戦直後、慶良間諸島に駐屯した軍の強制の下、肉親どうしで手をかけ、六百人をこえる住民が命を断った「集団自決」。
 本書は、その「集団自決」から生き残った祖父母と母をもつ著者が、「母の手記」を原点に、30年をかけて聞き取った住民の証言で構成したノンフィクション! 
 ところが、その「母の手記」を証拠として、慶良間を基地とした海上特攻隊の元隊長らが、自分は「自決」命令は下していないとして、『沖縄ノート』の著者・大江健三郎氏と発行元の岩波書店を「名誉毀損」で告訴。 
 文部科学省もそれを受け、歴史教科書の検定で、軍による「集団自決」への関与・強制の記述を削除させた!
それに対し沖縄の怒りが爆発、11万人が結集した県民大会が開かれる。そんな中で「集団自決」の体験者が重い口を開き、新たな証言を語り出した。その新証言を受けて加筆・修正、「集団自決」をもたらした軍の命令・強制を疑問の余地なく明らかにする!」(「新版 母の遺したもの 宮城晴美=著 高文研」より)


 小生自身、1989年1月に昭和天皇が戦争責任も有耶無耶のままに亡くなられた時、強烈な脱力感に見舞われてしまった。
 ああ、日本ってこういう国なのだ、自分たち自身の問題に向き合うことも、自らの責任をもきちんと追及することもしない、それどころか許さない雰囲気をさえ天皇の容態が悪い最中に醸成され、まともな議論など許さない、そんな国なのだ、これで、日本は国内ではなし崩しに戦争責任論は霧消され解体されて素知らぬ顔を決め込んでそれで良しだと思えるかもしれないが、アジア各国、ヨーロッパ、無論、日本国内の良識ある人々には軽蔑され、精神的には相手にされず、せいぜい経済的な側面、技術面を中心に打算的に実務的に交流するに止まる、そんな世界の田舎、世界の片隅の国家に成り果てるのだろう…、そんな感懐を深く抱いて、一人、精神的な打撃に落ち込んでいた。
 時間が経過して、まあ、日本国内の若者は過去の歴史を学ばないで、一部の横柄な歴史観を押し付ける連中の洗脳するがままの狭隘な歴史認識に染まってしまう。そうした時を日本の為政者(の一部だと願いたい)は待っているようでもある。
 悲しいかな、そんな忌まわしき現実が到来してしまったかのようでもある。
 ちょっと、個人的な感懐に浸りすぎたか。

 尚、西野 瑠美子さんの上掲の講演の中には、例の「NHKのETVの番組改編問題」も詳しく採り上げられている。
 小生、思うに、右翼や一部自民党の横槍で改悪されてしまった番組の当初の形を民放が買い取り、放映してはどうだろう。
 NHKと朝日新聞との喧嘩に矮小化するのでは、碌でもない連中の思う壺ではないか。当初の番組を売り払って、是非、本来の形の番組を視聴したいものである。

 本書を読む機会を持てない方も、せめて、西野 瑠美子さんの上掲の、実に内容豊富な講演を一読願いたい。
 と、同時に、やはり本書『なぜ「従軍慰安婦」を記憶にきざむのか』に限らず、関連の図書を覗いてもらいたいものである。この問題を克服しない限り、中国や朝鮮を中心としたアジア各国、ヨーロッパの国々、さらにはアメリカにも良識ある人には尊敬される国家として(経済的に成功したことのある国家として以外には)認められることはありえないと小生は考える。


 関連するコラムやエッセイとして小生には下記がある:
ジョン・ダワー著『敗北を抱きしめて』雑感
ハーバート・ビックス著『昭和天皇』
吉本隆明『超「戦争論」』
旧日本軍の性的暴力被害訴訟
ハルノートと太平洋戦争
本間猛著『予科練の空』を読んで

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コメント

西野瑠美子女史などの発言をお聞きしますと、都合のいいところだけを取り上げたインチキ性がうかがい知れます。

こういう人間に騙される人も沢山いるのですね。

投稿: 北野 大地 | 2008/06/17 15:39

北野 大地さん

不都合なことに目をつぶるってのは最悪のような気がします。
世界はちゃんと事実を歴史を冷静に見ているのではないでしょうか。
過去を隠蔽したり等閑視しないことが日本が国際社会で尊敬を獲得する道だと思うのです。

投稿: やいっち | 2008/06/18 03:07

東京裁判ー自虐史観洗脳プログラム
  これで得をしているのは 日本人民間人を大虐殺したアメリカ。毛沢東の中共、李承晩を戦後の大統領とし、アメリカをバックに日本から搾取しまくっている韓国、および南北統一を自分の手でなしとげたい北朝鮮、そのバックにいる中共。 ロシアも北方4島は返したくないし、できれば北海道はとりたいし。

「ヴェノナ文書」で明らかにされているように、アメリカはソ連の工作員によって支配されていたし、日本は昔から 外国の工作員にいいようにされている。

 日本人も、意識的にしろ無意識にしろ工作員になっている――西野留美子もそのひとり。

投稿: みどり | 2012/07/25 17:16

みどりさん

第二次安部政権が、今のところ順調ですね。
インフレ政策が功を奏している?
タカ派ぶりが、この余勢を駆って推進されそう。
道徳教育なども行いたいらしい。
誰が道徳など教えられるのか。

タカ派は、過去の不都合な歴史を隠ぺいし、都合のいい歴史を上書きしようとしている。
被害者が現にいるのに、従軍慰安婦の存在を認めない。
アメリカがどうとかなど、この際、別儀です。

歴史を直視しないで、都合よく未来志向の外交だなんて、虫が良すぎる。

投稿: やいっち | 2013/03/10 21:39

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