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2005/05/01

金 達寿著『日本古代史と朝鮮』

 既にご存知のように、「弥生時代、定説より500年古く」という情報が新聞・テレビ・ラジオで流れた。
 まだ、その説が確定したわけではないが、小生自身は、相当程度に確信している。弥生時代に限らず、縄文時代より日本列島の人々は大陸や朝鮮半島などと広く交流してきた。
 三内丸山遺跡では、青森のかの地を中心に北海道の北の外れから北陸、関東などとも交流していたことがハッキリと示されたことは記憶に新しい。
 新しい土器や器具を使っての稲作文化が朝鮮半島で定着していたのが、北九州へ伝わるのに、数百年を要したと考えるほうが不自然だったわけだ。大陸や半島との交流は想像以上に活発に行われていたのだろう。

 さて今回は、以前、紹介した金達寿著『古代朝鮮と日本文化』に続く、金達寿氏著の本の紹介である。いずれも、92年に購入し読んだものの再読だ。同様に、講談社学術文庫刊であり、70年代から80年代にかけて書かれたエッセイ集である点も同じである。
 ただ、今回の本は一層、様々なところで書かれたエッセイの寄せ集めの感が強い。著者自身によっても断り書きがされているように、記述に重複が多いのである。けれど、その分、飲み込みの悪い小生には、助かった面もあったが。

 さて、まず、文庫本の裏表紙にある出版社による本書の紹介文を載せる。以後、自分勝手な解釈なり誤解なりをなす恐れがないとも限らないので、予め、関係者の謳い文句を示しておいたほうがいいだろうと思うという意味もある:

「日本古代史は、朝鮮との関係史である」とは、古代史研究家・金達寿の主張しつづけてきたことばである。本書は、地名や古墳・神社などを手がかりに日本各地に現存する古代朝鮮遺跡の発掘に執念を燃やしてきた著者がこれらの事実と、記・紀などに残された高句麗・百済・新羅系渡来人の足跡をはじめ、豊富な文献資料などから「帰化人史観」によってゆがめられた歴史記述を痛烈に批判し、真の日本古代史への道を開示したものである。
                                 (転記終わり)

 ついでに、著者紹介文も転記しておく。前回は、そこまで丁寧に筆者を紹介していなかったので、遅まきながら参考のため、示しておく:

 1919年、朝鮮・慶尚南道で生まれ、1930年に渡日。日本大学芸術科卒業。作家・古代史研究家。主著に『金達寿小説全集』『金達寿評論集』『古代日朝関係史入門』『日本古代史と朝鮮文化』『古代日本と朝鮮文化』
『朝鮮 民族・歴史・文化 』『わがアリランの歌』『行基の時代』『故国まで』『日本の中の古代朝鮮』『日本の中の朝鮮文化』(学術文庫)など。
                                 (転記終わり)

 著者のプロフィールでも分かるように、金達寿氏は、一貫して、日本古代史を朝鮮とのかかわりの中で探求されてきた作家である。
 日本の古代史がいかに中国や朝鮮と関係があるかは、想像以上のものがある。我々日本人としては、できるだけ古くから日本の独自性と独立性を保ってきたと思いたいのであるが、古代の文献や史跡、地名、古墳、神社を緻密に足を使って調べるごとに、事実は、(少なくとも弥生時代後期以降は)如何に朝鮮渡来の人々の足跡が大きいか、いな、それどころか古代史ないし、古代の日本の姿は圧倒的に朝鮮渡来の人々の手によって形成されたと分かってくる、そのように金達寿氏は書いている。
 というより、律令制度が成立するまでは、日本の権力は朝鮮半島、更には中国の政治情勢と密接に相関しており、朝鮮半島の勢力地図の変化がもろに日本の勢力地図あるいは権力構造の変化に繋がっていると金達寿氏は、縷縷、語っている。

 その典型的な例が、大化の改新である。中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(のちの藤原氏)らにより、当時、朝廷の政治を主宰し天皇の権威の教化のためには邪魔だった蘇我氏の権勢を一掃しようとした。まず、蘇我蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)父子を殺して、新政を開始したとされる。
 中大兄皇子は皇太子になり、万機を総理し、大臣その他を設け、中国留学から帰朝した高向玄理(たかむこのくろまろ)・僧旻(みん)を国博士(くにのはかせ)に任命して、政治上の顧問とし、さらに都を難波に定めた、というのが、常識的な理解だろう。
 最近では大化の改新ではなく、乙巳の変とも呼称されることが多い。
 大化の改新は、主役が中大兄皇子と中臣鎌足ということになっているが、どうやら一方の主役は蘇我氏(馬子や蝦夷や入鹿など)であり、他方の主役は、高向玄理や僧旻らしいのである。
 詳しくは本書を読んでもらいたいが、つまり、下記のように金達寿氏は乙巳の変(氏は大化の改新という名称を一貫して使っている)を性格付ける:

 要するに、「大化の改新」とは、百済系渡来豪族であった蘇我氏の権力が、「中国留学から帰国した」高向玄理や僧旻らの「描いた青写真」によって倒されたクーデターだったわけですが、しかしそれはただ単なるクーデターといったものではなかった。それには、朝鮮における高句麗・百済・新羅三国の制覇戦が色濃く反映していたのです。  (p.31)
                              (転記終わり)

 少なくとも日本において国史が成立する以前は、日本の政権は、実質的に朝鮮半島の三国などの情勢次第で左右されるものであり、ある意味、日本は朝鮮の国家の精力の飛び地だったのかもしれない。
 本書では、坂口安吾氏の『安吾史譚』からも、このことに関連して引用されている。ここでも再引用させてもらう:

 国史以前に、コクリ<高句麗=金。以下同じ>、クダラ<百済>、シラギ<新羅>等の三韓や大陸南洋方面から絶え間なく氏族的な移住が行われ、すでに奥州の辺土や伊豆七島に至るまで土着を見、まだ日本という国名も統一もない時だったから、何国人でもなくただの集落民もしくは氏族として多くの種族が入りまじって生存していたろうと思う。そのうちに彼らの中から有力な豪族が現れたり、海外からの氏族の来着があったりして、次第に中央政権が争われるに至ったと思うが、特に目と鼻の先の三韓からの移住土着民が豪族を代表する主要なものであったに相違なく、彼らはコクリ<高句麗>、クダラ<百済>、シラギ<新羅>等の母国と結んだり、また母国の政争に影響をうけて日本に政変があったりしたこともあったであろう。  (p.31-2)
                              (転記終わり)

 そう、大化の改新にしても、百済系渡来豪族であった蘇我氏(本宗家)を倒した高向玄理や僧旻らは、新羅系の人々だったのである。
 坂口安吾については、さらに度々、本書では引用されている。ざっと、再引用してみたい。ますます歴史研究家としての坂口安吾を知りたくなった:

 聖徳太子の愛妃であった橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)は、新羅系渡来の秦氏族から出たものであり、その橘大郎女が聖徳太子の死後つくらせた有名な天寿国繍帳は、新羅系の木京部秦久麻、高句麗系の高麗加西縊、百済系の東漢末賢らの手によってなったものであります。(p.26)
                              (転記終わり)


 また、日本への渡来氏族として秦(はた)氏が有名だが、彼等については、同じく坂口安吾著『安吾新日本地理』からの引用を転記する:

 奈良平安朝で中央政府が確立し、シラギ<新羅>系だのコマ<高麗>系だのというものは、すべて影を没したかのように見えた。しかし実は歴史の裏面へ姿を隠しただけで、いわば地下にもぐった歴史の流れはなお脈々とつづくのだ。
 多くのシラギ<新羅>人を関東に移住させた左右大臣多治比島の子孫が武蔵の守となった後に飯能に土着したり、彼の死後三年目に若光がコマ<高麗>王妃をたまわり、十五年後に七ヶ国のコマ人一千七百九十九人が武蔵のコマ郡へ移された、というようなことは、シラギ<新羅>とコマが歴史の地下へもぐったうちでも、実にさして重要でない末端のモグラ事件であったかも知れないのだ。
  なぜならこれらのモグラは歴史の表面に現れている。けれどもモグラの大物は決して、表面に現れない。むしろ表面に現れているモグラを手がかりにして、もっと大物のモグラ族の地下でのアツレキを感じることがせできるのである。
 すでに三韓系の政争やアツレキは藤原京のころから地下にもぐったことが分かるが、日本地下史のモヤモヤは藤原京から奈良京へ平安京へと移り、やがて地下から身を起こして再び歴史の表面へ現れたとき、毛虫が蝶になったように、まるで違ったものになっていた。それが源氏であり、平家であり、奥州の藤原氏であり、ひいては南北朝の対立にも影響した。そのような地下史を辿りうるように私は思う。彼らが蝶になったとは、日本人になったのだ。 (p.179-80)
                                (転記終わり)

 こうした史観を逸早く公表した坂口安吾は、まさしく無頼派として戦前・戦中の夢物語としての日本史=皇国史観を徹底的に粉砕しようとしたのだろう。
 日本が日本として独自に歩もう、朝鮮半島の影響を排除し律令制度を導入し独立した国家となったのは、早くても8世紀と思うのが無難なのだろう。
 607年に小野妹子を正使とする遣隋使がはじめて派遣されて以来、遣隋使は4回派遣された。また、遣唐使についても教科書で重要な事項として記述されている。その意義を疑うつもりはない。
 が、一方、新羅からの来朝は前後38回に達し、わが国からの使者は27回を数えることはあまり知られていないのではないか。実質上は、遣新羅使のほうが我が国にとって影響力は遥かに大きかったと想像してもいいのではないかと思われる。
 遣新羅使については、ネットでいろいろ学ぶことが出来る。
 尚、この文中では、遣新羅使は35回となっているが、それは両国の関係が再構築され、668年、新羅の使節が日本に派遣されて以来再開されてからの回数なのだろう。
 遣唐使についても、「日本は630年以後約200年の間に15回の遣唐使を送ったが、これらの使節の往来には新羅の商船、船員や唐にあった新羅人使節がたびたび利用されている」とある。

 本書においても、重要なテーマは、「帰化人史観」への痛烈な批判だろう。帰化人という言葉を使うには、すでに日本において国家が律令制度も含め自立し独立していなければならない。そうした国家へ国籍を帰属させるから帰化人なのだ。
 しかし、本書においても金達寿氏や坂口安吾氏が強調するように、7世紀の時点では、日本はまだ油の漂うようにあやふやな状態だったのではないか。とすると、朝鮮から日本列島に渡ってきた人々は渡来人、流入してきた人々であって、それ以上の規定には難があるということになる。
 帰化人という言葉を使えるのは、せいぜい奈良時代以降の話で、その頃から盛んに朝鮮由来の名前から日本名への改名がなされている(改名の記述が増える)のである。
 金達寿氏によるまでもなく、奈良時代末期になっても、「高市郡の人口の八割ないし九割を「帰化人=渡来人」が占めていた」と、『続日本紀』に叙されている。
 高市郡とは、「飛鳥時代の首都・飛鳥(明日香)の地を中心にした」地域のことである。
 誤解して欲しくないのは、金達寿氏は古代の日本の形成に朝鮮渡来の人々が与っていると述べているが、そもそも、朝鮮人とか日本人という呼称が正当性を持つのは、国家がきちんと形成され、かつ、自らを日本人(あるいは朝鮮人)と明確に自覚してからのことである。
 日本に朝鮮渡来の人々がやってきて国家を形成する上で中心的な役割を果たしたが、そうした長い歴史の積み重ねの果てに、出自は何処であれ、この国土に本国を他国として以上には意識することなく、自らの国として形成しようとした、この国の人として生きようと決意した、その覚悟と決意を固めて初めて日本人が成ったと言えるのではないか、そのように金達寿氏は述べていると小生は理解する。
 その決意こそがが、サナギが蝶に変わるように、渡来人が日本人になるということを可能にしたのだろう。

 尚、御存知の方も多いだろうが、金達寿氏は、1997年に亡くなられている。『日本の中の朝鮮文化』(12巻)を完結されていたことは、せめてもの慰めだろうか。
                             (03/05/26)

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コメント

この本の内容はおもしろいですが、注意点があると考えています。

渡来人と今の朝鮮人が同一氏族、同一民族であるかどうかは怪しい。

秦氏などの渡来について、「朝鮮人が渡来した」ことと「朝鮮半島を経由して渡来した」ことを混同させてはならない。(ウリジナルの温床)

日本人は渡来人と土着の民の混血ではあるので、現在の日本を朝鮮人が作ったとは言えない。

また、倭人が朝鮮人にものを教えてもらったと言うこともない。倭人そのものがかつては朝鮮半島で暮らしていたのだから・・(倭人が暮らしていた時期までは朝鮮半島に前方後円墳が作られていた)よって、今の朝鮮人と過去の朝鮮人が同一民族である確率は低い。

また、皇室と天照大神を祀る朝鮮神宮も潰されていることから、信仰の対象も違う。

投稿: 888 | 2010/05/17 11:52

888さん

日本の文化や伝統は、朝鮮人をはじめ、北方系民族、東南アジア系の人々、中国系の人々、縄文時代、あるいはその前からの先住民などなど、いろんな背景を持つ人たちの複合されたものだと思われます。
ただ、(ある時期から)ある時期までは、朝鮮人の影響は特に支配層においては強かったようですが。
皇室も認めているように、桓武天皇の母親や朝鮮の人です。
吹き溜まりの風土・文化。その長所と短所を持ち合わせているようですね。

投稿: やいっち | 2010/05/31 16:46

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