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2005/05/15

三浦 佑之著『古事記講義』

 三浦 佑之著『古事記講義』(文藝春秋刊)を読了した。『古事記』(の現代語訳)そのものは別として、「古事記」について解説・解明する本としては、秀逸の書だった。
Amazon.co.jp: 本 古事記講義」などに依り、本書の性格を紹介しておこうと、レビューを見ると、「ヤマタノヲロチは河、人の起源は草だった、出雲神話はなぜ語られるか、稗田阿礼は男か女か。「古事記」に語られている神話や伝承は何を意味するのか? その深みに迫る刺激的講座。『文学界』連載をまとめる」とある。なんだか、ピントが合っているようには思えない。
 確かにそういった記述が、あることはあるのだけれど。
 それより、講義内容を目次(の大見出し)で示しておいた方がいいかもしれない:

 第1回 神話はなぜ語られるか(人間の起源―人である草、ほか)
 第2回 英雄叙事詩は存在したか
 第3回 英雄たちの物語
 第4回 出雲神話と出雲世界(出雲神話とは何か、ほか)
 最終回 古事記の古層性

 さて、この先、何を書くか分からないので、「神話と昔話-三浦佑之宣伝板-」なるサイトを示しておく。
 その表紙には、「 「いま、よみがえる古事記」 第2回公演の日程が決まりました。こちらで、チケットの購入も可能です」という情報も載っている。
「語り手は、俳優の鈴木瑞穂氏」ということで、「現在、下記の予定で、三浦佑之 『口語訳 古事記 』 (文藝春秋) を語る会 第2回が企画されています」とのこと。日程は、「2005年 6月24日 (金曜日) 午後と夜の2回公演の予定」だから、今のうちなら申し込みも間に合うのかも。
「古事記を旅する」という本文は三浦 佑之(みうら すけゆき)氏で写真は大海 秀典氏(文藝春秋 写真部)という「月刊 『 文藝春秋 』 連載」の情報も載っている。

 本書『古事記講義』において三浦佑之氏が語るのは、当然ながら「古事記」の特色である。特に一昔前までは「記紀」とまで呼称されるほど、一体のものとして扱われたりしていた「日本書紀」と「古事記」との性格の違いを明確に示すことにある。
 上で目次を示したが、「古事記」においては神話は勿論、英雄叙事詩も重要な位置を有し、さらに、「出雲神話と出雲世界」の重要度において、「日本書紀」とは際立った違いのあることを、三浦佑之氏の本講義が示してくれている。
 正史である「日本書紀」と違って、「古事記」は、正史を装ってはいるが、必ずしも正史と断定はできない(敢えて否定はしないものの)。
 それより、正史の中では削除(隠蔽)されるか、あるいは数ある地方権力の一つとして出雲が扱われるのみだが、古代においては出雲の存在は巨大だったことが「古事記」を読むと分かる、という。
 また、英雄叙事詩でも、ヤマトタケルにしても、白鳥伝説として語り継がれてきたことを、「古事記」は、決して忘れないで叙述している、というのである。
 つまり、結果として律令国家が成立する過程で切り捨てられるか、軽んじられる七世紀以前の事績への目配りが「古事記」には載せられているわけである。

 小生は、既に三浦 佑之翻訳『口語訳古事記 完全版』(文芸春秋刊)を読んでいる。レビューを示すと、「日本誕生の物語が気鋭の国文学者による平易な口語訳で鮮やかに蘇る。最新の研究成果を盛り込んだ、懇切にして画期的な注釈付き。地名・氏族名解説、神々および天皇の系図、地図などの資料も豊富に盛り込む」ということだが、小生の書評風エッセイも気が向いたら覗いてみて欲しい(→「三浦佑之『口語訳 古事記』)。
 この中で、三浦佑之著『口語訳 古事記』を推奨していると同時に、「「古事記」は逆に内側の日本という国の、それも朝廷がかつてさまざまな滅ぼし埋め消して来た存在に対して一種鎮魂のニュアンスを込めて書かれた」書なのだということを『口語訳 古事記』の通読を通して感じたのだった。
 さらに小生は、以下のように書いている:

 また、『古事記』の序文が、素人が見ても、とってつけたようで、いかにも後世になって何かの意図があって書き加えられたものではないかと、つい、穿った見方をしたくなる要素もある。偽書や少なくとも禁書のそしりを完全に免れてきたわけではなかったのだ。
 何故に『古事記』は平安時代も終わりになって(つまり、朝廷の力、貴族の権力が弱まってから)表に浮上してきたのか。きちんとした序文がありながら、正史の扱いがされないだけではなく、禁書に近い扱いをされてきたのは何故か、古代史や文学に疎い小生でも、興味津々となってしまうのだ。
                        (転記終わり)

 実は、まさにこの疑問を解いて欲しくて、「古事記」についての本を読み漁ってきた(ちょっと大袈裟)のだが、ようやく、求めていた本に出会ったという気がする。それが、この三浦 佑之著『古事記講義』なのである(褒めすぎか…そんなことはないと思う)。
 本書『古事記講義』の中でも、序文については、書かれた時期が本文が七世紀後半だろうと見なしていいのに対し、幾分、時代が繰り下がると三浦氏は語っている。
 
 さて、本書は内容もさることながら、とにかく読んで面白い。さすが『口語訳 古事記』で古老の語りというユニークな翻訳を試みられた三浦氏らしい。
 つまり、「べつに2匹目の泥鰌をねらっているわけではありませんが(出版社はねらっているかもしれません)、こういうことになりました。『口語訳 古事記 』 には書き切れなかったところを、徹底的に語り下ろしました。おそらく、今までの類書にはない内容になっているはずです--本人が言うのですから、まちがいありません。古事記をより深く知りたいという方にはご満足いただけるものと自負しております」と、本人が言うのだから、間違いがない。

 目次の第1回は、上述したように、「神話はなぜ語られるか(人間の起源―人である草、ほか)」である。この「人である草」という項は、三浦氏の「古事記」理解の根幹に関わるかもしれない。
「世界日報社」というサイトの「書評 『古事記講義』 三浦佑之著」を覗くと、丁度、その点に着目して書評が試みられている。
 当該部分を引用させ貰うと、「神話について著者は、「いま、ここに生きてあることの根拠を語るもの」と説明する。一人の人間にとってそれが切実な問題であるように、日本人にとって重要な意味を神話は秘めている。神話には創世記がつきもの。キーワードは「成る」。最初の三神は高天原(たかまがはら)に「成り出る」。主体が必要な「つくる」「うむ」ではない。そして人は、草のように地面から生えるものと描かれる。植物だから枯れて土に返るが、魂は永世する」というのである。
 まさに、キーワードは「成る」にある。著者三浦氏の言葉を借りると、「人は草から生まれ草のように死んでゆくという心性」ということになる。

 ネット検索では、「SUZUKI's Homepage」の「古事記講義(こじき こうぎ)」なる頁が丁寧で詳細だった。
 ここには、本書の冒頭に載っている「ガイダンス-講義のまえに」や「あとがき-講義を終えて」の全文を読むことができる。
 この中から、以下の一文だけは引用しておきたい。著者の覚悟の程が知れるからである:

 それにしても、この、一種の偽書説ともいえるわたしの考え方は、古事記研究という狭い世界にかぎれば危険思想ということになりかねない。だれだって、自分の会社は潰れてほしくないし、家族崩壊には直面したくない。わたしとて同じだ。だからとても重い課題を背負ってしまったような気がしないでもないが、一方では、漂っていた靄(もや)が消えたようでとても爽やかな感じがする。大嵐になるのか何事もなく鎮まるのか、予報することはむずかしいが、たまには波風が立つのもいいだろう。
                           (転記終わり)

 余談だが、「Windows XP 窓職人 XP はパソコンやインターネットを一般」というサイトの中で「『口語訳 古事記 [完全版] 』の着想は「語り」の研究から」という一文を読むことができる。

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コメント

 出雲と伯耆の堺、安来にての古き言い伝えはまことか?

投稿: ナウシカ | 2008/06/07 00:07

三浦氏の著作に感銘を受けたようだが、彼の説を鵜呑みにする前に、もう一度冷静に彼の説の論理を考える必要がある。
すでに矢嶋泉氏が明らかにされているように、偽書説論者の挙げる多くの論拠の中に「和銅五年の成立を客観的・論理的に否定するものは存在しない」(『古事記の歴史意識』)。
そもそも、偽書説には、(1)『古事記』本文偽書説(序・本文とも平安期に成立と考えている説)と(2)『古事記』序文偽書説(序文のみが後で付されたものと考えている説)の2タイプがあり、いずれの論者が挙げる偽書説の論拠についても、その有効性がない。
しかも、特に(2)の論者の立脚点は、「序文」への疑義、すなわち、序文には和銅五年の成立と書かれているのに正史にその成立について書かれていないという事である。
このように序文偽書説が「同時期の他の文献、特に正史に名が見えない」という非論理的なものに根ざしていることは明らかである。(言うまでもないが、同時期の他の文献にその名が見えないからといって、『古事記』序文の方が誤りだとは断定できない)
さらに、三浦佑之氏『古事記講義』は、序に登場する成務天皇、允恭天皇の記事を挙げ、「古事記本文ではほとんど事績が伝えられていない天皇の、瑣末なというしかない出来事を強調して取りあげるなど、古事記本文をきちんと理解しているとは思えない部分が序文には見受けられ」るというが、成務記には「行政区画の整備」が、允恭記には「身分秩序の整備」が描かれ、むしろ、三浦氏の方が「古事記本文をきちんと理解しているとは思えない」。
こうした冷静さを欠いた恣意に基づく『古事記』理解は初めから破綻しているといわざるを得ない。もう少し冷静に『古事記』と向き合う姿勢が必要である。

投稿: kokoro | 2010/08/12 22:52

どうせ時間をかけて読むのなら、

*矢嶋泉氏『古事記の歴史意識』(歴史文化ライブラリー 260)吉川弘文館

を熟読した方がいいのではないでしょうか?
こちらの著作の方がはるかに論理的に『古事記』を分析していると思いますよ。
三浦氏らの『古事記』論は、確かに刺激的でついつい惹きこまれてしまいますが、面白さに惹きこまれて本質を見誤るのは勿体ない気がします。

投稿: 阿佐美 | 2010/08/13 15:46

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