ハーバート・ビックス著『昭和天皇』
ハーバート・ビックス氏著による『昭和天皇 上・下』(講談社刊)をようやく読了した。昨年、上巻を読み、今年早々には下巻を入手していたのだが、春先から読み始めて一ヶ月ほどでやっとのことで読み終えたのである。
中身が重いものだけに、面白いと思いつつも流し読みはしたくなかったのだ。
著者のビックス氏について、このサイトに紹介がある。
本書は、「日本の戦争戦略の形成と、中国における軍事作戦全般の実行の指揮に積極的な役割を演じた。一九四一年には、天皇と宮廷の側近は、陸海軍の強硬な対米英戦支持者と結んで、太平洋戦争に道を開いた」という立場で書かれている。この見方に賛否は当然分かれるだろうが、著者が自らの立場を明確にしているというのは、読むほうもそのつもりで読むので、好ましいことだろう。
歴史の書は、特に近代となると無数の文献がある。専門家でもその全てに目を通すのは至難の業で、実際にはかなり焦点を絞って研究し文献を渉猟するしかない。
従って、歴史学の素人は文中に引用され参照される文献の質量に圧倒され、第一次・第二次資料に当たって研究されている以上、とりあえずであっても、他に明確に新たな事実や資料や史観によって否定されない限りは、つい脳裏に著者の主張が刻まれやすい。
だから、本書で特に焦点を合わされている昭和天皇の戦争責任の有無について、ビックス氏があるという立場で本書を書いていることを常に念頭において、本文の内容をを吟味しえるわけである。
ついでながら、小生の日本人や天皇の戦争責任については、今年初めに亡くなられた藤原彰氏の「日本人の戦争認識」(注)に言い尽くされている。
その上で更に本書の概要を見てもらいたい。著者・訳者の紹介もある。
その中に「日本の読者へ」という本文が引用されている。ここでも一部を再引用させてもらう:
「天皇は、昭和時代に起きた重要な政治的・軍事的事件の多くに積極的に関わり、指導的役割を果たした」が、それは単純なものではなく、「その指導性の独特な発揮の仕方は、「独裁者」か「偲偶」か、「主謀者」か「単なる飾り」かという単純な二分法では理解できない」のであり、「天皇が全権を握ったり、独力で政策を立案したりすることはなかったが、天皇と宮中グループは、内閣の決定が正式に提出される前に、天皇の見解や意思が決定に盛り込まれるよう尽力した。そして、天皇の賛否こそが決定的だった」という。
戦争の末期から戦後についても、「日本政府もアメリカ政府も、それぞれの思惑から、戦時中の天皇の役割をあいまいにするため、多大な努力をしなければならなかった。日本国憲法下に天皇を在位させたこと、以前の政策決定に果たした役割を追及しなかったこと、戦犯裁判の可能性から救ったこと、それらが結局は、さらに多くの問題を生み出す結果となった。こうして歴史の事実が歪められ、戦争と降伏の遅延をもたらした政策決定過程の解明が妨げられ、日本の民主主義の発展も制約された」という。
その上で、「本書が政策決定のプロセスに焦点を当て、日米両政府が昭和天皇を欺隔の構造の中に埋め込んだその方法を述べたことによって、現代日本の手づまり状態の理解が深まることも望んでいる」と著者は言う。
著者は、昭和天皇の免責には当然異議を持っている。が、同時に極東裁判で各級戦犯を死罪にしておきながら最高責任者たる天皇本人を免責にもっていった日本とアメリカ各々の欺瞞にも厳しい批判を向けている。
このことは、「現代日本の手づまり状態」と無縁ではないと著者は言うのである。
日本はバブル経済の後遺症に苦しんでいる。失われた10年どころか、まだこの先10年は沈んでいきそうである。何故、根本的な対策が打てないのか。それはトップが責任を持たない土壌というか雰囲気が戦後、醸成されてしまったからではないか。
ビックス氏は言う、「日本の指導者たちは、バブル経済崩壊への対応と、銀行の経営陣、大蔵省の役人、周辺の利権屋たちの癒着が引き起こした不良債権問題への対策に追われていた」にもかかわらず、「高級官僚や経営トップに対する刑事罰を含む民主主義的な説明責任制度がない日本では、政権与党は公共の利益より既得権益の擁護を優先してきたのである」
トップに対する責任追及のシステムがない日本というのは、戦後、一貫しているのだ。バブル経済当時の旧大蔵省も金融界・財界のトップも政界の権力者も誰一人、責任を取らない。他人事のように見つめている。苦しみと自己責任は、部下や一般庶民に押し付けられる。
それは当然である。彼らの先輩の、あれだけの戦争の悲惨の責任を取らない姿勢を見つめてきたのだから、自分達が責任を取る発想など、思い浮かぶはずもないのだ。
また、事の良し悪しを抜きに、とにかく経済的成長至上主義で走ってきた。没価値観とは言わないが、価値観の反省については戦後はずっと、全くの素通りで来たのではないか。
しかし、このことは、彼ら指導者だけの問題ではないように思われる。決定的な失敗や非道に関与しても、何かうやむやにしてしまう精神的退廃あるいは無責任とも言うべき姿勢が土台にある民主主義を民主主義だと思ってきた戦後の我々。経済的繁栄と右肩上がりの成長にしか価値観を置けない、他に創造的なビジョンを描く習慣など皆無だった我々に、経済至上主義に代わるビジョンなど、持てといわれても急には無理な話なのだ。
責任を追及しても、必ずうやむやにされてしまう、どうせ失敗しても自己責任という名目で実際には弱い立場の人々にしわ寄せの来る社会に、将来展望が開けるものだろうか。希望をもてというほうが無理があるようにさえ思えてくる。
民主主義とは何かかなど、小生などにいえるはずもない。ただ、仮に誰かが民主主義を標榜しているとしたら、その本物さの度合いを、自らが責任を負う、他人に責任を押し付けない、自分の意見を持つ、自分の意見を明確に言える、そういった基準から測ることくらいはするかもしれない。
どんな失敗や犯罪にも言い訳の種はある。俺があんな碌でもないことをやったのも、時代のせいだ、周りの奴等や環境(欧米列強の植民地主義や帝国主義、覇権競争、非道な外交的圧力云々)が悪かったのだ…、云々。
けれど、そんな発想では、いつまでたっても、生煮えの民主主義、誰も責任を負わない、顔の見えない民主主義のまま、根腐れを待つだけの事なかれ主義のままであるに違いない。
さて、本稿において先にも示したように、昭和天皇に戦争責任があるという立場で本書が書かれているのだが、実は、本書において著者はそれ以上の課題を追求している点にこそ、特色がある。
その特色とは、「本書は、敗戦国の元首が、間接的にせよ著しい暴虐に加担したのに、処罰をまぬがれ名誉と権威のある地位に留まることを許された場合、その国がどうなるかの研究でもある」という点なのである。
本書は、戦後日本の民主主義を考える上でも参考になる文献だと思う。
尚、余談だが、南京大虐殺があったのかなかったのか、あったとしてその人数は何人かが話題に上ったりするが、そもそも、日本軍が行った悪名高い三光作戦(「殺し尽くし、奪い尽くし、焼き尽くす」作戦)などにより日中戦争で殺された中国人(軍人・民間人を含む)の数は、一千万人を遥かに超えると言われている(姫田光義著『「三光作戦」とは何だったのか』岩波ブックレット刊)。
この点を含めて、日中戦争を振り返っておいてもいいだろう。
ついでながら、戦後の日本を振り返る意味で、ジョン ダワー著の『敗北を抱きしめて 上・下』(上巻=三浦 陽一・高杉 忠明訳、下巻=三浦 陽一・高杉 忠明・田代 泰子訳、岩波書店刊)も読まれるといいだろう。
既に小生も紹介済みである。
(03/04/29)
[(注)惜しいことに、文中の「日本人の戦争認識」という頁は消滅しているようである。代わりに、小生は未読なのだが、故・藤原 彰著『昭和天皇の十五年戦争』(青木書店刊)の存在を示しておく。
故・藤原 彰氏については、林 博史氏による「追悼 藤原彰先生」を覗いてみてほしい。
本書『昭和天皇』を読んで愕然としたことがある。迂闊にも、小生には初耳の事実だった。
つまり、戦後間もなく、「1947年9月19日に昭和天皇の御用掛の寺崎英成という人が,マッカーサーの新しい政治顧問のウィリアム・J・シーボルドに対して,いわゆる天皇メッセージという内容のものを提出するのです。その会談記録が1979年に発見されましたが,それが沖縄の世論をかなり刺激しました。内容としてはアメリカに例えば25年,あるいは50年間,沖縄を占領してもいいというような話」である(「第137回沖縄問題研究会」より)。
自らの戦争責任をまるで顧慮しない、性懲りのない姿勢である。沖縄を私物であるかのように、扱いについての考えを提出するなんて。
但し、上掲サイトによると、「わたしはその天皇メッセージの中のもう1つの言葉の方が重要であると思います。すなわち天皇は沖縄が日本の一部であり,日本の主権下に置くべきということも主張している」、つまり「外務省にしても,天皇周辺にしても,アメリカがどうせ沖縄をずっと占領したい,あるいは基地を置きたいというのなら,最悪のシナリオである沖縄の分離を避け,基地権のみを提供する取り決めをした方がいいのではないかというようなことを考えていたのではないかと思っています」というのだが、そんな深謀遠慮が外務省や天皇周辺にあったものかどうか。
ジョン ダワー著『敗北を抱きしめて 上・下』については、ネットでも書評を数多く見ることができる。たとえば、「ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』」など。]
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