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2005/04/08

坂口安吾著『桜の森の満開の下』

 坂口安吾著『桜の森の満開の下』(講談社文芸文庫)を読んだ。本書は、表題作を含む短篇集である。例によって、本書の謳い文句を掲げておく:
 
 なぜ、それが“物語・歴史”だったのだろうか――。おのれの胸にある磊塊を、全き孤独の奥底で果然と破砕し、みずからがみずから火をおこし、みずからの光を掲げる。人生的・文学的苦闘の中から、凛然として屹立する“大いなる野性”坂口安吾の“物語・歴史小説世界”。
                           (転記終わり)

 本書を読んで、改めて坂口安吾の歴史への造詣の深さや拘りを再認識した。さすがは、『日本文化私観』をモノするだけのことはある。作品にも歴史に仮託した物語が多い。
 さて、彼に付いて触れるべきことは多い。

 言及すべきこと、例えば、『不連続殺人事件』という探偵小説作家としての安吾や、「伊東競輪場でのレースの判定に疑問を抱いたことから競輪事件に発展。自転車振興会を相手に「光を覆うものなし-競輪不正事件」を書く、正義漢としての安吾、『堕落論』『続堕落論』『デカダン文学論』など、エッセイトとして、あるいは文明批評家としての安吾、あるいは『肝臓先生』に見られる人情味溢れる安吾…。
 ちなみに『肝臓先生』は伝記作品で、戦中に日本を脅威に陥れた流行性肝炎が背景にある。先年、今村昌平監督により柄本明主演で「カンゾー先生」として映画化されたことを知る人も多いのでは(テレビでも、この映画は放映された。もっと、話題の主になっていい人物の一人だ)。
 モデルとなった肝臓先生こと佐藤清一のことは、下記サイトに詳しい。是非、一度、目を通してもらいたい:
佐藤清一 孤軍奮闘たった一人で”流行性肝炎”と戦った肝臓先生  酒井嘉和

 他にも、父は大物議員だった安吾(それゆえの確執)、また、子供の頃は、ガキ大将だった安吾、持病が膀胱結石だった安吾、母との苛烈な憎悪関係に苦しむ安吾、矢田津世子との恋に苦しむ安吾…。
 この恋の話に興味のある方は、下記サイトを御覧下さい:
坂口安吾と矢田津世子
安吾の略歴

 が、ここでは、表題作に鑑み、「桜」を巡って、いろいろ書き綴ってみたい。
 桜というと、「檸檬」や「闇の繪巻」、「Kの昇天」などの作家・梶井基次郎の「櫻の樹の下には」を即座に思い浮かべる方も多いだろう。小生もその一人である。桜の樹が美しいのは下に死体が埋まっているからであるという妄想のもたらす顛末。
 この31歳で亡くなった作家のことは、いずれまた触れる機会があるだろう。
 さて、坂口安吾の「桜の森の満開の下」も、桜の木についての、独特な想念それとも妄念が前提としてある作品である。桜の木には死の臭いが漂っている…。そうした観念は、古来よりあったのだろうが、明治以降、特に昭和の前半までは強かったようである。
 それは言うまでもなく、桜が幕末の頃から武と結び付けられたからであった。咲くときはパッと咲き、満開になったと思ったら、その盛りの時期も短く、あっという間に潔く散ってしまう桜の花びら。そこに(結果的にではあろうが、命を粗末にすることに繋がってしまう軍国主義の脈絡での)武に必要な潔さを読み取ってきたのだった。
 やがて明治以降は、学校の庭などに桜の木を植えていくようになった。それはつまりは日本人に桜の美(開花の美より散る美学)と共に桜の観念を植え付ける狙いがあったようである。その極が、特攻隊のシンボルとしての桜のイメージの活用であろう。「桜花」という名の人間爆弾でもあった特攻機を思い出される方もいるのではなかろうか。
 本居宣長の <大和魂>を謳ったとされる『敷島の 大和心を人とはば 朝日に匂う山桜花』は小生でさえ暗唱できる有名な歌だが、神風特別攻撃隊(特攻隊)の4つの部隊にそれぞれ隊名を選択し、敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊と名づけられたことも忘れてはならないと思う。
 その故か、「意匠が軍国主義、神道等の象徴に関係ある郵便切手及び郵便葉書使用禁止に関する省令(昭和22年逓信省令第24号)」において、「盾と桜の意匠の三銭郵便切手」が対象に含まれたりした。
 
 その間の桜のイメージの変遷の経緯や歴史は、下記の本に詳しい:
 大貫恵美子著『ねじ曲げられた桜―美意識と軍国主義』(岩波書店刊)
 ちなみに、下記サイトに拠り本書の要旨を紹介する:
「日本の国花である桜は、一九世紀末より、「祖国、天皇のために潔く散れ」と兵士を死に追いやる花となり、太平洋戦争敗戦の直前には特攻隊のシンボルとなった。著者は、明治の大日本帝国憲法をはじめ、軍国主義の発展を分析する一方、特攻隊員の遺した膨大な記録を読み解き、桜の美的価値と象徴によるコミュニケーションに常に伴う「解釈のずれ」を中心に、どのように「桜の幹」がねじ曲げられてきたのかを検証する。平和への願いを込めた、人類学の見事な成果」

 下記サイトによると、桜が武のイメージを持っていることは、昭和天皇も認識していたという:
文化勲章 Order of Culture

 このサイトによると、「文化勲章は、日本文化の固有の長所を確立し、時勢の進歩に応じて一層その精華を発揚し、科学、芸術などの文化の発達に関して偉大な貢献をなした男女に与えられる」ものだが、与えられる文化勲章のデザインは、淡紫色の橘である。
 当初の図案では、「日本文化を表すものとして桜の花が予定されていたが、「桜は昔から武を表す意味によく用いられているから、文の方面の勲績を賞するには橘を用いたらどうか」との昭和天皇の思召しにより、橘の花に曲玉を配する図案となったという(『増補皇室事典』(井原頼明著、冨山房、昭和13年)233頁)」のだとか。
 橘については、「昔、垂仁天皇が常世国(とこよのくに)に橘をお求めになったことから、橘は永劫悠久の意味を有しており、散るという印象のある桜よりも適当であるとのことであ」り、まさに文化を顕彰するに相応しい花というこ
となのだろう。
 戦後は、桜というと、平和日本を象徴する花ということで、戦争や、まして武のイメージとは程遠い受け止め方をされている。それでも、パッと咲き、パッと散る潔さという美学・美意識・美の観念が思わず知らずのうちに刷り込まれているということは否めないように思われる。
 まして、戦前は、軍国主義そのものの象徴で、桜の木や花びらに誰もが死の臭いを嗅ぎ取るしかなかったわけである。

 文中、流行性肝炎の話題が出てきた。これは戦中の日本に蔓延したのだが、近年もA型、E型 C型肝炎などの発症例が頻発している。こうした最近の肝炎の多発というのは、戦後の一時期、輸血、つまりは汚れた血(黄色い血)の採血、というより売血が当座の生活資金稼ぎのために広く行われたせいのようである(供血者に麻薬、覚醒剤常習者が多かった!)。その悪影響が相当の時間を経て、今、症状として現れているわけだ。だから、自分は手術を受けていないとか、輸血の機会は持ったことがないという人でも、肝炎の症状が現れることもありえるわけである:
肝炎シンポジウム   -第2の国民病「C型肝炎」の実態を暴く!-

 さて、最後になるが、坂口安吾の「桜の森の満開の下」の物語の粗筋などを下記サイトで知ることができる。
 こちらのほうが、よく分かる解説というか、見てよく分かるストーリー解説かもしれない。それに見ていて愉しい(?)ような…:
 「@@ 明 治 大 正 昭 和 擬 古 (復刻版) ##」より
 紅白FLASH合戦(2002/12/26~12/31)紅組参加作品

                            (04/05/23)
[ 今、ブログにアップするに際し、読み返してみて気付いたことは、書評の対象であるべき坂口安吾著『桜の森の満開の下』の内容に全くといっていいほど、触れていないことである。みんな他のサイトに下駄を預けている。専ら、桜談義に終始している。これでは書評エッセイのサイトに載せるのも憚られるが、そのうち、坂口安吾の世界に立ち戻る機会もあろう。その時には、この雑文に手を加えたいものである。
 さて、幕末乃至は明治維新以降、日本を象徴化するイメージに使われた桜。が、この桜も、ある特徴的な桜の種類の開発と見合っていた。ソメイヨシノである。そう、単に桜と呼称しているだけでは、桜と言っても種類があれこれあることを思うと、大雑把に過ぎると今になって反省している。 (05/04/08 追記)]

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受信: 2005/05/04 21:49

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