小田島雄志著『駄ジャレの流儀』
今朝(16日)、車中でラジオ(NHK)を漫然と聞いていたら、話題は駄洒落の話。小生の好きな話題である。Mアナウンサーがさる方にインタビューする形で話が進んでいる。結構、間に駄洒落が飛び交う、スリリングな展開。
一体、誰へのインタビューなんだろうと訝しんでいたら、その相手とは、小田島雄志氏だった。真っ先に思い浮かんだのは、ああ、あの『駄ジャレの流儀』の…であった。
『シェークスピア全集Ⅰ~Ⅷ』の翻訳で1980年度芸術選奨文部大臣賞を受賞され、さらに95年には紫綬褒章も受章された英文学者である小田島雄志氏なのに、真っ先に浮かぶのは『駄ジャレの流儀』(講談社刊)だというのは、氏に失礼だが、ま、聞いていたのが小生だったのだから、教養の問題からして仕方のないことだ。
さて、扱う題材がダジャレだけに、できるだけ真面目にこのエッセイを続けることにしよう。
この名著についてはかなりのことが語られている。例えば、「現代日本語におけるダジャレの研究」なる論文を上梓されている坂本千草氏が、「ダジャレの研究」という頁において、丁寧に分析されている。
坂本千草氏によると本書は、ダジャレの研究書ではない。
「駄ジャレの分類」がされているが、それは「小田島氏自身のダジャレに関する体験、知識をもとに分類されたものなので調査に基づいての研究は全くなされていない上での分類」なのだと指摘する。
全くその通りである。ま、気軽に読んで下さいということなのだ。
また、小田島雄志氏が、本書が刊行された年(2000年)、古希を迎え、「演劇人など三百数十人が集まって祝ってくれた」際のエピソードを語ってくれている。
この席には、市川森一氏、安達英一氏、井上ひさし氏、筑紫哲也氏、吉行和子氏、加藤剛氏と多士済済の方々が駆けつけている。中でも、井上ひさし氏の「「小田島さんは古希になられたそうですが、私はすでにコキュでして……」と、わが身を斬るような駄ジャレから始まった。」という駄ジャレは傑作である(コキュって、分かるよね??)。
が、比較的、そんな駄ジャレなど、やってられるかという思いの方もいたのではなかろうか。そんな方には、気まずい思いもされ、ギャグを飛ばさなければ堅苦しい奴だと思われるかもしれないなどと、プレッシャーが掛かったりして。
みんな、プレジャーは好きだが、プレッシャーは好きじゃないだろうし。
翌年の年賀状には苦心惨憺の末の駄ジャレが書いてあったというが、さすがに駄ジャレの帝王(?)である和田勉氏の「我笑」(もちろん、賀正のパロディー。がちょーん!じゃないし)に敵うはずもない。
駄ジャレの素人は下手に手を出すと火傷する恐れもあるのだ(ちょっと大袈裟かな。ま、恥を掻く恐れは勿論、顰蹙を買う恐れは多分にある)。
小生自身の駄洒落論は、以前、書いたので、ここに繰り返さない。なんといっても、今回、本書の感想文を書くに当たって、ネット検索の結果、坂本千草氏なる人物によるダジャレについてのきちんとした研究を発見した以上、尚更、小生如き者の出る幕ではない。
それにしても小生が思い出すのは、大学時代に受けたシェイクスピアの「マクベス」の授業だ。原書を一年間掛けて読み通すのだが、小生にとって最高に楽しい授業だった。あれほど英語が楽しかったことはないし、英語の原書を楽しく読めたこともなかった。シェイクスピアの戯曲が、言葉遊びの極であり、言葉の意味が輻湊しているのに、それでいて、ジェームズ・ジョイスのようには息苦しくないのだ。
あと、一年、そうした授業があれば、英文学に転向したかもしれなかった。でも、その後はあまりええこともなく、時局に恵まれることもなく、今日に至っている。
さて、肝心の本書の中身にまるで入ることなく感想文を終えるのは、面目ない。こうなったら、意地でも最後まで表面的な感懐に終始したい。
駄洒落や言葉遊びというと、柳瀬尚紀氏を思い浮かべる方も多いだろうが、ここでは、戸板康二氏に登場願おう。なんといっても、戸板氏の駄ジャレが本書の帯に使われているのだから。
その帯には、「勇志さんの勇姿、拝見しました。You See? 」とある。
(03/04/17)
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