アブダルハミード著『月』
扱う本は、シリア人であるアマール・アブダルハミード著の現代小説『月』(日向るみ子訳、アーティストハウス刊)である。
恐らくはアマール・アブダルハミードという名前を聞いても、ピンと来る方は少ないだろう。
小生も、たまたま昨年、新聞の書評で扱われているのを見て、ほとんど好奇心で読んだだけなのである。従って、予備知識はまるでない。新聞の書評が全てである。
書評では、「85年の東京国際女子マラソンで、東独の一選手が股間を朱に染めて街を掛け抜けたことを」という文章から始まっていた。書き手は詩人の矢川澄子氏である(矢川澄子氏については末尾の注を是非、参照願いたい)。
続けよう。「解説者は言葉を失った。あれはおそらく経血というものがテレビに映し出された最初ではなかったか。成人の半数の悩みの種である月経は事ほど左様に黙殺されてきた」
小生も、テレビでその映像を見た。生々しい映像であり、こんな画面をテレビが流していいものか、戸惑った。暗黙の世界のものであり、現実に起きている事態なのだが、表立っては語れない事柄であった。
そう、本書の原題(英語)は「Menstruation」なのである。
直訳すると、「月経」となる。直接は名指しできないその事柄を、「月のもの」などと婉曲表現することがあるが、訳本のタイトルは、まさに「月のもの」を意味する『月』なのだ。
しかし、だからといって、別に本書が月経に悩む女性の告白本といった類いの本ではない。
そうではなく、欧米から見たら旧態依然たる文化に生きる社会に見えても、実は、欧米に負けず劣らずレズやゲイや、近親相姦や不毛な愛が日常的に繰り広げられていることを、必要以上に露悪的になることもなく描いた小説なのである。
この小説では、そんな人間が現実にいるのかどうか分からないが、匂いに極端に敏感な青年が主要な人物として登場する。
彼は、しかも、よりによって女性のメンスの匂いに異常に敏感なのである。彼は、メンスで血の滲んでいたり、その処理をし終えたりする女性に離れた場所からでも気付いてしまう。
匂いというものは、視覚と違い、視角などない。曲がり角の見えない位置にいる相手であっても、匂いが発している限りは、嗅覚が敏感であれば知覚することが可能である。
これは余談だが、犬の嗅覚は想像を絶するほどに敏感だという。その犬の知覚する世界というものは、一体、どんな世界なのだろう。徹底して犬として嗅覚に拘った世界像を描いたなら、世界はまるで違って見えることだろう。一種の思考実験としても、誰か、その世界を想像の上で描いて貰いたいものだ。
さて、彼は、メンスの匂いに敏感なだけではなく、その匂いの違いの識別も際限なく可能なのである。また、女性が発するホルモンをも感知するから、そのホルモンの出方により、その女性が自分に好意を持っているかどうかも、ハッキリと分かる。
シャイな彼は、その特異な技能を生かさずにきたが、或る日、ある人妻を相手に発揮するに到るのだ。
矢川氏の書評ではないが、「この小説はまったく何でもありの世界」なのである。レスビアンに近親相姦に…。登場する女性の中の一人は、子供の頃に父親に性的暴行を受けた経験を持つ。そのことを知った母親は父親に抗議するが、離別されるに到る。
彼女は、だから一人、傷付いて生きてきたわけである。しかも、望まない相手と親のいい付けで結婚せざるをえなかった。
そんな彼女が、やがて性的な解放の中で、ようやく過去の傷から救われる。何故に救われたのかは、本書を読んでもらいたい。
小生は、乏しい教養と狭い情報源しか持っていない。子どもの頃から読んできた本は、日本の本はともかくとして、ほとんどが欧米の本である。前世紀の後半、南米の文学、東欧の文学、アジアの文学、アフリカの文学と、文学の世界は広がってきたが、依然としてアラブ人の文学や学術成果に接する機会は乏しい。
アラブというと、『アラビアンナイト』をガキの頃、読んだことがあるが、文学的にはそこから毛一本さえ、知識は増えていない。
日本人は閉鎖的な国民性を有すると言われる。明治以降は、和魂洋才で学術的なものを欧米から輸入してきたが、膝元のアジアはもとより、イスラム社会のものも導入を怠ってきた。なんといっても、先進の文化や技術に何よりも関心があったからだろう。
それが行き過ぎて、白人は無闇に尊敬するか畏怖するが、同胞であるアジアの人々に対しては、根拠もなく優越感を抱いたりさせられてきた。まして西南アジア、中東となると依然として、全く、情報沙漠の僻遠の地であり続けているといって過言ではないように思う。
これは自分には完璧に当て嵌まる。学生時代に『コーラン』を読み、『聖書』は本来は中東の創造物であるわけで、それなりに触れているはずなのだが、その解釈や理解の方法は欧米経由であることは否定できない。
このたびの英米によるイラク攻撃で、バクダッドという地名を聞いて、『アラビアンナイト』をかすかに思い浮かべ、ウル文明やメソポタミア文明などを思い浮かべることはあっても、彼らの肉声に接するわけではない。だからこそ、イスラム文学に接したいと思ってきたのだ。
かといって、では今回紹介する作品でイスラム社会が、その一端であっても紹介されているというのは、若干の留保が必要かもしれない。
登場する四人の主要人物のうちの二人、キンダーとナディムは、イスラム原理主義者やCIAから命を狙われるの知識人夫妻という設定である。
また、一人は、先にも書いたが男尊女卑下(だからこそ父親に性的暴行を受けてきた)の不幸な結婚で苦しむ女性ウィサームであり、残りの一人は、特異な嗅覚能力を持つハッサンであり、イスラム社会(その中のシリア)を代表するとは言い難い。
また、書き手であるアマール・アブダルハミードは、アメリカで歴史を学び、一時はイスラム原理主義に傾倒し、その後、故ホメイニ師によるあの『悪魔の詩』のサルマン・ラシュディ暗殺指令を契機にイスラム原理主義に幻滅し、今はシリアで文筆活動をしている、その意味で特異な存在でもある。
彼のようなシリアには危険な人物が執筆活動を許されているのは、欧米への宣伝の意味があるという。シリアは自由な国なのです、こんな作品を書く人物も存在が許されているのです、どうぞ、シリアに投資してください、というわけである。
とにもかくにも、特に日本においてはイスラム社会に関する情報が少なすぎる。この小説に限らず、原理主義や神秘主義が依然として力を持つ(とされる)国々における普通の人々の肉声を多様な形で知りたいし、知るべきなのではなかろうか。
本書のタイトルが「月経」であるのも、男尊女卑や原理主義や神秘思想ばかりが欧米などで論われる非民主的な地域においても、実はタブーだったり抑え付けられている中にあって、人々の血は欧米と同じように流れているのだ、但し、闇の中で密やかに流され始末される経血と同じく、依然として人々の肉声は戒律や原理という固い殻の下に押さえ込まれている、そういった現状を暗示し、象徴するタイトルなのだろう。
そう、月は闇夜に蒼白く輝くが、その密やかな輝きの先には、太陽がある、人々の(特に女性の)煮え滾る怨念や情熱や愛欲があるのだ。
(03/05/06)
[矢川澄子さん…、今回のアップに際し、ネット検索したら、詩人・作家・翻訳家である…あった彼女が既に故人となられていることを知った。今更ながらに小生の迂闊さを痛感する。ここに謹んでご冥福を祈るものである。
「矢川澄子氏の頁」
upに際し、ネット検索したら、松岡正剛氏も本書『月』を千夜千冊で扱っているのことを知った。
『月』についての松岡氏のこのサイトで読んでいただくとして、著者であるアブダルハミードの紹介の部分だけ、転記させてもらう:
作者のアマール・アブダルハミードは1966年にシリアのダマスカスに生まれた。父親が映画監督、母親が女優。3歳でカトリックの全寮制の学校に預けられ、長じてダマスカスの私立学校に入った。1983年に卒業すると宇宙飛行士になりたくてモスクワに行くが、ソ連の空気になじめず、8カ月で挫折した。
帰ってきたアブダルハミードは、やがてイスラム原理主義に惹かれるようになり、その信念を抱いたままアメリカに渡ってウィスコンシン大学に入った。アメリカに行ってみて、あまりにアラブ・イスラム社会に対する偏見が強いことにショックをうけ、イスラム共同体にとけこみながらも、イスラム思想やイスラム文化を欧米に叩きつけることを好むようになる。
ところが、1988年に発表されたサルマン・ラシュディの『悪魔の詩』に対してホメイニ師が“死刑”を宣告したことをきっかけに、イスラム原理主義にも疑問をもつようになった。その後はアメリカからダマスカスに戻り、小さな出版社をおこしているうちに、小説を書くようになった。この作品が処女作である。
(転記終わり)
(05/04/30 up時補記)]
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