立川昭二著『江戸病草紙』
季語随筆日記「竹の秋…竹筒のこと」の中で、立川昭二氏のことに言及した。なので、メルマガでは公表したがHPなどでは未アップの「立川昭二著『江戸病草紙』あれこれ」をこのブログサイトに載せる。
せっかくなので、若干の補足もしておきたい。
「Amazon.co.jp: 本 江戸 病草紙―近世の病気と医療」より、出版社側の宣伝文句を:
江戸時代を生きた人びとは、病気をどのように見つめ、それとどのようにつき合ってきたのだろうか。彼らはいかなるむごさとやさしさのなかにあったのだろうか。この時代、もっとも恵まれていた将軍の子女でさえ、大半が乳幼児期に死亡し、ひとたび疫病が猛威をふるえば大量の死者を算し埋葬さえおぼつかなくなったが、その痛苦と畏怖の彼方にはいのちの痛みをわかち合う「文化」があった。過去の痛みを追体験し、現代において病むことの意味を問い直す力作
(転記終わり)
さらに、目次などを:
お松の場合
馬琴の場合
庶民の証言
外国人の証言
飢餓と疫病
異常気象とインフルエンザ
痘瘡
梅毒
結核
コレラ
食生活と病気
寄生虫病と風土病
女と子どもの病気
精神病
鉱山病
医療環境
平均寿命―どれだけ生きられたか
原題:「立川昭二著『江戸病草紙』あれこれ(前)(04/03/31)」
立川昭二著『江戸病草紙―近世の病気と医療』(ちくま学芸文庫)を読んでいる。立川氏の本は久しぶりである。学生時代には、好きで折々読んでいたものだった(拙稿「立川昭二から翁草へ」参照)。
本書の裏表紙には、次のような謳い文句が見られる:
江戸時代を生きた人びとは、病気をどのように見つめ、それとどのようにつき合ってきたのだろうか。彼らはいかなるむごさとやさしさのなかにあったのだろうか。この時代、もっとも恵まれていた将軍の子女でさえ、大半が乳幼児期に死亡し、ひとたび疫病が猛威をふるえば大量の死者を算し埋葬さえおぼつかなくなったが、その痛苦と畏怖の彼方にはいのちの痛みをわかち合う「文化」があった。過去の痛みを追体験し、現代において病むことの意味を問い直す力作。
(転記終わり)
小生はこうした本を読むのが好きなのである。内容からすると、好きというのは不謹慎かもしれないが、関心を引いてやまないのは確かなのだ。本書については、既に「回向院のこと」という雑文の中で触れている。内容(目次)は、そちらを見て貰いたい。
さて、今回は、本書の中から、「食生活と病気」の章に注目してみる。
中に「食あたり」という項がある。本文にもあるが、「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」が最後の句となった芭蕉も、最後の死因は「泄痢(せつり)」で、食あたりだったという。
余談だが、徳川家康は、天麩羅などを食してお腹をこわしたと、昔、聞いたことがあった。但し、徳川家康天ぷら死亡説はデマのようで、油で揚げた鯛(空揚げ)を食べたらしいが、それが原因で死んだとは言えないようである。
余談はともかく、食べ物への執着は、今以上に大変なものがあったと思われる。食品成分などを科学的に分析する方法があったわけでなく、全ては経験に頼るしかなかった。知識は言い伝えとか口コミによるものが多かったと思われる。
当然ながら、食べ物に関することわざも数知れずあったようである。
本書から引用する。「江戸時代から明治時代にかけて民間に流布していた「妙薬いろは歌」にも、「物食うて中りしときは早速に、ひるもを煎じ飲むで妙なり」とあ」ったという。
ヒルモとは、眼子菜なのだとか。
他にも、庶民向けの食品解説書として、中村藩の藩医川村一甫の『養生喩解草(ようじょうたとえときぐさ)』がこの項にて紹介されている。
「それぞれの食物についての医学的注意を、たとえば次のように、平易に語りきかせる」として、以下、例示されている。再引用させてもらう:
蕨 常に食えば五蔵の不足を補い、水道を利す。病人小児は食ふ
べからず。多く食へば目を損ず。
南瓜 中を補ひ、気力を益す。多く食へば脚気黄疸を発す。
茄 女人の子宮を傷(やぶ)る。多く食へば目を損ず。
牛 脾胃を養ひ、気力を益し、腰脚を温む。病死せる牛は毒あり。
葛粉(くずこ)渇を止め、大小便を利し、酒毒を解す。妊婦は食ふべか
らず。
鱒魚(ます)中を温め、気を壮にし、寸白虫を治す。多く食へば風熱を
動し、疥癬を発す。
牛蒡 五蔵の悪気を去り、手足の不健を治す。中風脚気咳嗽疝気積
聚を治し、経脈を通す。
蒟蒻 小毒あり。癲癇を生ず。病ある人食へば其病発す。小児は食ふ
べからず。
胡瓜 小毒あり。小児もつとも忌むべし。小便不利のもの食ふてよし。
汁を貯えて火傷へ付けてよし。
醤油 百穀を消し、一切の魚肉菜箪類の毒を消す。
西瓜 渇を止め、暑熱を消し、喉痺口瘡を治す。是にあたりたるは蕃
椒(たうがらし)の汁を呑てよし。
(上記の文章を転記するだけで精魂尽きた。続きは後日に)
「立川昭二著『江戸病草紙』あれこれ(続)(04/05/15付けメルマガにて公表)」
引き続き、立川昭二著『江戸病草紙―近世の病気と医療』(ちくま学芸文庫)を扱う。
前回、本書の中で引用されている中村藩の藩医川村一甫の『養生喩解草(ようじょうたとえときぐさ)』から、あれこれの食べ物についての<医学的注意>を平易に語り聞かせた文言を紹介した。あるいは巷間、一つの知恵として流布していたかもしれない。
言うまでもなく、筆者も「ここでキウリに小毒があり、ナスは有毒であると記されている。これは中国の本草学の影響だが、今日からみると誤った指摘や無意味な言及もある」と断っているように、今の我々からしたら明らかに首を傾げたくなる注意もある。
しかし、「当時は、一つの食物について一定した常識というものはなく、今日以上にさまざまな意見が言われ、伝えられ、信じられていた。それは、ときに食物が命と引換えになるだけに、人びとが必要以上に神経質だった証拠だともいえる。」わけである。
現代でも、毎日、テレビやラジオ、新聞、雑誌、あるいは口伝に健康情報が伝えられている。食品その他についての情報は、科学的研究に基づいているのだろうけれど、溢れるほどであり、反って混乱さえ起こしかねないほどである。
それでも、情報の洪水は治まる気配はなさそうだし、むしろもっと激しくなると思うのが常識だろう。江戸時代などとは隔世の感のある健康情報の量と質。なのに、多くの人は満足はしていないし、病に効く薬や食生活についての耳よりの情報となると飛びつくのである。
さて、江戸時代の食物についての<医学的注意>などを何故、今更、紹介したかというと、当時の食生活などの混乱ぶりをどうこうということではなく、われわれが安易に日本人は昔から、健康的な食生活を送ってきた、一時期は洋風な、つまり脂っこいような食物に偏ったり、ファストフードに走り勝ちだったけれど、本来の日本人の昔ながらの食事こそが実は健康に資していたのだという言い方に抵抗感を覚えるからなのである。
ワカメや菜っ葉などの味噌汁と、野菜たっぷりの総菜のうちの一品、御飯、お新香というつつましいかもしれない食膳は、実はとても健康的だったのだという言い方が気になるのである。
こうした食材、食べ物の並びが毎日、三食、食べられたはずがないのだ。
そもそも、大多数の農家にしたって、自分のところで作った米などは、大概が税として徴収され、稗と粟などを主食に、芋などを副食として食べられれば、御の字だったのである。それも、農家は一日二食だったと言われる。
野菜にしても、何を食べればいいのか、何は食べてはいけないのか、何と何の組み合わせだと可か不可かは分からないままに、俗説や先人の<知恵>に頼るしかなかったのである。
和食の長所が評価されるとしたら、過去の不安に満ちた知恵以上に、日々の研究と失敗の積み重ねの果てに、やっと今になって行われているのだということを思ったほうがいいと思う。
小生の好きな作家・池波正太郎が描くような、そんな理想的な和食の姿など、あってほしいとは思うけれど、現実は想像を絶するほどに厳しかったのではないか。
第一、飢饉となれば、食べるものさえ、手に入らない。旱魃などがあると、あっという間に数万人の死者を数えるのが普通だった。
また、衛生観念など、無きに均しい。手を洗って食卓に向うなど、余程、上流階級の家庭にあったのどうかという程度だろう。
食器を洗うという発想法も、江戸時代にあったのだろうか。
何かの折に、冗談めかして、よく、ナマコのような気色悪いものを食べる、あんなものを最初に食べた奴を尊敬するよ、なんて、聞く事がある。
確かに、見た目にナマコなどは気持が悪い。しかし、餓死を目前にしたら、口に入るものは何でも口にしたのだ。木の皮だって根っ子だって、泥だって口に放り込むし、泥水だって啜ったのだ。飢える者には、ナマコを口にする奴など、贅沢に思えたに違いないのである。
和食も、今日、新たに創造されつつあると思うべきだろうと思う。伝統は大切だと思うが、それは、日々、研究し学び工夫され、創り上げられるものなのではないか。
江戸の昔は、子供には幼名などがあった。元服を期に改名したりする。それは、恐らくは、子供の死亡率が極めて高かったことと関係していると思う。乳幼児の死亡率は50%とも言われたりする。
食生活が貧しかったこと、疱瘡や麻疹などの伝染病には打つ手がなかったこと。移る(伝染する)とは、場合によっては経験的に知っていたが、そのメカニズムなど分かるはずも無かった。隔離が唯一だったのかもしれない。本来、伝染していない人も、隔離され絶命したことも多かったのではないか。
下記サイトによると、子供の死因として幾つか挙げている。
一つは、「疱瘡(天然痘)や麻疹(はしか)などの伝染病である」(これは、裏返すと、「教育水準や衛生水準、栄養水準が低かったこと」とも関連する)。
さらに、「将軍家や大名家の乳幼児死亡率の異様な高さの原因のひとつとして、鉛中毒が挙げられている」。つまり、「当時の白粉には鉛(一部には水銀)が含まれていたのだ。なまじ生活水準が高いため、正室も側室も化粧には高価な白粉をたっぷりと使う。そのため、体の小さな乳幼児は簡単に鉛中毒になり、死亡したとみられている。」というのである。
また、「もうひとつの原因は、繰り返された近親結婚であろう」という。下記サイトに具体的に書いてある。家柄や血筋が今とは比較にならないほどに大事にされた封建の世なればこそなのだろうか:
「ごまめの小唄」永井義男氏
ちなみに、時代小説家永井義男氏のエッセイは面白い。
下記のサイトは、本書などを使いながら、江戸時代の寿命の話を紹介している。関連する箇所を引用すると、「速水融は信州諏訪地方の宗門改めの人別帳をもとに、2才児の平均余命を求めている。それによると、寛文11(1671)年から享保10(1725)年のそれは男36.8才、女29.0才、享保11(1726)年から安永4(1775)年になると、男42.7才、女44.0才である。即ち乳幼児死亡を除くと人生50年に近づいている。」という:
「老化の科学入門」
さらに、「立川は歴史上の人物について1964年以前の500年の平均死亡年齢計算している。戦国時代:60.4、江戸時代前期:67.7、江戸時代中期:67.6、江戸時代後期:65.2、明治大正時代60.6、昭和時代:72.0となり、若い死亡率の高い時期を過ぎると結構長生きをしていたことが分かる。」とも、本書などを元に記している。
よく、昔の人は丈夫だった。江戸と上方とを徒歩で往復した、などいう話を聞くことがある。これは嘘ではないのだろう。
が、実際には、多くの乳幼児が死亡する中、丈夫な子どもだけが生き残り、生き延びたからなのだという現実も見ておく必要があろう。
伝統は大切だが、それは日々、新たな知見で見直され工夫が加えられることを前提にしないととんでもない勘違いを起こすのではないか。そんな気がするのである。
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