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2005/04/30

野間宏著『暗い絵 顔の中の赤い月』

 別頁に扱うのは、野間宏著『暗い絵 顔の中の赤い月』(講談社文芸文庫)である。
「赤い月」というと、なかにし礼著『赤い月』を若い人などは連想するかもしれない。「日本の中の中国・赤い月」を参照させてもらうと、「旧満州の夕日は、真っ赤に燃えるような輝きを発しながら地平線に沈み、見る者の心に焼き付く。そんな雄大な風景を、なかにし氏は「太陽がまだ中天にあるうちから赤々と色を帯び始める。……地平線に降れる時には、あたりの空は黄金色になり、大地の水分をすべて蒸発させてしまいそうな勢いだ」と表現している。それほど大陸の夕日は心象風景として心に刻み込まれる」ということのよう。
 但し、同サイトによると、なかにし礼著の『赤い月』の表題「赤い月」は、「「ヨハネの黙示録」第6章にある「第六の封印を解き給ひし時、われ見しに、大なる地震ありて日は荒き毛布のごとく黒く、月は全面、血の如くなり」から」だという。
 推測になるが、野間宏著の『顔の中の赤い月』は、、「「ヨハネの黙示録」第6章」の転記させてもらった一文からイメージを借りて来ているのだと思う。
 余談だが、上掲の「日本の中の中国・赤い月」というサイトの説明を読んで、なかにし礼著『赤い月 上・下』(新潮文庫)も読みたくなった! 
                         (05/04/30 up時付記)

 野間宏著『暗い絵 顔の中の赤い月』

 作家にとって大切なもの、必要な才能はいろいろあるだろう。文章を綴る技術やテーマを見出す資質。物語性豊かに語れる才能、云々。
 その中の一つに、作品のタイトルを付けるセンスがあると思う。
 その意味で、小生は、野間宏の『青年の環』は嫌いだし、「暗い絵」は、ほどほどで、どうでもいいのだが、「顔の中の赤い月」や「崩壊感覚」や「真空地帯」は好きである。
 もう、これらのタイトルだけで一つの作品ができそうな予感がムンムン感じてしまうのである。才能もないくせに偉そうなことを言うようだが、タイトルが決まると、もう、九十九歩は出来てしまったような気さえするのだ。
 実際には、最後の一歩こそが難儀そのものなのだが。
 それだけに野間の「顔の中の赤い月」や「崩壊感覚」や「真空地帯」はぜひとも読みたいと思っていた。が、なかなか手が出なかった。
 それには、埴谷雄高のエッセイや対談集が影響している。学生時代にそれらを読む中で、小生の中に野間はねばりっこいが、どこか鈍重だというイメージが刻みつけられたのである。それに読んでもいないのだが、『青年の環』などという全体小説を構想する作家なのだから、小生の資質や好みに合うはずもないという思い込みもあった。
[実際、埴谷のエッセイの中で、誰かの作として野間宏をもじった「のろまひどし」という語呂合わせを知ったのだ。これに関連する雑文に「駄洒落研究についての予備的観察(作家名編)」や「作家名を語呂合わせする(続々)」がある。]

 そうこうするうちに、書店からは野間の文庫本は徐々に減っていき、ついには目にすることもなくなった。それどころか、数年前にネットで野間の文庫本を注文したら、品切れということで入手できなかったのだ。
 そこまで人気がなくなっていたということ、なのだろうか。
 それが、今度、違うネット書店で注文してみたら、時間を要したが、なんとか入手できた。正直、意外でもあった。ダメモトの気持ちで注文したのだったから。どうやら最近、増刷されたばかりらしい。ラッキーだったということか。
 この戦後初期の文学界に衝撃を与えた文学史に燦然と屹立する作家の作品にしてこのありさまでは、読書界の層も相当に薄くなっているということなのか。
 尚、小生が読んだのは、『暗い絵・顔の中の赤い月』(講談社文芸文庫刊)である。
 
 さて、実際に読んでみた。車中で読んでいたということもあったが、かなり読みづらい。というより、凡そ、読者サービスという配慮などという発想など、彼の念頭に欠片もないような文章が蜿蜒と続くのである。
 近頃の、改行に継ぐ改行の、よくいえば読者サービス精神に溢れるというか、あるいは現行の枚数を増やそうとする魂胆が露骨なような文章とは大違いである。
 しかし、より重要なのは、一つの問題に一旦、喰らいついたら決して放さないという執念のようなものが希薄になっているのではないか、極端に改行が多いというのは、実は文学精神の、あるいは探求し追及する根性の淡白化の証左なのではないかと思ったりもする。
 しかし、それにしても重い。重苦しいし、鬱陶しい文章である。青年の暗い鬱屈した精神そのままにまるで見通しの効かない文章なのである。鬱血してしまって、情熱や欲望の発散も侭ならず、行き場を失った数兆匹の精子が鼻から耳から口から穴の穴から目からチンポから噴き出しそうな、そんな時代閉塞の雰囲気が濃厚なのだ。
 
 さて、まるで噂話のような回りくどい説明が続いたので、たとえば「暗い絵」とはどんな小説であるかを説明すべきだったのかと思ったりする。小生の下手な説明より、ネットでの分かりやすい説明を参照してもらおう:
 http://www.alpha-net.ne.jp/users2/siotani/HP/bungaku/sakuhin/kuraie.htm
[↑このサイトは、今では削除されて見つからなかった。僅か2年の歳月が変化を齎したということか。 (05/04/30 付記)]
 仲間が反戦や共産主義運動に走り獄死したりする中、自分は安全な場所で安穏としている。彼らに付いて行きたい、しかし、自分には他にすることがあるのではないか…。 
 戦争へ、戦争へと皆が動く時代だった。でなければ、反権力を志して共産主義運動に身を投じる。それが若い者の生きる道なのだ。
 そんな中で、卑怯者の謗りを覚悟しながら、敢えて自分の道を選ぶというのは、苦渋に満ちており、実に辛い厳しい選択だし、覚悟の要る生き方でもあるのだ。
 同時に、自覚的な書き手だった野間は、この「暗い絵」を実験的作品として書いている。つまり従来の自然主義的な表現態度に立脚する文学に満足できず、思想とまでは言わないものの、人生の探求そのものを絡めて描ききろうとしたのだ。
 人生を観察し描くというなら、必ずしも小説として構成に必要以上に拘る必要はない。人生を叙述するという営為そのものが豊かな世界を約束してくれているのだし。
 が、人生を生きる中で、自分が社会と交わろうとし、また逆に社会と関わることにより、その社会が自分に桎梏として圧し掛かっても来るのだが、その絡み合いを描くには、構成も含め自覚的な方法を探究しなければならないのである。
 野間はそうした課題を自らに負った日本では最初の作家に位置するのかもしれない。
 
 野間宏についての、全般的な説明はこのサイトに拠る。

 野間宏論では、ネット上に下記のサイトがある:
 相原 理乃「野間宏論」
 http://www.fujijoshi.ac.jp/dept/japanese_dept/sugamoto/guraduation-teses/gur
ad00/aihara/aihara-index.html
[↑このサイトも既に消滅。(05/04/30 付記)]

 最後に、本書を敢えて現代の事象に絡めていくことも不可能ではないだろう。愛国心がまたまた称揚され始め、憲法改正もまことしやかに囁かれ始めている。何かきな臭いものを感じるのは小生ばかりではないだろう。
 この動きが一気に加速した時、小生のような臆病者は、時代の趨勢にもついていけないが、さりとて流れに抗うような活動も、怖くて出来ないに違いない。
 しかし、戦争を助長する雰囲気がが風潮として蔓延した中にあって、敢えて自分を見失わず、己の道を探れるような人が増えてこそ、冷静で多様な観点からの考察や議論が可能になるのだと思う。
 いずれにしても、人間として自己を形成するのは、究極においては自分の覚悟以外にないのではないか、本書を読みながら、そんな思いに駆られたものだった。

                          (03/05/04)

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