三浦佑之『口語訳 古事記』
三浦佑之氏による現代語訳『口語訳 古事記』(文藝春秋社刊)を二週間ほどを掛けて、ゆっくり読んだ。
ゆっくり読むのがいいのか、それとも物語や語り口に合わせ、一気に読むのがいいのか、分からず、小生は時の都合が許さないこともあり、一日に二十から三十頁ほどのペースで読むことになった。
小生は、既に『古事記』は幾度となく読んでいる。近年だけでも、数年前には、次田真幸全訳注による『古事記 上中下』(講談社学術文庫刊)を読んだし、つい、二年ほど前にも、倉野憲司氏校注による『古事記』(岩波文庫)を読んでいる。
『古事記』は『日本書紀』と比べ、物語性が豊かで、読んで面白く、せっかく読むならいろんな方の手になる『古事記』を愉しみたいと思い、今度、昨年評判になった三浦佑之氏の手になる『古事記』を読むことにしたのだ。
この現代語訳の特徴は、物語の中に語り手であるご老体を登場させて、物語の中で筋の特徴や注意点を最小限入れ込むことで、本文だけで、物語の面白さを感じとれるようにした点だろう。
それでいて、傍注や地名・人名や系図などの資料も十分に備わっているので、突っ込んだ読み方をしたい人、出来る人にも配慮してある。
なるほど、最初に『古事記』を読むなら、この本からがいいと素直に思える。
さて、小生がはじめて『古事記』を通読したのは、そんなに遠い昔ではない。
読みたいという気持ちの半面、何か抵抗感があった。その由来を探ると、やはり「記紀神話」への偏見、というより、「記紀神話」に篭められた戦中の偏向した押し付け的解釈への嫌悪と警戒が大きく左右していたのだと思う。
しかし、十数年の昔より、日本の古代史や考古学を探る中で、『古事記』の持つ特異性というのは、結構、複雑で一筋縄ではいかないのだということが、自分なりに見えてきた。
それはまた、『古事記』の持つまさにオリジナリティにも関連する。
知られているように、日本の正史である『日本書紀』以降の歴史書には『古事記』は全く、触れられていない。それどころか、貴族等の日記などにさえも触れられることが(皆無に近いほど)希である。
また、『古事記』の序文が、素人が見ても、とってつけたようで、いかにも後世になって何かの意図があって書き加えられたものではないかと、つい、穿った見方をしたくなる要素もある。偽書や少なくとも禁書のそしりを完全に免れてきたわけではなかったのだ。
何故に『古事記』は平安時代も終わりになって(つまり、朝廷の力、貴族の権力が弱まってから)表に浮上してきたのか。きちんとした序文がありながら、正史の扱いがされないだけではなく、禁書に近い扱いをされてきたのは何故か、古代史や文学に疎い小生でも、興味津々となってしまうのだ。
さて、その『古事記』が『万葉集』と共に歴史の表舞台に浮上してきたのは、江戸時代である。その詳細に触れると話が長くなるが、本居宣長らの研究が大きいことは知る人も多いだろう。
その研究の動機として、本人の関心もあるのだろうし、もっと大きくは、長い鎖国で世界の流れから取り残されたような島国の日本にも、ようやくにして世界の魔手が伸びてくるようになった。西欧の植民地競争が一層、激化していた。遅かれ早かれ、その手が日本に届くのも目に見えている。
そんな中、世界の中で日本とは何かを考えるという風潮、過激になりがちなナショナリズムの傾向が勃興するのも無理はないのだ。
日本の独自性は何か、何処に日本の世界の中で屹立し得る精神的拠り所を求められえるのか。心有る人は、賢明に危機感を覚えつつ捜し求めたわけである。
その一つの焦点が天皇の存在だったり、『古事記』や『万葉集』だったりしたわけである(『日本書紀』も「記紀」として受け止められたのだろう)。
が、時代の切迫した背景もあってか、「記紀」への思い入れは過激なものにならざるを得なかった。「記紀」の内容は史実なのであり、天皇は絶対的存在なのであり、学術的研究も含めて偏向したものに、とても窮屈なものになってしまったのである。
戦後、軍国主義の呪縛が取れると、今度は逆の方向へ過度に流れ、「記紀」の内容は、ただの物語であり史実とは無縁だという方向に流れた。
その振り子運動は、今日までずっと続いてきたとも言えるような気がする。そうした解釈やリカのブレを嫌う一部の学者は、また、極端に学術的で専門的な注釈を旨とするようになって、『古事記』は素人には気軽に手が出せないし、読みづらい存在になってしまったのである。
そんな「記紀」の受容の歴史を思うと、この三浦佑之氏による現代語訳『口語訳 古事記』には、時代が変わったんだなという感じを覚える。基盤に学術的研究の成果を置きながらも、肩の力の抜けた物語としての、あるいは古(いにしえ)のある時には、このようにして語り部が語ったのだろうと思わせるような『口語訳 古事記』が登場したのだ。
小生の本書の受け取り方は、基本的にこのサイトの受け止め方と共通する。
要は決して古来より天皇の系譜が一筋に繋がっていたわけではないし、さまざまな基盤を持つ勢力が伍し合う中で次第に天皇制が形作られてきた。その経緯において、権力闘争もあったし、権謀術策の限りを尽くす勢力もあったし、消えていった(歴史の表舞台から消し去れた)系統もあったわけである。
そうした神話の時代(神話だから史実ではないということではなく、あくまで史書には残らない、残れない、消し去られてしまった、忘れ去られてしまった、あるいは曲げて伝わってしまった、その他、もろもろを含めての歴史の前史)があったればこそ、歴史の時代がはじまったのだ。
つまり「「古事記」は逆に内側の日本という国の、それも朝廷がかつてさまざまな滅ぼし埋め消して来た存在に対して一種鎮魂のニュアンスを込めて書かれた」書なのだということである。だからこそ、人間の欲望があからさまに描かれているのだ。「右だ左だといったイデオロギーとはまるで無関係」に読めるというのは、ありがたい。
日本は、北はロシアから、中国、朝鮮、東南アジア、あるいはペルシアも含めた文化の混交が特徴だ。民族的にも、多様な民族的背景があったようだし、その鬩ぎ合いがあったことを思うだけでも、何か雄渾な思いに浸ることができる。
最後に、できれば、早めに文庫本が出て、旅先で気軽に読めるようになってほしいと願って本稿を終える。
(03/04/09)
| 固定リンク
「書評エッセイ」カテゴリの記事
- 2024年8月の読書メーター(2024.09.04)
- 2024年7月の読書メーター(2024.08.05)
- 2024年6月の読書メーター(2024.07.14)
- 2024年5月の読書メーター(2024.06.03)
- 2024年4月の読書メーター(2024.05.06)
コメント
TBのお返し有難うございました。『古事記』の執筆者と執筆動機に関して、岡田英弘先生が中公新書『歴史とは何か』などの著書で、すっきり説明指定います。参考までに。またお越し下さい。
投稿: 旅限無 | 2005/04/29 01:07
旅限無 さん、コメント、TB、ありがとう。
岡田英弘氏について調べてみました。
松岡正剛の「千夜千冊」の「岡田英弘『日本史の誕生』」の項が面白かった。
岡田英弘氏『歴史とはなにか』については、「http://www.workers-net.org/liberekishi.htm」が参考になった。
投稿: 弥一 | 2005/04/29 12:05