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2005/04/13

網野善彦著『蒙古襲来』

 思いっきり話が変わるが、小生は今、網野善彦著『蒙古襲来―転換する社会』(小学館文庫)などを読んでいるが、6日夕方のNHKテレビでまさにこの話題そのものを扱った番組を放映していた。
「その時歴史が動いた 「異説!蒙古襲来」すれちがった日本と大帝国の思惑▽皇帝クビライの野望」という題名で、「その時歴史が動いた◇日本に襲来した元が撤退した1281年の弘安の役の真相を探る。鎌倉時代の日本を脅かした蒙古襲来は、元の皇帝クビライの領土拡大の野望によるものと考えられてきた。しかし大陸側の史料を読み解くと、クビライは当初、海洋交易の理想を実現するため日本との平和的な国交締結を求めていたことが分かった。だが外交経験に乏しい日本は元の真意を見抜くことができず、鎌倉幕府は態度を硬化させて元への返書を拒み、自ら元との対立を招いてしまった。やがて念願の南宋併合を果たし大海洋帝国に変ぼうした元は、抵抗を続ける日本を最初の攻撃目標として選び、大艦隊を博多へと差し向ける」といった内容。
 小生は、故・網野善彦氏のファンなので、彼の本を折々に読むのが楽しみである。
 その意味でタイムリーな番組を提供してくれたNHKさんに感謝だ。
『蒙古襲来』についての感想文を書くかどうか、分からないので、今のうちにメモしておく。
                         (2005.04.07記)


[本稿は、季語随筆「朧月…春の月」から書評関連記述の抜粋です。メモだけなので、後日、中身に触れたいのだけど…。]
[このたび、書評とはいかないものの、なんとかメモに上積みだけはすることができた。別頁へどうぞ!(05/04/17 記)]

 今週は車中では待機中などに網野善彦著『蒙古襲来―転換する社会』(小学館文庫)を読んでいた。
(以下、原則として敬称を略させていただきます。それだけの存在だということもあるし)
 過日、紹介した横井清著『的と胞衣 中世人の生と死』(平凡社ライブラリー刊)と関連付けて選んだ本ではないが、結果的に日本中世史という括りでは重なる部分もある。
 実際、『的と胞衣』では、『蒙古襲来』に限らず、網野善彦の著作などが幾度も参照されていた。
 驚いたのは、『蒙古襲来』の中でも横井清の仕事に何度か言及されていたこと。
 驚いたというのは、横井清の仕事は差別とか賤民など、かなりテーマ的に絞られているから、ややテーマ的に広い網野善彦の仕事からすると名前が出てくるとは、期待していなかった。
 が、驚く小生が無知だったことを示しているだけで、研究上、網野善彦の叙述が時に横井清が探究している領野に及ぶことがあるのは、また、言及せざるをえないのは、自然だし当然のことなのだろう。

 さて、小生には、網野善彦の研究や書物から学ぶことはあっても、研究内容を忖度できる能はない。よって、以下、個人的に興味を惹いた部分を脈絡なく羅列していく。

『的と胞衣』を読んでいて、「天狗草紙」なる絵巻物の存在を知ったことは、『的と胞衣』の感想文の中で触れている。
 それは、「天狗草紙」の中に「一遍の尿を乞う人々」という場面があり、また、その場面が描かれた箇所の写真が掲載されている……その場面というのは、「一遍が竹の筒に尿を差し入れ、その尿が万病に効くと信じて民衆がおし頂いている様が台詞付きで描かれている」のだということだった。

『蒙古襲来』という本は、テーマが蒙古襲来に行き着いているのだが、実際は鎌倉幕府や朝廷の内紛、大変貌を遂げつつある中世の庶民から貴族、武士、非差別民らの様子などを丹念に描き出されている。実際の襲来の場面の叙述は600頁ほどの厚みの中で、どれほどもない。
 さて、世相が蒙古襲来という未曾有の出来事、あるいは長期的には襲来への怯えと備えを意識しての、武士(幕府)側の朝廷権限への侵犯、あるいは関東などに限られていた幕府の権限の九州を始めとした全国への拡大、という側面が見て取れる。朝廷は内紛に明け暮れるのみだったが、幕府は内紛を抱えつつも、武士らが実際の事に当たるしかないという現実を前に、結果的に武士が政(まつりごと)を差配するようになっていくのである。
 庶民の次元からすると、世相の変化はひたすらに不安なばかりで、日蓮の存在が光り、一遍に救いを求め、あるいは一向衆のように、踊り念仏に明け暮れるようになっていったりもした。
 しかし、一向衆などの集団の動き(それを支持ないし共感するかのような勢力)に反発する既成勢力の側の動きもある:

 幕府だけではなく、こうした集団に対する憎悪と蔑視は、さまざまな方面からあらわれてきた。永仁四年に成立したといわれる『天狗草紙』は強訴(「ごうそ」…本書では「ごう」は違う表記だが、PCでは見当たらなかった:小生注)にあけくれる僧兵たちを、驕慢のあまり、天狗tなり、魔界に落ちたものとする一方。丹波の篠村の深山で天狗たちがあつまり、世間の人々を専修念仏になし、そして「念仏する時は、頭をふり、肩をゆりて、おどる事野馬のごとし、さはがしき事山猿にことならず。男女根をかくすことなく、食物をつかみく」う一向衆を罵倒し、「放下(ほうか)の禅師と号して、髪をそらずして烏帽子(えぼし)をき、坐禅の床を忘れ、南北のちまたに佐々良(さらら)すり、工夫の窓をいでて、東西の路に狂言す」と遍歴の禅僧を非難した。それはこの草紙の作者にとっては、「異類異形」の天狗たちに操られた人々の行動にほかならなかったのである。
(p.483-4)

 横井清の仕事との関連では、「「差別」の萌芽」という項が立てられてあって、「鎌倉時代に成立したという『塵袋』」の中の「穢多(エタ)」という文字を指摘したり、『天狗草紙』を参照している。『天狗草紙』はなかなかにナイーブには受け止めていい書ではなさそうだ:

 またさきの『天狗草紙』は、ここかしこに「遊行」し、「興宴」したある天狗が、四条河原に出て肉食をしようとしたところ、針を刺した肉を知らずにつかみ、ついに「穢多童子」に「首をねち殺され」たという話をのせている(いまのところこの文字の初見はこの詞書である)。この筆者も『塵袋』の見かたと同じ視角に立つ人であったが、「遊行」する天狗を被害者にしている点、もう一つ手がこんでいるといわなくてはならない。「触穢(じょくえ)」の思想の根源と
その浸透を追求した横井清氏は、このような見かたは「仏家(それも浄土教系のそれ)であったか、もしくは浄土思想に骨髄まで侵された公家」のものと推定したうえで、そのような見かたをあえてしたものはけっして民衆ではなかったと断言しているが、まさしくそのとおりであろう。 (p.486)


 富山といえば、越中の薬売りを連想する方もいるかもしれない。中世に限らないのかもしれないが、中世には偽文書を持って全国を自由に動け回る特権を持つ人々が数知れずいたという。多くは平安時代のいずれの天皇から特権を貰ったといった「由緒書」が伝わっていたりする。鋳物師、木地師などの職人や芸能に関わる人々が有名だが、そんな中、「巡回の薬売も偽文書をもっていた」というのだ。「これも綸旨らしきかたちをもち、陽成天皇のとき以来、諸国の市や郷・薗(その)で、薬の自由な売買ができたという特権を記し、元慶二年(八七八)という古い年号のものである。たぶんこのばあいも、それを裏づける由緒があったに相違ない」という。
 こうした、幕府の権能の及ばない、明確化された身分秩序の位階から食み出す、全国を移動して止まない人々が相当程度に中世にはいたということのようだ。
 こうした人々は幕府よりも朝廷やその息の掛かった勢力の土壌となったりする。芸能などに携わる人々が差別されたりするようになればなるほど、明確な根拠のない由緒に縋っていく。つまり、また、朝廷など権威がますます高まる結果となるわけだ。
 権力は幕府に奪われつつも、権威などの形で隠然たる力を朝廷の側が保ちつづけ、やがて朝廷の側が幕府に歯向かい、幕府の側も内紛と自滅とも相俟って、戦国の世に至っていく。
 話はずれてしまったが、越中富山の売薬さんの淵源など、そのうち、改めて調べて見たい。

 本書『蒙古襲来』を読んでいて、驚いたのは、せんだって読んで感銘を受けたばかりの折口信夫の名前が出てきたことだった。
 それは、傀儡師(くぐつし=「平安時代以降、人形を操ったり、今様をうたったりして各地を漂泊した芸人。のちには芸妓・遊女の称」←「大辞林 国語辞典 - infoseek マルチ辞書」より)・白革造・鞍打・轆轤師などの職人、魚売・鳥売、獅子舞、白拍子、博打らが、幕府の権力に隷従せずに済み、遍歴する自由という特権を持っていたと書いたが、ちょっと驚いたのは、「芸能のなかに武士もあ」るという指摘。「兵(つわもの)の道」、というわけである。
 そして、ここに折口信夫が登場する:

 折口信夫氏はかつて「無頼の徒の芸能」という短文のなかで、武士という語の起源は野伏・山伏の「ぶし」であるとし、武士は「無頼の徒」と同様、「土地をうつしていく」、いわば遍歴するのが特徴だといいきっている。これはまことに鋭い勘といわなくてはなるまい。中世前期の、とくに西国の武士はたしかにこのような性格をもっていた。幕府から各地に地頭職をあたえられた東国御家人、蒙古襲来のときに西国に移住した東国の人々も、いちおう、その例とすることはできる。しかし、むしろ西国の下司・公文(「中世、貴族の家政機関で文書を扱った役人」、あるいは、「中世、荘園の下級荘官の一。荘園の管理事務をつかさどった」←「大辞林 国語辞典 - infoseek マルチ辞書」より)こそ、その好例である。かれは、一つの荘園の下司・公文だったわけではない。国内のあちこち、ときには他国の荘園でも荘官をやっていることがある。まさにこれは「武」を「芸能」とする職人であった。(p.377)

 最後に、せっかく網野善彦の著『蒙古襲来』を読んでいるのだから、「元軍敗退の原因」を網野善彦がどう、見なしているかを紹介しておく。蒙古の襲来があったとき、暴風雨があって、蒙古を撃退してくれた。あの暴風雨こそが「神風」だ。神風が吹いたのだ…という臆説:

 たしかにこの偶然の大暴風は、元軍の大挙上陸によっておこったであろう甚大な犠牲から、日本人を救った。神仏の加護を信ずる当時の人々がそれを「神風」と考えても無理ない情況はあった。しかし元軍の壊滅の原因は、一夜の暴風のみにあったのではない。すでにたびたび述べてきたように、それはきわめて根深いものとみなくてはならない。
 究極的には、その原因を征服者によって組織された異民族のよせあつめの大軍の弱さにもとめることができよう。世祖(せいそ)のいだいた不安はそのまま現実となった。すでに農業的な中国帝国の覇者と変質したモンゴル、勇敢な高麗の海上勢力を壊滅させたモンゴルが、征服者として組織した軍は、いかに量が巨大でも、最初から往年の迫力を欠いていた。
 そのうえ、専制的な強制によって建造された船、とくに江南軍の船は、中国人の船大工が手をぬいたといわれるほど弱かった。加えて、宿敵の間柄のものをふくむ大将たちの行動には、最初から統一が欠けていた。東路軍の奇妙な動き、全軍集合のいちじるしい遅延など、種々の偶然がかさなったとはいえ、とうてい、緊密な意志でむすばれた艦隊にはおこりえないことといえよう。台風の季節到来前に上陸する計画は、こうして機を逸していったのである。元軍の侵攻は、失敗すべくして失敗したといわなくてはならない。
 しかし、日本の側も矛盾だらけであった。「挙国一致」などとはお世辞にもいえない。たしかによく戦った武士もたくさんいた。また、見かたによって「執権政治の最盛期」ともいわれるだけの力量をもつ幕府は、よくそれを発揮したということもできよう。しかし、軍役の過重をきらい、戦わぬ武士たちはあとを絶たず、また武家も公家も深刻な対立を内にかかえていた。それがバネになり、かえって異常なほどの強気な姿勢や活力が出てきたことはあったとしても、これは逆に内部の対立をさらにいっそう鋭くする性質のものだったのである。もしも外からの力がもう少し強く作用したならば、矛盾はたちまち表面に露呈したであろう。
 それゆえ、時宗を「偉大で英雄的な青年執権」などと考えるのも、まったく事実に反している。まえにも述べたような、二人の実力者泰盛と頼綱の鋭い対立の上にのった時宗に、いったい何ができたというのか。時宗は伯父経時の子、鶴岡八幡宮別当頼助に命じ、しきりに異国降伏の祈祷を行わせ、みずからの血で経文を書写し、無学祖元に供養させたという。実際、時宗にはそのくらいなことしかできなかったのかもしれぬ。いずれにせよかれの心中の混乱と分裂はきわめて深いものがあったにちがいない。時宗の力量をもし評価するとすれば、偶然にもささえられつつそれに耐え、元軍襲来中には、どうやら二人の対立を表面化させないですんだことにもとめられる程度と、私は考える。(p.293-4)

 網野善彦の評価はともかく、「神風」頼み・待ちの姿勢だけはいただけないのだろう。歴史は現代や未来への示唆に富む。過去をしっかり学び取る必要があると、つくづく思う。
(世祖(せいそ)とは(フビライ・ハン)のこと。「文永・弘安の役」などネットでは、情報が豊富である。「無学祖元」についても、しかり。ネットは便利だ。


[本稿は、季語随筆「はなにあらしの…春愁」から書評感想文の部分を抜粋したものです。 (05/04/17 追記/転記)]

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