三木成夫著『人間生命の誕生』
小生の敬愛する三木成夫氏の著を読み始めて10年ほどになる。何処かの書店で名著『胎児の世界』(中公新書刊)を見つけ、ざっと読んで、これは間違いない本だと直感し、即、購入し、一気に読んだ。
その頃、小生は窓際族で精神的にも瀬戸際にいた。会社ではもう身の置き所がないことは分かっていたが、さりとて自分に身の振り方を考える知恵などない。
92年の頃には、一応は役職にありスケジュールの押し詰まった仕事を一人で抱えて、毎日遅く帰宅し、夜、寝入ろうとしても心臓が異常な動悸を打って苦しく、眠れない、そんな日々が続いた。
もともと生活力のない人間だったが、それでも根気のよさのようなものがあって、ひたすら一人で耐え忍んでいた。何を耐えていたのか、自分でも分からない。
とにかく生き延びることのみを考えていたのかもしれない。
そんな頃に上掲の本を見つけたのである。胎児の世界…。
『胎児の世界』は、副題に「人類の生命記憶」とあるように、単に胎児の世界のみに関わるのではなく、広く深く命に関わる暗示が豊かに示されているように感じた。自分に枯渇して久しい生命感をもう一度、感じられるかもしれない。命の泉に辿り着けないまでも、泉から湧き出る水のせせらぎにも似た何かへの予感を覚えることができるかもしれないと感じた。
幾度も読み返し、今日に至るまで生前は必ずしも多くはない著書を目に付く端から購入してきた:
『内臓のはたらきと子どものこころ』(築地書館1982年、
増補新装版1995年)
『胎児の世界』(中公新書1983年)
『海・呼吸・古代形象』(うぶすな書院1992年)
『生命形態学序説』(うぶすな書院1992年)
『ヒトのからだ』(うぶすな書院1997年)
『人間生命の誕生』(築地書館1996年)
その他にも『生命形態の自然誌/第1巻』(うぶすな書院1989年)があるが、これは未だ入手できていない。
94年には小生は、会社から解雇を言い渡されたのだが、その年、青土社より「現代思想1994年3月号「三木成夫の世界」」が出たのは、せめてもの慰めだった。
『胎児の世界』については幾度も触れているし、既に識者も含め多くの方が名著として挙げられている。三木成夫を賛美する作家・思想家は数知れない。吉本隆明をはじめ、養老孟司、中村雄二郎、市川浩…。
「著名人、三木成夫を語る」という恰好のサイトがあるので以下にアドレスを
示す。
上記の中には挙げられていないが、挙げて欲しい一人に松岡正剛がいる。彼の「千夜千冊」の中でも、『胎児の世界』が採り上げられている。松岡氏が若い頃、三木成夫と会った際のエピソードも書かれていてなかなか面白い読み物になっている。
いずれにしても、本書は、もっと早く何故読まなかったかと悔やまれた一冊であった。小生は、医学(史)や解剖学関連の本を(啓蒙書に限るが)読んできただけに、迂闊だった。
そういえば、吉本隆明氏も、本書(そして三木成夫)をもっと早く知っていれば自分の思想に影響していただろうと語っている。最近の吉本氏の著書には必ずといっていいほど、三木の思想に一章が割かれているのである:
『心とは何か 心的現象論入門』(弓立社刊)
(下記のサイトで、本書の書評が読める:
http://www8.ocn.ne.jp/~washida/011005.htm )
『時代の病理』(吉本隆明・田原克拓/春秋社刊)
『胎児の世界』の中で一番、ドラマチックな部分そして恐らくは三木解剖学の業績というのは、『海・呼吸・古代形象』の解説の中で吉本隆明氏が語るように、「人間の胎児が受胎32日目から一週間のあいだに水棲段階から陸棲段階へと変身をとげ、そのあたりで母親は悪阻になったり、流産しそうになったり、そんなたいへんな劇的な状態を体験する。こんな事実を確立し、まとめたことだとうけとれた。」
海で生れたとされる生命が進化し水棲の段階から陸棲の段階へと移行する。想像を絶する進化のドラマがあったのだろうし、無数の水棲の動物が無益に死んでいったに違いない。その中のほんの僅かの、つまり水棲動物としては出来損ないのほんの一部がたまたま陸棲可能な身体を獲得したのだ。
そんな劇的なことがあるはずがない…。が、成し遂げた個体があったわけだ。当然、両棲の段階もあったのだろうが、何かの理由があって一部の種は陸棲を強いられ、身体的な危機を掻い潜らざるを得なかったわけである。
そのドラマを一個の卵の成長の、特に「受胎32日目から一週間のあいだに」(つまり水棲から陸棲への移行という産みの苦しみの時期に)生じる胎児の身体的大変貌を解剖学的に研究し、誰にも分かるように指し示してくれたのである。
この惨憺たる苦心の経緯を読むためだけでも、『胎児の世界』を読む価値はある。
さて、前振りが長くなった。肝心の『人間生命の誕生』である。ここは、出版社(築地書館)自らの宣伝でお茶を濁しておく。
本書の中でも触れられているのだが(p.42)、手の冷たい人は心が暖かいというのは、俗説ではないと三木氏は語る。
簡単に言うと、血液を内臓系にやるか体壁系にやるかをとりしきるのが交感神経系なのだが、なかなか両方に均等に血液を流れることはなく、日常的にはどちらかに偏っていることが多い。
小生は手が暖かく、ガキの頃、学校で粘土細工の課題があると、粘土がすぐに乾くので、やたらと水を粘土に注ぐか、あるいは手の平を水に浸さなくてはならず、周りの人を見回しても、そんなに頻繁に水を使っている形跡は見られず、一人気まずい思いをしていた。
その後、手の暖かい人は心が冷たく、手の冷たい人は心が暖かいという<俗説>を聞くのだが、きっと手の冷たい人への慰めの言葉なんだろうと自分に言い聞かせながらも、ずっと気に掛かっていたのである。
それが解剖学的に裏付けられたというわけだ。ここで心と内臓系が相関されていることに注意して欲しい。
実は、ここから三木解剖学の思想の含意の豊かさがあるのだ。この点は、別の機会に触れたので、ここではもう擱筆させていただく。
最近、ソニーマガジンズより、『こうして生まれる―受胎から誕生まで』(アレグザンダー シアラス (著), バリー ワース (著), Alexander Tsiaras (原著), Barry Werth (原著), 古川 奈々子 (翻訳), 中林 正雄)が出た(小生は未入手)。
「内容(「MARC」データベースより)」は、「今、赤ちゃんに何がおこっているのだろう。世界初、受胎の瞬間から赤ちゃんの成長を追って新生児が誕生するまでのプロセスを最新技術で再現。400点を越える美しい画像が生命の神秘に迫り、すべてを明らかにする。」とのことである。興味津々。
海の彼方で無益に人が殺されていく。その一人一人が生命の奇跡の賜物だと思うのだけれど。
(03/04/03)
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