小林忠著『江戸の画家たち』
小林忠著『江戸の画家たち』(ぺりかん社刊、〔新装新版〕)を読了した。小林忠氏の本を読むのは、『墨絵の譜 1』(ぺりかん社刊、同書の2もあるが未読)以来だ。
小林忠(こばやし ただし)氏については、「学習院大学哲学科」を覗かれると、略歴や研究分野、著書、趣味などがご自身の手により、示されてある。
著者の仕事中の勇姿も。
在籍される大学や学科などを移籍される可能性が、それに伴って、情報が削除される可能性も皆無とは言えないだろうと思われるので、研究分野だけ以下、示しておく:
「日本近世・近代美術史、とりわけ江戸時代の絵画を研究対象としています。江戸時代は、長期にわたる国内の平和と安定の中で、東洋・日本の美術の伝統を深く内熟させ、充分に醗酵させた時代でした。また、厳格な身分制の中で各層の美術がそれぞれ独自に開花し、展開すると同時に、京都と江戸の両都市を中心として各地に地域の特色を盛り込んだ美術が興って、その多様さには目をみはるものがあります。狩野派や土佐派などの御用画派、琳派や浮世絵などの民間画派、そして文人画や洋風画など知識人層に支持された絵画傾向など、あれやこれや魅力的な対象に目移りがして困惑させられるほどです」
(転記終わり)
本書『江戸の画家たち』の表紙の画像や目次をネットで見つけた。
まさか当面、削除などされないと思われるが、万が一のため、転記しておく。複数サイトに情報があったほうが、何かの役に立つだろう:
「すっきりと江戸の絵を読む 探幽、春信、北斎、応挙、宗達、光琳、若冲、蘆雪ら、江戸の絵画史を彩る数十名の画家たちは、何を主題とし、どんな技法を用いたのか。また、詩書画一体の画賛物鑑賞の楽しみを語り、該博な知識にのせて絵画の”本歌どり”見立絵を縦横に読み解く。カラー・モノクロ図版多数収載。目次●江戸時代絵画 軽淡の美-序にかえて 第一章 得意の技法 円山応挙の付立/浦上玉堂の擦筆/森狙仙の毛描/俵屋宗達の彫塗/懐月堂安度の肥痩線描/土佐光則の白描/池大雅の指墨/長沢盧雪の水墨/伊藤若冲の筋目描/中村芳中の垂込/久隅守景の外隈/与謝蕪村の草画 第二章 好みの主題 狩野探幽と吉祥画/英一蝶と風俗画/葛飾北斎と漫画/酒井抱一と花鳥画/祇園南海と四君子画/鈴木春信と見立絵 第三章 画賛物の楽しみ 正月・刈田に鶴図/二月・墨梅図/三月・紙雛=犬張子図/四月・花見又平図/五月・卯の花にほととぎす図/六月・夏の皮切図/七月・文読む遊女図/八月・筍竹蜻蜒図/九月・月に雁図/十月・山水図=詩書軸/十一月・蓑虫図/十二月・読書図自画像 第四章 見立絵の鑑賞 蟻通明神と恋する女/普賢菩薩と美貌の遊女/寒山拾得と湯女や町娘/源氏物語のヒロインと浮世の姫君/在原業平と燕子花/酸吸の三聖と和漢の三美人/隠逸の高士と行楽の二美人/王朝の才媛と江戸の遊女/納涼の農夫と町人/法衣の達磨大師と被衣の貴婦人/竹林の七賢と七妍そして七犬/遊女の夢と野菜の涅槃 ほか」
(転記終わり)
目次の末尾に、「ほか」とあるが、小生が見たかぎりでは、「あとがき」「初出一覧」「人名索引」だった。
本書は性格からして、画像が豊富なのが嬉しい。『墨絵の譜 1』同様、小生には実物を見る機会が、まずはないだろうと思われる作品の写真と説明を得ることができた。
けれど、本書は上にもあるように、〔新装新版〕と銘打ってある。これが不満である。別に内容が古い、それを今更出してどうするの…という意味じゃなく、本書に登場する人名や書名、事項名の大半にルビが振ってないのである。
小生のような素養のない人間は読者として想定していないのだろうか。それとも、教育者として読めない漢字は自分で調べろ、その労苦を厭わないほうが、勉強になるということなのか。
でも、ぺりかん社さん、それとも、小林忠氏には、ルビを振る労をとっていただきたかった。読めないと歯痒い。小生のように車中で読んだりすると、画数の多い漢字だと、目が点になってしまう。老眼の度が進んだら、どうしてくれるの!って言いたくなる。
ま、瑣末なことだけど、本書を書店で手にして、ああ、読めない漢字のオンパレードだ、ということで、購入を断念した人も一人や二人はいたんじゃなかろうか。
こうなったら、オイラも、以下、ルビ、付さないでおく?!
いきなり脱線してしまった。
文句は言ってしまったが、読んで、そして眺めて楽しい。実物を見たら、もっと楽しいのだろう。『墨絵の譜』を読んだ頃は、画廊巡り、展覧会めぐりを盛んにやっていて、書籍の中で扱われている絵の一部を実際に見てきたことがある…という感激などがあり、また、現物が写真で、どのように印象などが変化するかを自分なりに確認できたこともあった。
墨絵の、筆先の運び一つで竹を竹の節を、笹の葉を、鳥の愛らしい姿を、鳥の目を、林の奥行きを、霧や霞を、遠景の山々を、人の表情を、高名なる美人の艶やかな姿を描く、その見事さ。
せっかくなので、ネットの強みを生かして、順不同な形で、本書に扱われた作品乃至は関連する画像を見ていただこう:
「葛飾北斎 北斎漫画 二編」
「池大雅の指墨」
「壊月堂安度▼ 玩具を持つ立美人」
「出光美術館 所蔵品紹介」ここでは、テレフォンカードの図柄に選ばれた勝川春章、壊月堂安度(かいげつどうあんど)、仙崖禅師(正しくは「崖」の字から山を除くらしい。山がないのに崖とは、これいかに?!)などの所蔵品の幾つかを見ることができる。
渡辺崋山の絶筆と思われる作品「黄梁一炊図」がネットでは見つからなかった。代わりに、「田原市博物館」では崋山の作品の画像の幾つかを見ることができた。
「豊干・寒山拾得図」
「伊藤若冲 野菜涅槃図…菜虫譜」←見て楽しいよ。情報が削除される恐れがあるので、早目に御覧あれ。本書『江戸の画家たち』が刊行された頃には発見されていなかった伊藤若冲ワールド躍如だ。
本書を読んでいて、木下長嘯子(きのしたちょうしょうし)という歌人の存在を知ったのも収穫だった。素養のある人なら、何よ、今更なのだろうけど。「木下長嘯子 千人万首」
「歌人木下利玄は次弟利房の末裔」だってのも、初耳。
疲れた! あとは、目次の言葉をキーワードにネット検索してみてほしい。
本書の中では、「夕顔のさける軒ばの下涼みをとこはててれ女(め)はふたのもの」という歌が登場してくる。
評釈は、上掲の「千人万首」にもあるが、本文(小林忠氏の文章)から引用すると、「軒端に架けた夕顔棚に白花が咲く夏の頃、仕事も夕餉も終えて夫と妻が、褌(ふんどし=てれれ)と腰巻(ふたの物)だけの半裸になって夕涼みを楽しむ、これ以上の幸福をいったいどこに求めようとしてきたのか、あるいはしつつあるのかと、自問し、自答している」となる。
木下長嘯子については、「豊臣秀吉の甥として人もうらやむ立身をし、一城の主(あるじ)ともなったことのある長嘯子が、徳川の世となればそれゆえかえって時流から外れ、隠棲の身を余儀なくされる。そうした晩年にようやく至りついた、平凡こそ非凡という、思いがけない真実の了解だった」と本文にある。
この歌が援用されているのは、「」久隅守景 納涼図屏風」(「美の巨人」から)とか、「歌川豊広の夕顔棚納涼図」といった作品に対してである。
幸福の青い鳥は、きっと、目の前で囀(さえず)ってくれているのだろう。でも、よほど追い詰められない限りは、聞えない、見えないのが人間の常だったりする。
これまた収穫なのか人によっては常識なのか分からないが、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」は、十年程前の失業時代に読んだが、「江戸時代に出版された大衆小説は原則として絵入り本であり、戯作家(小説家)は多少とも絵心がなければつとまらなかったが、なかでも一九は作画を得意とし、寛政五年(一七九三)の江戸の出版界へのデビューは、なんと挿絵画家としてですらあった」という。おおー、である。そうだったのか。
しかも、「『東海道中膝栗毛』も、一九の自画にかかる軽妙な挿絵が加わって、より一層の興趣が盛上げられているのである。ユーモア作家の先祖としてばかりでなく、含蓄深い諧謔を絵によって伝える見事さにより、漫画家の祖ともなる資格を充分に備えた一九であった」というのだ。
本書では、十返舎一九画「夏の皮切図」の写真が載っている。ネットでは画像を見つけられなかった。この軽妙洒脱な絵には、「伊吹山 花のちりけも 春過ぎて そろそろあつき 夏の皮切」という狂歌が付せられている。
本文の中で説明されていなかったら、小生は平凡な歌として読み流してしまっていただろう。
歌意を解くヒントは、「この狂歌一首の内に、「伊吹山」「ちりけ」「あつき」「皮切」と、お灸にかかわる縁語が四つも織り込まれている」ことだといえば、もう、多くは言うなというところだろう。
「「伊吹山」の語は、伊吹山でとれるヨモギでつくった質のよいもぐさ、すなわち伊吹蓬(よもぎ)を連想させるものであり、「ちりけ」とはえり首の下、両首の中央の部分にある灸点でいわゆるぼんのくびのこと、「皮切」は最初にすえる灸の謂(いい)にほかならない」のであり、(中略)、「絵は、うしろ前に着物を着た男がうしろ向きに坐り、その背にすえた灸の様子を妻君とおぼしき女が見守るところ。はじめは本をひろげて余裕を見せていた亭主も、煙が高く立ちのぼるようになった今は読書どころではなさそうで、おそらくは「皮切の閻魔」といったあられもない形相をしているにちがいない。ことさらに向こうを向かせて苦痛を耐える顔をそれとは見せないところが、一九の心憎い演出というものである」というわけである。
なんとなく、一九の絵が想像できたろうか。
関係ないけど、一昔前までの映画やテレビドラマでも、お灸をする場面が珍しくもなく出てきたが、最近の作品ではめったにない。やはりプロデュースする人には、縁のない光景となってしまったということか。今は、もっと、品のいいお灸があるようだけど、昔のスタイルのお灸の場面は、見ている分には、滑稽だったりするのだったが。
さて、小生が図書館で借り出した『東海道中膝栗毛』に挿絵があったろうか。
というか、挿絵じゃなくて、読み手(眺め手)によっては、絵がメインであり目当てであって、『東海道中膝栗毛』は絵本なのだ。だったら、小生もガキの頃にだって気軽に読めていたのに(ガキに推奨するには内容的に高度(?)な部分もあるけど)。
「東海道中膝栗毛」と挿絵の関係など、あれこれの話題の豊富な「日本橋・八重洲・京橋:日本橋倶楽部連続講演(秋庭隆氏)」は、読んで楽しい講演だ。
本を読むのが嫌いだったし、苦手だったが、それでも次第に本を手にとる機会が増えていったが、最初は、図版とか挿絵のある本をできるだけ選んでいたのを思い出す。自転車に乗れない幼児が補助輪に頼るように。
本書を読んで、小生、挿絵は補助輪じゃなく、本文こそが付け足しで、絵がお目当てで本を読みつづけてもいいのだなどと、なんとなく勇気付けられたのだった。
[本稿は、季語随筆サイト無精庵徒然草「春の灸…青い鳥」(2005.04.29)から、書評部分を抜粋したものです。一部、改稿・加筆してあります。全文は、上記へ。]
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